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【マリア・テレジア】16人の子供を産んだ「女帝」の生涯を簡単に解説

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今回はフランス革命で処刑されることになる「マリー・アントワネット」の母である女帝マリア・テレジアをご紹介していこうと思います。マリアは名門ハプスブルク家の政治家で、ハンガリー王でもあり神聖ローマ帝国では女性が即位できないので夫のフランツは即位していたが、実権はマリアが握っていた。その女帝としての仕事と、生涯のライバルであるフリードリヒ二世との戦争の間に子供をこれでもかと産んでいためっちゃ元気な女性です。

 

今回は簡単に紹介していこうと思います。


 

 

幼少期

 

マリア・テレジアは1717年にローマ皇帝カール6世の長女として生まれました。

ハプスブルク家には王位を継承する長男がいなかったので、彼女は女性でありながら王位を継承することになります。なので、カール6世は長女であるマリアが王位を継承できるように、女王を認めてこなかったルールの変更、近隣の強国にも女王を認めてもらえるように力を注いだ。

 

とは言え、カール6世はマリアに王としての教育は許さなかったとされる。カール6世の考えはあくまでも、将来マリアが産むであろう息子(カールからしたら孫)に即位される意向であった。なのでマリアは教養の高い貴婦人として、イタリア語、フランス語、ラテン語を流暢に話す語学力、音楽や歴史について勉強することは許されたが、統治に関する教育を受けることは許可されなかった。マリアは密かに自身が統治する覚悟を固めていて、外国使節の人達との会話で外国の情報を得るなどして不十分ではあるが政治の勉強をしていたようです。

 

一方でマリアはこの時代には珍しく子供の頃から憧れ、恋していたフランツと結婚する。フランツはオーストリアの宮廷で養育されていた人物で、マリアが5歳のときに二人は出会うことになる。それ以来マリアはフランツに憧れ、思春期に差し掛かると彼のことで頭がいっぱいになり、女官からフランツの話を積極的に聞いていたようで、ただの恋する乙女状態だったらしい。1736年にマリアとフランツは結婚をする。二人の仲は大変良く、健康にも恵まれたマリアは16人も子供を産むことなります。

 

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オーストリア継承戦争

 

1740年にカール6世は亡くなり、ハプスブルク家の長としてオーストリアの王位を継承した。ここで問題が発生する。カール6世はマリアが即位できるよう生前に頑張っていたけど効果は全然なく、フランス、スペイン、プロイセンなどが反旗をした。マリアは政治的な教育を一切受けてなく無知であると、各国がこぞって評価していたのだ。ただ英国のみが、注意していたらしい。

 

そんななかでプロイセンのフリードリヒ二世は大の女嫌いである性格と、先代の軍人王ヴィルヘルム一世からの因縁もあって、富裕土地シュレジレンを攻めた。プロイセンの領土はオーストリア10分の1であり、フリードリヒはかつて父に処刑されかけたが、カール6世に助けられたことがあった。なのでマリアはプロイセンを敵として考えていなかったのだ。そう、完全に見くびっていた。それにマリアとフリードリヒは婚約の話が上がるような仲で、フリードリヒは結婚する気だったが話は破綻していた。

 

 

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そういう関係だった二人でしたが、二人は対立してオーストリアとプロイセンを中心にオーストリア継承戦争が勃発した。財政困難であったが、マリアは女帝として戦い自身の能力を証明していったのだ。またオーストリアの統治に反対していたハンガリーでは、子供を抱いて泣きながら演説をしてハンガリー人を口説き落して金銭や兵の調達に成功したと言う伝説もある。戦いをなんとか切り抜いたマリアは最初に奪われたシュレジレン以外はだいたい取り戻した。ローマ皇帝にも夫が即位して、オーストリア継承問題は解決した。

 

七年戦争

 

シュレジレンを取り戻したいマリアは国力の強化に勤めて寄せ集めの国にだったオーストリアを一つにして、軍事力を底上げした。さらにロシアの女帝エリザベータ、フランスのポンパドゥール夫人と手を組んで、プロイセンに侵攻したのだ。プロイセンを支援していたイギリスは植民地戦争で忙しいので支援はできない。ついにフリードリヒを追い詰めたが、ロシアの女帝エリザベータが急死してピョートル三世が継いだことでロシアは撤退。戦争は終結することになり、シュレジレンを取り返すことはできなかった。

 

その後

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1765年に夫のフランツが亡くなった。フランツは戦闘司令官、王としての能力は乏しく、オーストリア国民からも評価が低かった。しかし、優れた財政家であり企業家であったので、戦争の支援に大きