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【マリア・テレジア】16人の子供を産んだ「女帝」の生涯を簡単に解説

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今回はフランス革命で処刑されることになる「マリー・アントワネット」の母である女帝マリア・テレジアをご紹介していこうと思います。マリアは名門ハプスブルク家の政治家で、ハンガリー王でもあり神聖ローマ帝国では女性が即位できないので夫のフランツは即位していたが、実権はマリアが握っていた。その女帝としての仕事と、生涯のライバルであるフリードリヒ二世との戦争の間に子供をこれでもかと産んでいためっちゃ元気な女性です。

 

今回は簡単に紹介していこうと思います。


 

 

幼少期

 

マリア・テレジアは1717年にローマ皇帝カール6世の長女として生まれました。

ハプスブルク家には王位を継承する長男がいなかったので、彼女は女性でありながら王位を継承することになります。なので、カール6世は長女であるマリアが王位を継承できるように、女王を認めてこなかったルールの変更、近隣の強国にも女王を認めてもらえるように力を注いだ。

 

とは言え、カール6世はマリアに王としての教育は許さなかったとされる。カール6世の考えはあくまでも、将来マリアが産むであろう息子(カールからしたら孫)に即位される意向であった。なのでマリアは教養の高い貴婦人として、イタリア語、フランス語、ラテン語を流暢に話す語学力、音楽や歴史について勉強することは許されたが、統治に関する教育を受けることは許可されなかった。マリアは密かに自身が統治する覚悟を固めていて、外国使節の人達との会話で外国の情報を得るなどして不十分ではあるが政治の勉強をしていたようです。

 

一方でマリアはこの時代には珍しく子供の頃から憧れ、恋していたフランツと結婚する。フランツはオーストリアの宮廷で養育されていた人物で、マリアが5歳のときに二人は出会うことになる。それ以来マリアはフランツに憧れ、思春期に差し掛かると彼のことで頭がいっぱいになり、女官からフランツの話を積極的に聞いていたようで、ただの恋する乙女状態だったらしい。1736年にマリアとフランツは結婚をする。二人の仲は大変良く、健康にも恵まれたマリアは16人も子供を産むことなります。

 

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オーストリア継承戦争

 

1740年にカール6世は亡くなり、ハプスブルク家の長としてオーストリアの王位を継承した。ここで問題が発生する。カール6世はマリアが即位できるよう生前に頑張っていたけど効果は全然なく、フランス、スペイン、プロイセンなどが反旗をした。マリアは政治的な教育を一切受けてなく無知であると、各国がこぞって評価していたのだ。ただ英国のみが、注意していたらしい。

 

そんななかでプロイセンのフリードリヒ二世は大の女嫌いである性格と、先代の軍人王ヴィルヘルム一世からの因縁もあって、富裕土地シュレジレンを攻めた。プロイセンの領土はオーストリア10分の1であり、フリードリヒはかつて父に処刑されかけたが、カール6世に助けられたことがあった。なのでマリアはプロイセンを敵として考えていなかったのだ。そう、完全に見くびっていた。それにマリアとフリードリヒは婚約の話が上がるような仲で、フリードリヒは結婚する気だったが話は破綻していた。

 

 

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そういう関係だった二人でしたが、二人は対立してオーストリアとプロイセンを中心にオーストリア継承戦争が勃発した。財政困難であったが、マリアは女帝として戦い自身の能力を証明していったのだ。またオーストリアの統治に反対していたハンガリーでは、子供を抱いて泣きながら演説をしてハンガリー人を口説き落して金銭や兵の調達に成功したと言う伝説もある。戦いをなんとか切り抜いたマリアは最初に奪われたシュレジレン以外はだいたい取り戻した。ローマ皇帝にも夫が即位して、オーストリア継承問題は解決した。

 

七年戦争

 

シュレジレンを取り戻したいマリアは国力の強化に勤めて寄せ集めの国にだったオーストリアを一つにして、軍事力を底上げした。さらにロシアの女帝エリザベータ、フランスのポンパドゥール夫人と手を組んで、プロイセンに侵攻したのだ。プロイセンを支援していたイギリスは植民地戦争で忙しいので支援はできない。ついにフリードリヒを追い詰めたが、ロシアの女帝エリザベータが急死してピョートル三世が継いだことでロシアは撤退。戦争は終結することになり、シュレジレンを取り返すことはできなかった。

 

その後

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1765年に夫のフランツが亡くなった。フランツは戦闘司令官、王としての能力は乏しく、オーストリア国民からも評価が低かった。しかし、優れた財政家であり企業家であったので、戦争の支援に大きく役立っていたのだ。それだけはなく、精神的な心の支えでもあったのでマリアは統治への意欲を失い生きることすら億劫になったと言う。

 

精神的に回復したマリアは息子のヨーゼフと共同の統治者となった。ヨーゼフを愛していたが、ヨーゼフの考えに賛同できない部分もあって実権を与えることはしなかったらしい。

 

1780年にマリアは散歩の途中に発熱して、二週間後に多くの子どもたちに囲まれて亡くなった。63歳でした。

 

最後に

 

初恋の人と結婚して多くの子供を産むなんてなかなかの人生ですね。ちなみに17歳で結婚して24歳頃には子供を4人も産んでいたようです。母としてマリーアントワネットを心配していたようで、マリーが嫁ぎ先のフランスで贅沢な暮らしをしていると聞いたときは、頻繁に手紙を送って夫に尽くすようにと綴っていたようです。しかし親心を理解されなかったようで、マリーはフランス革命の末に処刑されるんですけどね。マリアはフランス革命前には亡くなっているので、ある意味幸福だったかも知れません。

 

最後までありがとうございました。

 

 

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【エカチェリーナ二世】玉座の上の娼婦と言われたドイツ生まれの女帝について

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ロシア史上最も長い34年間も「大帝」の座ついたエカチェリーナ二世は、おそらく欲深い女帝であった。自身の夫に対してクーデターを起こして大帝の座を奪い、オスマン帝国の戦争に勝利してクリミア半島も獲得している。


性についても積極的だったようで公認の愛人が10くらいで、非公認が100人近くいたとか。なので孫から「玉座の上の娼婦」と皮肉を言われるような女帝でした。今回は欲望に塗れた女帝の生涯を簡単に解説できたらと思っています。

 

どうぞ最後までよろしくお願いします。

 

 

幼少時代

 

1729年にエカチェリーナ二世はプロイセンで貴族の娘として生まれました。子供の頃から我の強い人物だったようで、ガキ大将的な存在だったようです。10歳の頃には、後に結婚することになるピョートル三世と出会う。ピョートル三世は決して容姿が優れた人物ではなかったし、精神的にも問題がある人物であったが、血筋的にロシア皇帝に即位する可能性もある将来性のある子供であった。エカチェリーナ二世は本来、皇帝の妃になれるような家柄の子供ではありません。ですが、エカチェリーナの母の兄と、当時の女帝エリザベータがかつて婚約者の関係だったので、エカチェリーナはピョートル三世と妃の候補に上がった。

 

エカチェリーナは特別な血筋でもなければ特別な容姿を持っていたわけではありませんが、それでも彼女は自身の将来の安泰を確信していたようで、皇帝の妃になることを疑っていなかったとされる。

 

1744年。15歳になったエカチェリーナ二世は女帝エリザベータによってロシアに招かれた。エカチェリーナ二世は気に入れる為に、自身の中のドイツ人を消して、根っからのロシア人になる努力をした。睡眠時間を削り、体調を崩してでもロシア語やロシア正教の勉強していた。その努力もあって女帝エリザベータをはじめ、ロシア国民に、エカチェリーナ二世は気に入られたのだ。

 

その年にピョートル三世は天然痘に患いいっそう容姿が醜くなったが、エカチェリーナにはどうでもいいことであった。エカチェリーナは元からピョートル三世に興味はないが、玉座に関心があったからだ。1745年にエカチェリーナ二世と、ピョートル三世は結婚した。

 

結婚生活

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エカチェリーナとピョートル三世は愛し合ってはいなかった。(色んな意味で)ピョートルは女に関心がないようで、兵隊のおもちゃで遊んでいるような軍隊オタクだった。なのでエカチェリーナ二世は23歳まで処女だったらしい。そんな生活は何年も続かない。エカチェリーナは愛人を作り夜の経験をしたのだ。

 

それで困るのは愛人である。ピョートル三世に女性経験がないのは周知の事実だったようで、しかも包茎だった。その手術を受けさせるために、愛人はピョートルを上手く誘導したのだ。エカチェリーナもピョートルも責任から関係をしっかり持ったが、二人とも愛人との関係に溺れた。

 

1754年にエカチェリーナは愛人とピョートル、どちらの子供かわからない子を産んだ。

 

クーデター

 

1761年に女帝エリザベータは死去したので、ピョートル三世は皇帝に即位し、エカチェリーナ二世は皇后となった。だがピョートル三世は愛していないエカチェリーナを皇后とするつもりはなかったので、愛人を皇后とするように動き出した。エカチェリーナの性格からすると黙っているわけはないんだが、この時、愛人の子供を妊娠していたので、ピョートルの行いで国民からの同情を買う為にも妊娠を隠す必要があった。火事を起こしてピョートルが見物にいっている間に子供を産んだらしい。出産を終えたエカチェリーナはついに動き出します。

 

ピョートル三世は子供の頃からその幼稚な言動から、「王の器」ではないと言われていた人物でした。なので貴族たちの間でも、ピョートルの皇帝の座から下ろすみたいな話があった。さらにピョートルは女帝エリザベータのときから戦争していたプロイセンが尊敬するフリードリヒだったので国益を無視して戦争をやめたのだ。これで国民の信頼を完全に失っていた。

 

エカチェリーナのクーデターは簡単だった。誰もピョートルの味方をしなかったのだ。ピョートルは遠征に行っていたので、エカチェリーナは自ら先頭に立って先回りして攻めた。ピョートルの部隊は強引に着用させられていたドイツ風の軍服を脱ぎ捨てて、古風のロシア軍服を着て離反した。ピョートルはあっさり皇帝の座をエカチェリーナに譲渡して、エカチェリーナは「大帝」となったのだった。ピョートルは在位はわずか6ヶ月であったと言う。

 

即位後

 

エカチェリーナは、オスマン帝国やポーランドを相手に領土の拡大を実現していった。それらは優秀な愛人や元愛人の力もあったらしい。また教育面にも力を入れていたようで、女性のための学校を設立したりと教育システムにテコ入れをしたのだ。

 

エカチェリーナ二世はとにかく愛人を愛でた。肥満で歯抜けの老婆になっても、愛人になりたがる男は沢山いた。それは愛人関係が終わっても待遇が良く、寛容に接してくれたからである。

 

1796年にエカチェリーナ二世は脳卒中でトイレで亡くなった。

 

最後に

 

エカチェリーナは生涯死ぬまで女帝の座であった。これは結構スゴイことで、夫であるピョートル三世は6ヶ月でやめさせられるし、エカチェリーナの後を継いだ長男は5年間の治世で暗殺されています。こういう実例からも、エカチェリーナ二世が優秀な大帝だったと伺えると思いました。

 

最後までありがとうございました。

【エミリア・プラテル】ジャンヌに憧れたリトアニアの女性英雄について

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女性英雄の代表者と言えばジャンヌ・ダルクが一番有名だと思います。フランスで英雄に数えられるジャンヌは、ラ・ピュセルを自称して戦場に立って兵士を鼓舞したとされる。精神的支柱とも言えるジャンヌの活躍で、フランスは領土取り戻して、ジャンヌは「オルレアンの乙女」と称された。


ジャンヌは元々そこまで知名度の高い英雄ではなかったが、彼女の死後から400年くらい経った頃に現れた次世代のフランス英雄ナポレオンによって認知度が上がることになる。

 

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世界的に知名度を上げたジャンヌ・ダルクは、各国の勇敢な意志を持つ女性達に影響を与えた。


その一人であるエミリア・プラテルは、貴族の子でありながらジャンヌに憧れ、英雄と呼ばれることになります。今回はそんなエミリア・プラテルの生涯を簡単にご紹介していこうと思います。

 

 

 

幼少期

 

1806年に貴族の子供として生まれたエミリアでしたが、9歳のときに両親が離婚したことで親戚の引き取られ養育されることになった。

 

充分な教育を受けたエミリアはリトアニア・ポーランドへの強い愛国心を持ち、ロシアからの独立を願うようになったと言う。そのために武器の扱い方を勉強して、射撃や馬術は熟練の腕前を手に入れた。戦術、戦略も熱心に勉強していたので、19世紀の貴族の娘らしからぬ少女であった。

 

ポーランドの文学や詩、民衆文化に興味を持つ傍ら、エミリアは歴史についても熱心に勉強をしていた。

 

なかでも、トルコからの開放を目指したギリシャの英雄ブブリーナと、フランスの英雄ジャンヌ・ダルクに強い憧れを抱いたと言う。ブブリーナの肖像画を部屋に飾り、ジャンヌ・ダルクに対しては自身の理想の生き方であると崇拝したそうだ。ロシアからの開放に対して強い気持ちがあったエミリアにとって、フランスを開放した同性の英雄ジャンヌ・ダルクに憧憬を抱くのは当然のことであったと思う。また愛国心の強いエミリアは1829年にポーランド中を回った。

 

11月蜂起への参戦

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1830年にワルシャワの士官学校でロシア人教官の体罰によって、生徒達による反乱が起きた。長年のロシアからの圧でポーランドは国家としての力を持っていなかったが、ピョトル・ヴィソツキが若い士官を率いた反乱は、次第に大きくなりポーランドとリトアニア全体を巻き込む大きな反乱となった。フランスからも義勇兵や武器が密輸され混乱していく。

 

エミリアにとってこれはチャンスだったのではないだろうか。ポーランドで反乱が起こったが、リトアニアでは直接な動きはなかった、そこでエミリアは従兄弟と協力して、自らが志願兵を募って280人の歩兵と、数百人からなる農民による反乱軍を組織して蜂起への参戦を決めた。エミリアは自身の意思の強さを証明するように髪を短く切りそろえた。

 

ロシア軍に敗北することもあったが、従兄弟と合流して各地で反乱に参加しながらリトアニアを回った。エミリアの部隊はロシアの中隊を倒すなどの活躍もしたと言う。やがて全ての反乱軍が集結する。ここでエミリアは選択を迫られます。

 

フラポフスキ将軍は「ポーランド軍に女性の居場所はない。家に買えれ」とエミリアを説得したそうです。優しさでそう言ったのか、彼女を試したのかは定かでありませんが、エミリアは「私はポーランドが完全に独立するまで、戦士として戦い続けます」と軍に留まること意思を示した。20代半ばの少女と思えない発言。これに将軍は歓喜したようで来る戦いで、エミリアを連隊長に昇格させました。そして、エミリアはリトアニアの重要都市での戦いで英雄的な活躍をすることで大尉に昇進することになる。これは当時の女性としては最高の等級であり、女性であるエミリア・プラテルが歴史上の英雄達と並んだとも言える快挙であった。

 

英雄の死

 

全体で勝利をおさめることができたのはエミリア部隊くらいで、戦況は圧倒的に不利であった。最後には数で有利であったロシアの勝利が確定的になってしまう。フラポフスキ将軍は国境を越えて西方のプロイセインへの亡命を決めた。反乱軍のほとんどは亡命を決断していくなか、エミリアは「逃げるなら、死んだほうがマシ」と亡命を拒否して戦うことを決めて戦場に向かう。


しかし、エミリア・プラテルは二度と戦場に立つことはなかった。


罹患して戦場にたどり着くことなく亡くなったのだ。1831年の年末のことである。

 

最後に

 

エミリアの死はポーランド・リトアニアに直ぐに公表されることになり、彼女は蜂起を象徴になったと言う。第二次世界大戦では彼女の名前をあやかった部隊も誕生することになる。そんな感じでエミリア・プラテルは英雄と呼ばれることになるのですが、日本ではそこまで知名度は高くないと思う。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

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【ピョートル一世】ロシアを近代化に導いた職人皇帝

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ピョートル大帝はロシアをヨーロッパの強国に並ぶ巨大国家に成長させた人物で、反発もあったがロシアの西欧化を断行した。なかなか個性の強い皇帝で、2メートルを越す長身を持ち、若い頃には偽名を名乗ってヨーロッパであらゆる技術を学び、造船技術、歯科医、花火師、時計職人と14もの技能を体得して、後に「職人皇帝」とも呼ばれた。それだけでも面白いですが、亡くなる原因は皇帝らしからぬもので、真冬の海に投げ出された兵士を救う為に、海に飛び込んで感染症になって亡くなった。死ぬ気はなかったんだろうけど、咄嗟な判断でそれを皇帝がするなんてスゲーと思う。

 

そんな感じで皇帝らしからぬ言動が多いピョートル大帝の生涯を簡単解説していこうと思います。

 

幼少期

 

1672年に生まれたピョートルでしたが、父アレクセイの14番目の子供であったので継承権は低かった。アレクセイが亡くなり跡を継いだ兄が亡くなると、ピョートルは兄であるイヴァン5世と共同で統治することになる。と言ってもそんなものは形だけで、実権も握っていたのは姉であるソフィアでした。事実上、宮殿から追放されたピョートルでしたが、その間、外国人村に頻繁に訪れてヨーロッパへの関心を強めていたと言う。

 

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ソフィア↑↑↑↑↑↑↑


ピョートルが17歳頃にソフィアが失脚した。中国との外交に失敗してロシアが不利になる条約を結んだからだ。これによりソフィアは幽閉されることになり、ピョートルの母、イヴァン5世も亡くなり、ピョートルは単独で統治することになりました。

 

ヨーロッパへ

 

単独統治がはじまった翌年にピョートルはヨーロッパに使節団を派遣した。表向きは同盟国を増やすことが目的でしたが、ヨーロッパでは別のことに関心がいっていたので上手くはいかなかった。だけどピョートルは君主の身分を隠して「ピョートル・ミハイロフ」と言う偽名を使い自らが使節団の一人してヨーロッパの文化を学んだ。

 

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船大工として働いて造船技術を学んだり、博物館や植物園を周り、大学の講義を聞いたらしい。なかでも歯科治療に関心を持ち、後に家臣の歯を抜いたりしていた。

 

国家を大きくする上で最も重要だったのが海軍の設立だったので、約50人の貴族生まれの若者をイタリア、イギリス、オランダに送り込み、造船技術や海軍の在り方を学ばせた。また1000人の軍事や技術の専門家雇って、ロシア人に勉強させた。それ以外にも、ピョートルは沢山の武器や物産品を集めた。

 

大北方戦争

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一年中ヨーロッパを行き来できる土地が欲しいと考えたピョートルはスウェーデンと戦争を起こした。ただスウェーデンの国王は、「北方の流星王」と呼ばれたカール12世で、この国王は規格外の秀才でありナポレオンの先駆者と呼ばれる天才的な軍事能力を持っていた。このこともあり、ロシアとスウェーデンの戦争は大北方戦争と呼ばれて、20年も続くことになる。

 

最初はスウェーデンが優勢でした。子供の頃に熊を撃ち殺したことから「熊殺し」の異名も持つカールは戦争でも陣頭指揮を取り味方を鼓舞していた。幼少から帝王学、戦術を勉強していたのでその能力は段違いだったのです。しかし、それはスウェーデンの決定的な弱点でもあり、カール12世が負傷すると陣頭指揮を取れる人材がいなかった。ロシアは冬将軍、などの作戦もあり戦争はスウェーデンは逃げてばかりになり、気がつけばロシアの優勢になりました。

 

戦争に勝利してバルト海を獲得したピョートルはロシアを「帝国」として「大帝」と呼ばれることになりました。

 

ヨーロッパ

 

ピョートルは政策として貴族の服装を強制した。貴族の髪を切らせて、西欧式の正装の着用を義務付けた。ヒゲ税なんてものもあり、髭を切らないと税金を取られた。教育機関にも力を入れ、科学、フランス語、ラテン語、政府は海外留学を支援したりと、ヨーロッパに大きく遅れていたロシア社会を教育面でも改革していった。

 

ピョートルは軍事以外にも大幅にロシアを改革したのだ。

 

職人皇帝としての顔を持つピョートルは、家臣の虫歯を抜いていた。麻酔や消毒はなし。ペンチで直接抜いていたようで、出血は酷いは化膿するはと、悲惨だったようで家臣は虫歯になることを恐れたらしい。このことが幸いしてか、家臣は虫歯ができないように注意するようになり虫歯が減った。

 

最後に

 

皇帝になるような人物って「自分が一番だ」みたいなプライドが高い人物や、国家の在り方に謎の自信を持っている人が多いイメージがありますが、ピョートルにそんなものはない。ヨーロッパの文化が素晴らしいことを素直に認めて、積極的に取り込むことで、変化を怖がらなかった改革者だ。ただ、改革するうえでの資金はあくまでもロシアの国民から巻き上げた税金です。これが原因でソ連誕生にまで繋がっていったみたいです。

 

今回はここまでにします。最後までありがとうございました。

【フリードリヒ二世】親友の死で覚醒? 女嫌いな大王について

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今回は弱小国プロイセンをヨーロッパ随一の強国にまで急成長させて「大王」とまで言われたフリードリヒ二世をご紹介していこうと思います。

 

そもそもプロイセンってどこやねんって思う人もいるかもしれませんが、現代で言うところのだいだいドイツ辺りです。

 

軍事的な才能だけではなく、芸術への関心も強く多才な人物でもあった。まあ、才能がある王様なんてよくいますが、フリードリヒ二世の一番スゲーところは「君主は国家の第一下僕である」と啓蒙主義であったことでしょうか。つまり人格にも優れていたんです。自分で書いといてなんですが、本当に人格的に優れていたかは疑問ですが。

 

と言うわけでざっくりフリードリヒ二世をご紹介していこうと思います。

 

最後までよろしくお願い申し上げます。

 

 

皇太子の頃

 

フリードリヒ二世の本来の気質は母親に似て芸術を好む人物だった。なかでも音楽を好みフルートの腕前はプロ並で、演奏会を開く力量もあったとされる。これらは母の教育方針であったが、父は違った。

 

父であるヴェルヘルム一世は兵隊王、または軍人王とあだ名されるほど軍事改革で国を大きくした王で、多分やけど強さこそが全てみたいな王様だったのではないかと。そんな人物だったので自身が無教養でも成功したから、息子にも必要はないと決めつけていたのではないでしょうか?

 

実際、父の息子に対する言動はかなり過激でした。フリードリヒがフルートの演奏会を開くと、父は息子に対して、暴力、食事を与えない、監禁するとか。現代では間違いなく罰させられる過激な教育をしていた。フリードリヒはひたすら虐待に耐える生活を送っていました。

 

そんな生活を我慢できる人間になんていません。イギリス王女との縁談を聞きフリードリヒは逃亡を計画するのでした。信用できる人間を引き連れて早朝から動き出しますが、逃亡計画は筒抜けで直ぐに連行されてしまいます。このこと聞いた父はフリードリヒを処刑する意向を示した。どうしてここまで酷い処罰を受けることになったかと言うと、この頃の父王は暗殺されるかも知れないと怯えていたからです。まあ、タイミングが悪かったと。処刑されることはありませんでしたが、見せしめとして逃亡を手引きした親友が処刑されることになった。

 

親友が処刑される光景を窓から見ることを強制されたフリードリヒは「私を許してくれ」と叫ぶ。親友は「私は殿下の為に喜んで死にます」と言った。フリードリヒは親友の死、現実を受け入れることができすに失神してしまった。

 

フリードリヒは父に手紙を書いて許してもらうと、領地の管理を任されることになった。その後は父の言うことを聞き、気の進まない結婚をする代償に自由を手に入れたり、王としての教養を磨いたりしていた。

 

即位後

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1740年にフリードリヒ二世はプロイセン王国の王に即位した。即位すると啓蒙主義に趣きを置いた改革を活発に行った。拷問の廃止、宗教の寛容、オペラ劇場の建設、フランス語とドイツ語の二種類の新聞の発行、父の時代にほぼ廃止されたアカデミーも復興されることになる。国民が住みやすくする改革の一方で、父から受け継いだ軍隊は周囲の反対を押し切って更に強化した。ただし一部の機能していなかった軍隊は解散した。

 

宿敵マリア・テレジア

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隣国のオーストリアでは継承問題が勃発していた。オーストリアの先代の王カール6世に男の子供がいなかったので、マリア・テレジアが王位を継承するように根回しをしていました。カール6世はマリアが即位できるように相続書を作成して、イギリス、フランス、もちろんプロイセンでも承認していました。

 

しかし、マリア・テレジアがいざ即位すると反対の声が上がりました。これに乗じたのがフリードリヒです。自分が攻めれば他国も協力すると自負していたフリードリヒは宣戦布告もなくオーストリアに侵攻したのだ。

 

マリアはフリードリヒを「恩知らずのモンスター」と罵った。その後、オーストリア継承戦争が勃発したのですが、家族相続という形で相続問題を解決します。

 

だけど、マリアが納得するつもりがない問題があります。それはフリードリヒに奪われた領地です。マリアは長年のライバルであるフランスに、あのマリー・アントワネットを嫁がせてフランスと手を組み、さらにはロシアを味方にすることにしました。

 

先に先制をしたのはなんとフリードリヒ二世でした。プロイセンは20万人の兵力に対して、オーストリアは60万人。しかしフリードリヒは味方するはずだったイギリスに余力はありません。事実上フリードリヒたった一人で、オーストリア、フランス、ロシアを相手にすることになったのです。この戦争は七年戦争と言われて、七年間もプロイセンは耐えましたが、かなり追い詰められてしまいました。

 

ベルリンまで占拠されて絶対絶命。フリードリヒは自殺も考えたようです。そんななかで転機が訪れました。ロシアの女帝エリザベータが死去して、次の皇帝に即位したピョートル三世が面白いことに、フリードリヒ二世の大ファンだったのです。だからピョートル三世は軍を撤退させたのだ。フリードリヒはビックリしましたが、ピョートル三世に「救世主」と礼を言った。

 

ただ、ピョートル三世の判断は馬鹿丸出しで、ロシア国内での不安が膨らみ、妻であるエカチェリーナにクーデターを起こされて殺害されました。

 

七戦争の勝星の数で言えばオーストリアのほうが多かったが、プロイセン側に有利な条約を結ばせて戦争は終結した。このことで、フリードリヒ二世はプロイセンをヨーロッパ随一の強国としたのだ。

 

最後に

 

生涯の宿敵にもなったマリア・テレジアですが実は婚約の話もあるような仲でしたが、宗教の問題で最終的に破綻してしまいます。と言ってもフリードリヒ二世は女嫌いだったようで、妻との夫婦生活は一切なく、宮殿に妻が入ることも許さなかった。もし結婚をしていても、かなり仲は悪かったのではと思いました。父に虐待されていたからこそ捻くれたのかな? まあ、そもそも七戦争でフランスとロシアが敵に回ったのは、フリードリヒ二世が公の場で女性を侮蔑するような発言をしていたので、ロシアの女帝エリザベータや、フランスのポンパドュール夫人がフリードリヒを嫌っていたからです。

 

もっと言うと多分マリア・テレジアが王位を継承することをフリードリヒは良く思っていなかったからこそ、七戦争で自殺を覚悟するくらい苦しい戦争をすることになったやないかな

 

最後までありがとうございました。

 

 

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【チンギス・ハン】世界人口の半分以上?超巨大な帝国の基盤を築いた男


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中国、中央アジア、イラン、東ヨーロッパ、などを征服して世界最大規模の帝国を築いたモンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハンをご紹介していこうと思います。いろんな征服王をご紹介しましたが、世界最大の帝国を築いた彼こそが、本当の征服王でしょう。チンギス・ハン(カン)は本名ではなく皇帝としての名前で、チンギスは「荒れ狂う」とか「海」などの意味があって、ハンには「王」と言う意味があるそうです。「荒れ狂う海を支配する者」的な意味になるみたいです。かっけー。ちなみに本名は「テムジン」だそうです。

 

はい。と言うわけでこんな感じでチンギス・ハンをご紹介していこうと思います。どうかよろしくお願いたします。

 

幼少期

 

父親であるイェスゲイ・バートルは「勇者」の異名を持つ部族長で、王族とも同盟を結ぶモンゴルの有力者でした。いわゆる名家の出身者だったのですが、チンギス・ハンが9歳のときに敵対部族に父親が暗殺されてしまいます。そのことで、父の部下達は去ってしまい部族は崩壊してしまいました。自身も危険な目に幾度かあったが、順調に成長していったチンギス・ハンは14歳にして、部族を束ねていた。父親譲りのカリスマ性を遺憾なく発揮して、裏切り者を次々と倒していったと言う。この頃からチンギス・ハンは降伏するものは仲間に迎え入れ、敵対心を消さないものは、熱湯に放り投げて処刑した。モンゴルの遊牧民は戦闘を好む集団で、個人を重んじる集団であった。それを束ねていくチンギス・ハンのカリスマ性は異常だったと言えます。こうして敵対勢力を次々と攻略して、仲間に迎え入れたりしていき、モンゴルでも大きな組織にまで成長していきました。

 

モンゴル帝国

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44歳でチンギス・ハンは帝国の皇帝として君臨します。それまでに同族のジャムカとの戦いに敗北して、捕虜になったこともあります。部下は次々と処刑されていきますが、チンギス・ハンは持ち前のカリスマ性で敵を離反させて、寧ろ勢力を拡大していきました。ついにはジャムカを倒して帝国を建設するのです。

 

チンギス・ハンには離反する者が殆どいなかったとされる。それは徹底して裏切り者を処刑する一面もありましたが、一番は相手をしっかりと見極めるところだったようです。敵だろうと最後まで主人を裏切らない人物は積極的に採用していき温情を与えた。また、チンギス・ハンは部族長や部下に「貴族」の称号を与えて、征服した領土を分けた。元敵だろうと、それなりの地位と褒美を与えて尊重することができるチンギス・ハンだったからこそ、膨大な領地をまとめる王として君臨できたと思います。

 

最強の軍団

 

チンギス・ハンが率いたモンゴル軍団の特徴は機動力だった。一人一人に7頭から8頭の馬を貸し与えて、世界最速の機動力を保持していた。それを階級制度を導入して、千人隊、百人隊、十人隊、と数を正確に管理することで軍を指揮することを可能とした。それだけではなく、これだけの軍隊を二つ用意することで、一つの軍隊が攻めている間に、もう一つの軍隊を休ませることで、敵を攻め続けた。また、ヨーロッパの騎士が一対一の戦闘を好んだのに対して、モンゴルの騎馬隊は集団での戦闘を重んじて、統制を徹底していた。

 

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ホラズム・シャー朝との戦争では、モンゴル軍は10万人に対してホラズムは倍以上の戦力を誇っていた。それでもホラズムはまるで戦いにならかったという。

当時ホラズムは世界最大規模の大国で、シルクロードを領土にしていた。そのこともありヨーロッパとの貿易が盛んで物資も知識も行き交う盛んな国だった。イスラム教との中心国であり、世界で最も盛んな国といって過言はなかった。

 

それだけの国だからこそチンギス・ハンは貿易を望んだが、ホラズムの王はこれを断った。互いに有利な立場を保とうした結果、大きな戦争に発展したわけだ。

チンギス・ハンが率いるモンゴル軍は、最初こそ手こずったが、持ち前の機動力と適応力を発揮していって、圧倒的な差を見せ付けて倒してしまった。


ただ、倒すのではなく、歯向かう者達は徹底的に虐殺する反面、降伏する者は宗教まで受け入れる寛容さをみせた。

 

ホラズムの王は肺炎で死ぬまでチンギス・ハンに追われ続けたと言う。元々西に侵攻するつもりはなかったチンギス・ハンでしたが、「敵」と判断したら徹底的に侵略してしまい、結果的に大帝国を建設したのでした。そんな感じでヨーロッパデビューも果たしたようです。

 

最後に

 

チンギス・ハン当時としては長寿で65歳で亡くなりました。一代で世界の四分の一を制覇したので、子孫を沢山残したわけです。とある調査ではアジア各国にチンギス・ハンの遺伝子を受け継いだ人達がいるとか。遺伝子的にも世界を征服したわけと言うわけ。

 

帝国の継承者はチンギス・ハンの三男が継ぐことになります。かつてチンギス・ハンの嫁は敵に捕まったことがあったのですが、捕虜から開放されると妊娠していたようです。そんな経緯もあって長男が、チンギス・ハンの実子なのか訝しむ声もありました。その意見を主張する次男は、正式に長男を攻めてしまいます。後に長男は実子であることがわかりチンギス・ハンは後悔して、三男を後継者としました。


その後、四男の息子、チンギス・ハンの孫に当たるフビライ・ハンが歴史の表舞台に登場するのです。

 

ここまで終わろうと思います。最後までありがとうございました。

 

軍神・坂上田村麻呂について簡単に解説

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中学くらいの教科書に「坂上田村麻呂」が征夷大将軍になったと書かれていました。名前だけで詳しいことは書かれていなかったので、後に征夷大将軍になる源頼朝とか、徳川家康などから勝手に幕府を開く権限のある強い人物だと思っていたんです。

 

それが全く違うことを知りました。本来、征夷大将軍とは朝廷の敵を排除する役職らしく、征夷とは蝦夷(当時の東北辺り)を指すようです。

 

今回は征夷大将軍としての本来の仕事を全うした坂上田村麻呂をご紹介したいと思います。どうかよろしくお願いたします。

 

生涯

 

一応貴族の生まれではあるみたいですが、坂上氏は弓馬を得意とした武の名家として朝廷を守護していた。父である坂上苅田麻呂は反乱が起こるたびに鎮圧をしていた武の人物で、坂上一族の子として田村麻呂も期待されていたと思います。

 

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田村麻呂が若い頃に蝦夷との戦争が激化して、朝廷は軍を送り込んだのですが、蝦夷軍に大敗してしまいました。それで、将軍、大伴弟麻呂に仕える四人の副将軍の一人として田村麻呂は蝦夷と戦争に身を投じます。その実力を評価され中心人物として活躍しました。なんでも地方から若い兵を採用することで兵の質を高めたらしい。

 

その後も、地方の行政を監督する役職を兼任するようになり、大伴弟麻呂が老いで役職を辞任したこともり、征夷大将軍にまで出世しました。坂上田村麻呂は蝦夷を支配する全ての役職を併せ持つことになります。

 

田村麻呂の力を恐れて、蝦夷のリーダーは降伏を求めました。田村麻呂は命を奪うつもりはなかったのですが、朝廷の人間は拒否して処刑してしまいました。激怒した蝦夷の人達と再び戦争が起こるかと思いきや、朝廷は軍を動かすことをやめて、話し合いで東北を治めることに力を注ぎました。

 

三度目の蝦夷への遠征の話がなくなり坂上田村麻呂は活躍の場を失いましたが、征夷大将軍としての役職は全うして54歳で亡くなりました。

 

黒人説

 

なんと1910年頃に黒人の学者を中心に「坂上田村麻呂黒人説」があったみたいです。なんでも日本で過ごしたことがある学者が、日本人の外国人に対する寛容な態度から、古代日本で黒人の存在が言及された。なんの根拠もないので、黒人は多分ないです。しかし、坂上の一族は渡来人であり、坂上田村麻呂も大柄で当時のアジア人にしては屈強な男だったみたい。

 

まとめ

 

日本史で最初に出た名将、坂上田村麻呂のご紹介でした。圧倒的な武功から後世に伝説と語られ、日本の武人のシンボルとして評価される人物で、征夷大将軍としての本来の役職を果たした人物です。


しかし、征夷大将軍としての知名度は源頼朝や徳川家康が勝ってしまっているのは残念でなりません。坂上田村麻呂は忠誠心に溢れた素晴らしい人格者だったと思うとなおさら思ってしまいます。


最後までありがとうございました。

【ウィリアム一世】もう一人の征服王。強い信念を持った王について

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今回ご紹介させていたただくのは、征服王ウィリアム一世です。征服王と言えばイスカンダルを思い描く人がすっかり多いかと思いますが、おそらく征服王とは本来ウィリアム一世を指すのではないでしょうか?


ウィリアム一世は僅か1万2000人あまりの兵力で、150万もの人口を抱えるイングランドを征服した王で、イギリス王室の開祖であります。つまりめっちゃ強い英雄の一人なんですが、逆境が多い人物でもありました。


と言うわけで簡単にウィリアム一世を紹介していこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

 

 

生まれ

 

ウィリアムの父はノルマンディー公国を治めるロベール一世で兄を暗殺した疑いから「悪魔公」と呼ばれるような人物だった。ロベール一世はまだ子供だったウィリアムの素質を見抜いていたようで、ウィリアムが幼少の頃には継承者に指名されていた。


しかし、1035年にロベール一世は突然死してしまい、ウィリアムは僅か8歳でノルマンディー公になった。なれたのですがウィリアムの周囲に賛同する人間は少なく、各国から戦争を仕掛けられたり、暗殺されかけたりと散々な目にあってしまいます。


フランス王の支援と持ち前の強靭の精神力、天才的な軍事能力によって、なんとか退いていきました。

 

二十歳を越えたウィリアムはマティルダに求婚をしますが、7年間も断れ続けます。国の継承と結婚。実は、どちらも同じで理由で上手くいかないんです。


それは出生に秘密があってウィリアムは正妻の子供ではなく、身分の低い商人の子供だったので、私生児と軽蔑されてきたからでした。

 

生まれに苦しんできたウィリアムですが、誰もを納得させる実力を確かに兼ね備えた人物でした。なので、時の権力者達に認められるだけのカリスマ性があって、王たる立場を守ってきたのでした。

 

ノルマン・コンクエスト

 

イングランド王のエドワード懺悔王には跡継ぎがいなかった。1052年にウィリアムはエドワードから王位継承を約束された。一応遠縁だったからだそうだ。


それで、めでたしめでたしと言う訳ではない。エドワード懺悔王の義理の兄がハロルド二世がイングランド王に即位したのだ。このハロルドは過去に難破してウィリアムに助けられことがあり、その時に王位継承を支持することを約束していた。はずなんだけど約束を破棄した。


さらにその弟であるトスティも怒り、ノルウェー王の支援を得て戦争を仕掛けた。ウィリアムもローマ法王にイングランドを攻める正当性を説明することで、ヨーロッパ各国の支援を集めて戦争を仕掛けた。

 

イングランドをかけた三つ巴の争い。まず、ハロルド二世とトスティ・ノルウェー軍は戦った。トスティは戦死して、ハロルド二世の勝利となったが、直ぐにウィリアムは攻めこんだ。

 

ハロルド二世軍は、先の戦争での傷が癒えないまま、反対側から攻めこんできたウィリアム軍を相手をすることになる。


ウィリアム軍は後退を繰り返して、敗走をするフリを繰り返すことでさらに相手を追い込んだ。これは騎兵を中心としたウィリアム軍に対して、ハロルド二世軍は歩兵を中心とした軍だったので、可能だった。

 

ハロルド二世軍の運動量はとにかく多かったのでまともに戦う力は残っていなかった。ウィリアム二世は敵軍の陣形が崩れたことを好機と見て、一気に攻勢を仕掛けたのだ。

 

と言っても、戦いは一進一退の激戦であった。あまりにも激しい戦いだったので、前線ではウィリアムは戦死したと言う噂が流れた。これを逆手に取りウィリアムは前線で兜を脱いで健在をアピールすることで、味方を鼓舞した。ハロルド二世を討ち取られた敵軍は勢いがなくなり、ウィリアムは僅か1万2000という少数でイングランドを制覇することができたのだ。

 

その後

 

イングランド王に即位したウィリアムは、政策に力を入れた。イングランドの貴族を黙らせて、土地を奪い管理したり、争いが起こらないように王位継承は国王の長男が継承する仕組みにした。


ウィリアムの統治方法は今日のイギリス王室まで血が受け継げられていることを考えると、とても優れた方法だったのでしょう。


ただ、ウィリアムを警戒する人物はもちろんいました。フランス王のフィリップ一世はウィリアムの息子ロベールを唆して、クーデターを起こさせた。ウィリアムとロベールは激闘します。しかし、ロベールはフランスと手を組んでいたので強い。負傷したウィリアムは一度体制を立て直すが、落馬してしまいそのときの怪我が元で60歳で亡くなりました。

 

最後に

 

と言うわけで、イギリスに大きな影響を与えたウィリアム一世のご紹介でした。最後までありがとうございます。

【七英雄】英雄が認めた七人の軍事指導者

 

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軍人から皇帝にまで成り上がり、革命によって混乱していたフランスを導いた皇帝ナポレオン。彼の功績はかなり大きいので知らない人なんていないでしょう。あのベートーベンもナポレオンの影響を受けて交響曲第3番「英雄」を作曲したとされ、現代のフランスでもナポレオンのイメージを損なうということで、豚に「ナポレオン」と命名することは禁じられているようです。それだけの影響力を持つ人物ですので、ナポレオンが残した言葉は現代でもいろいろ残っています「余の辞書に不可能の文字はない」とか。そんなかでナポレオンは七人の英雄を特に称賛したと記録が残っているので、ご紹介していきたいと思います。

 

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最後までよろしくお願いします。

 

 

 

アレクサンドロス大王 (前356~前323)

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古代マケドニアの王。短い生涯で約4500キロに及ぶ遠征と征服を成し遂げた。アレクサンドロスが率いるマケドニアの最大の敵はペルシアだった。ペルシアは当時最大規模を誇る強国で、ペルシア約25万に対してマケドニアは5万にも満たない兵力差で戦うこともあった。戦力差は五倍ほどであったが、ペルシア軍は統率力に欠けていて、反面マケドニア軍は当時としては優れた戦術展開を繰り広げていたと言う。城を攻めるなら無闇に突撃はせず、相手に攻めさせて城門を閉めにくい状態にしてから、一気に攻めるとか。アレクサンドロスは常に自ら先頭に立っていたので、状況に応じて臨機応変に指揮を取っていた。ペルシアの王ダレイオスとアレクサンドロスが剣を交える場面があったとき、ダレイオスはビビって妻子を取り残して逃げ出した。踏ん張れば勝つこともあったかも知れないがら王の醜態もあり、ペルシアはマケドニアには勝てなかった。また、アレクサンドロスは征服した領地で素直に投降するものには、身分はそのままで領地も不用意に奪いはしなかったし、優秀な軍人は将校にしていた。そのこともあって古参のメンバーから不安が漏れてら遠征は一旦休止になった。その間にアレクサンドロスは僅か33歳で急死した。生涯無敗だったと言う。大帝国はアレクサンドロスの死後に分裂してしまった。

 

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ハンニバル・バルカス (前247~前183)

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カルタゴの英雄でローマ史上最大の敵と言われる。ローマとカルタゴが地中海の覇権を巡って第一次ポエニ戦争が起こった。カルタゴの指揮を取っていた父が戦死して、意思を受け継いだハンニバルは第二次ポエ二戦争に身を投じた。カルタゴが最も得意としたの海戦だった。なのでローマはカルタゴは海を渡って攻めてくると思っていましたが、ハンニバルは陸での戦いを選んだ。わざわざ遠回りしてローマに向かうのですが、なかでもあり得ないことは「アルプス越え」でしょう。秋だったとは言え雪が降る極寒。兵士の半分を失いましたが、見事に「アルプス越え」を達成しました。「半分失った」と聞くと「ヤバイやん」と思いますが、カルタゴでは傭兵を雇うのが当たり前だったので訪れた現地で兵の補給などをしていたようです。アルプス越えと言う奇策によってローマに連勝、決定的だったのがカンナエの戦いでしょう。カルタゴは弓なりの陣形を牽いて、ローマ軍に中央突破をさせる。カルタゴの中央が攻められてくると、陣形をV字にして左右から一気に攻めた。この包囲撲滅作戦でカルタゴは圧勝して、ローマの7万人の兵力の内、1万は捕虜で、6万は戦死した。対してカルタゴは5万の兵力で戦死は5700ほどだった。その後、本気になったローマからスキピオ・アフリカヌスの登場して、戦いは休戦交渉が進むほどに熱を増していきましたが、交渉は決裂。ザマの戦いではハンニバルがカンナエの戦いで行った包囲撲滅をローマのスキピオが真似をしてカルタゴは完全敗北。地中海はローマのものになりました。

 

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ユリウス・カエサル (前100?~前44)

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「ハゲの女たらし」と呼ばれたカエサルのキャリアのスタートはそこまで早くはなかった。歴史の表舞台に出たのは30代後半頃で、カエサルは40代でローマの最高の地位である執行官になった。執行官になったものは退位後に軍を率いて他国に遠征するのがルールだったのでカエサルはガリアに向かいました。ガリア地方は現代でいうフランス辺りを指していて、ローマ人とは全く違う言語を話す、ケルト人とゲルマン人の領地でした。ゲルマン人は金髪の長身で、ローマ人は黒髪に低身長。ローマ軍は結構ビビっていましたが、カエサルはゲルマン人は統制が取れていないという弱点を見つけて味方を鼓舞しました。実際ローマ軍は良く訓練された部隊だったので烏合の集同然だったゲルマン人は相手ではありませんでした。ケルト人もゲルマン人とは変わらない統率が取れていない部隊で、当初は敗北もしましたが、ケルト人は攻めるのは得意でも防戦はまったくダメでした。なので全軍で攻めに攻めたみたいです。カエサルはガリア遠征で、ベルギー、オランダ、スイス、フランス、イギリス、ドイツを攻略したので、ヨーロッパを建国したのはカエサルと言われることもある。また、カエサルは投降する者の命を奪うことはなく、農業だったりとローマの文化を教えたりした。この活躍でカエサルのローマ人気はとてつもないことになり、さらにガリア遠征での約八年に及ぶ経験豊富な兵達によって内乱に勝利してローマの独裁官になった。

 

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グスタフ・アドルフ (1594~1632)

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スウェーデンの王で三十年戦争で活躍した「北方の獅子」。グスタフは子供の頃から政治に関わっていた秀才で、ラテン語、ドイツ語、オランダ語、フランス語、イタリア語、などを流暢に話すことができた。なかでも三兵戦術を実践したのがグスタフの凄いところだ。三兵とは、槍兵、銃兵、騎兵を指していて、槍兵を中心に両サイドには銃兵、さらに端に騎兵を配置する薄い陣形。グスタフは銃の軽量化に従い、銃兵を三列横に並べて一斉射撃をすることで火力を高めることに成功。さらには騎兵による突撃では至近距離で射撃みたいなことを行わせて、三兵が密接に援護しあう形にした。野戦砲には最新の3ポンド砲を大量に投入したりして、それまでの戦い方を一新したグスタフの戦法はカルチャーショック的な衝撃だったらしい。グスタフは三十年戦争の介入の最初の戦いで一気に名声を集めて英雄となった。また、相次ぐ戦争で疲弊した国民からの不満が漏れていたので、グスタフは傭兵政策を取った。傭兵はヨーロッパ中から集めてスウェーデンは長らく傭兵政策を行ったという。

 

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アンリ・テュレンヌ (1611~1675)

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ナポレオンはテュレンヌ元帥をフランス最高の元帥と評価した。テュレンヌは14歳から戦争に参加していた人物で長いキャリアのなかで、着実に経験を重ねていった。ナポレオンは「その才能は歳を重ねるたびに際立った」と評価している。と言うのもテュレンヌは貴族の子供として生まれ、アレクサンドロスやカエサルに憧れたが吃音症に生涯悩まされ、虚弱体質でもあった。13歳のときに父が亡くなるとテュレンヌは肉体の鍛練を積み虚弱体質を直そうと努力した。14歳で志願兵としてオランダに渡り、着実にキャリアを積んだテュレンヌはフランスに戻ることになります。金である程度の地位を獲得することができたらしいですが、テュレンヌは実力で地位を獲得していき軍人としては最高クラスの地位「元帥」となりました。この頃には努力家のテュレンヌとは正反対の天才肌のルイ二世・ド・ブルホンこと「大コンデ」が現れます。彼は破天荒なエピソードが多くテュレンヌとは真逆なタイプと言えました。二人は共に三十年戦争を戦い、和平条約を結ばせてフランスの領土は大きくなった。平和になったかと思いきや「フロンドの乱」が勃発してフランスはテュレンヌ率いる王軍と、大コンデが率いる反乱派で別れて、戦争になります。努力対天才。戦いは天才と謳われた大コンデが有利と思われましたが、地味ではあるが戦略をしっかり立てて堅実に戦うテュレンヌの勝利となりました。その後テュレンヌは「大元帥」フランス史上6人しかいないフランス軍人にとって最高の地位になります。テュレンヌはその後とある戦争の開戦して直ぐに偶然にも砲弾に直撃して戦死しました。

 

 

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プリンツ・オイゲン(オイゲン・フォン・ザヴォイエン)(1663~1736)

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名将プリンツ・オイゲンは神聖ローマ帝国。すなわちハプスブルク家に仕えて帝国の軍事面を大きく躍進させた人物である。フランス人の貴族の出身で、母はルイ14世の愛人だったので、オイゲンはルイ14世の子供であると言う噂もあった。軍人になることを渇望したが、実の父かも知れないルイ14世やらに「小柄」であるからと別の道を進むように言われたオイゲンは自分を必要としてくれる地を探して、オーストリアに落ち着いた。反対するものも多かったが、皇帝レオポルト一世に見出だされたオイゲンは、着実に武功を上げた。オイゲンの戦法はスピードであった。相手の予想を遥かに越える迅速でかつ大胆に軍を動かすことに長けていた。晩年は70歳にして総司令官として出陣している。さすがに指揮官としての能力は劣ろいてしまい後手に回っていた。しかしフランス軍もプリンツ・オイゲンの名前に怖じ気ついて攻勢に転じることはしなかった。もはや名前だけで相手を混乱させていたのだ。引退したあとも他国から高く評価されていて、英雄フリードリヒ二世は毎日オイゲンと食事をして戦略を学び、ピョートル一世からはポーランド王に推挙されたが、これを断り神聖ローマ帝国に忠誠を誓った。

 

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フリードリヒ二世 (1712~1786)

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プロイセンの王で「大王」と評された人物。優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロセインを強国にしただけではなく、幼少の頃から学問だけではなく芸術に没頭していた。父であるフリードリヒ・ヴェルヘルム一世は兵隊王(軍人王)とあだ名されるくらい横暴で凶悪な王さまだったので、芸術なんてものに関心を示す自子をよく思ってはいなかった。なのでフリードリヒは暴力やら食事を与えられないとか虐待を受けて育ったらしい。そんななかで我慢の限界の達したフリードリヒは逃亡することにしたが、その日のうちに捕まり、手引きをした人物を目の前で処刑されて、フリードリヒも幽閉された。その後、父に許してもらいフリードリヒは国王としての道を進むことになる。1740年に即位すると父の意思をついで、富国強兵につとめてオーストリアのハプスブルク家マリア・テレジアと継承戦争を勃発させる。ヨーロッパではハプスブルク家の弱体化を求める声があり、プロイセンを支援した。そのこともありプロイセンは戦争に勝利して、フリードリヒは軍事指導者としてその名を広めた。また七戦争ではフランス、ロシア、オーストリアを相手に敗北に追い詰められるが、ロシア王がフリードリヒ二世を崇拝するピョートル三世になったことで、軍が撤退した。「君主は国家のしもべである」啓蒙主義であったフリードリヒ二世は近代的な政策を数々行い、戦争の勝利によって領土を倍にして、人口を三倍にした。プロイセンをヨーロッパの列強にした功績から「大王」と呼ばれた。

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まとめ

 

今回はナポレオンが心底褒め称えた七人をご紹介させてもらいました。どの人物も大英雄に相応しい、のちの世の中に影響を残した人物ばかりです。なかでもアレクサンドロス大王、ハンニバル、カエサルはどの英雄も憧れた、凄い軍事指導者であると再認識しました。

最後までありがとうございます。

 

 

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【グスタフ・アドルフ】スウェーデンの英雄「北方の獅子王」について

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今回はあのナポレオンも憧れたスウェーデンの獅子王、グスタフ二世アドルフについて簡単に解説していきたいと思います。三十年戦争で活躍したグスタフは「獅子」を謳われるくらいなので結構短気で好戦的だったと思われますが、その頭脳は幼少の頃から才覚を示していて、9歳で公務についていたようです。戦争で父が亡くなると、17歳で王となり、28歳で宰相になりました。またラテン語、ドイツ語、オランダ語、フランス語、イタリア語、はペラペラで、スペイン語、英語、ポーランド語、ロシア語などは理解はできたそうです。語学に関してはヨーロッパを制覇したみたい。


まさに天才です。それだけではなく、三兵戦術や傭兵制度などで軍事的にも、商業的にもスウェーデンを改革していった改革者でもあります。

 

というわけで今回もよろしくお願いします。

 

 

幼少

 

幼い頃から高水準の教育を受けていたグスタフは、語学に長け僅か9歳で公務についていた。15歳になった頃には父の代理で演説をしたこともある。1611年に17歳のグスタフは初陣するのだが、父は戦死。グスタフは王位を継承して戦争の継続を望むが、「自国には戦争を継続する力はない」と直ぐに判断して賠償金を払い和平を成立させた。

 

王位継承後

 

それからグスタフは貿易などを積極的に行い国力の底上げに力を入れた。ドイツの軍事施設を視察して大規模な軍事改革にも力もいれたとされます。


グスタフにとって最初の敵はポーランドのジグムンド三世だろう。従兄弟であったジグムンドでしたが、本来はスウェーデンの王位も継承するはずだった。しかし、宗教絡みでスウェーデンを追放されていて、若いグスタフが継承したことに腹を立って攻め込んできたのだ。


三度に渡り両国はバルト海を争った。辛うじてバルト海は守ることはできたが、グスタフは首と右腕を撃たれてしまい、甲冑を着られなくなり、右腕は不自由になった。

 

このように惨敗をすることもあったが、これらの経験はグスタフにとって大きな財産になったとも言える。どんなに優れた才能を持った指揮官でも、大国に敗れて名誉を得る前に戦死するなんてことはよくあること。ポーランドとの戦いでの経験はグスタフを大きく成長させた。

 

三十年戦争への介入

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グスタフアドルフの名前が知り渡るのは三十年戦争での活躍です。三十年戦争とは、カトリックとプロテスタントによる宗教戦争です。グスタフは劣勢だった、ドイツのプロテスタントに敢えて介入しました。それはグスタフがプロテスタントだったと言うこともありますが、ライバル国家であるポーランドと並んでドイツまでカトリックになってしまうと、とんでもない驚異に成り得るからでした。

 

1631年に開戦したブライテンフェルトの戦いは、プロテスタント連合軍(スウェーデン・ドイツのプロテスタント)と神聖ローマ皇帝軍との戦争で、グスタフはこれまでの常識を覆すように大砲やらの火器に重点を置いた戦法を要した。

旧式の戦いをする皇帝軍に対して、グスタフが率いる連合軍は陣形を臨機応変に変化させて皇帝軍を撹乱し、たった七時間で圧勝しました。


これはプロテスタントにとって最初の勝利であり、グスタフはたった一度の勝利で英雄となった。その後もスウェーデン軍は連勝していき皇帝軍は追い詰めていった。

 
戦死

 

神聖ローマ皇帝フェルディナント二世は焦ります。そこで登場したのはヴァレンシュタインでした。彼は「国家と戦争」のシステムを改革した人物で、国家に軍を貸すことで利益を出す商売をしていた。三十年戦争でも当初は総司令官を務めて、軍税を導入して莫大な利益を出していました。それで一度は解雇されていましたが、グスタフの介入で流暢なことは言っていられなくなり、ヴァレンシュタインは総司令官に返り咲くのでした。

 

グスタフ率いるスウェーデン軍は、ヴァレンシュタインの介入でついに敗退することになった。互いの軍は決着を付けるべく、リュッツェンで両軍は激突。


当初はスウェーデン軍の優勢でしたが、グスタフが自ら軍の先頭に立ち勇敢に戦う王である。これを理解していたヴァレンシュタインは、先頭を立つ王を狙い撃ちするように指示していた。


さらに戦場は深い霧に包まれていたので、近視だったグスタフは敵軍の前に飛び出してしまい、撃たれて落馬。ほぼ即死だったそうです。戦争はなんとか勝利しましたが、英雄の死はスウェーデンにとって大きなダメージになりました。

 

影響

 

グスタフの戦死後もスウェーデンは三十年戦争に介入を続け、スウェーデン軍の最盛期を迎えたとされます。対グスタフを期待されていたヴァレンシュタインですが、皇帝への信頼はなかったので、反逆の疑いをかけられて、処刑されました。


グスタフの急死によって娘のクリスティーナは6歳で即位した。グスタフの死をもっとも嘆いたのはおそらく嫁であるマリアでしょう。マリアはグスタフの死をものすっごく悲しんだようで、遺体の埋葬を許さずに、遺体を抱き、キスをしたりしていたようです。周りの人間は危惧して遺体を埋葬すると掘り起こそうとしたみたい。頭がおかしい母親に愛想を尽かした娘クリスティーナによってマリアは王族としての特権を剥奪されて、スウェーデンを追放された。その後二人の仲が修復することはなかったらしい。

 

まとめ

 

以上、北方の獅子王についてでした。自らが先頭に立ち戦う王さまって本当にいるんですね。グスタフは戦場で何度も傷を負ったとされています。腕は不自由になるような怪我もしていたのに、よく先頭に立って戦い続けたと思います。怖くなかったんかな。「北方の獅子王」まじかっけ。

 

最後までありがとうございます。

 

 

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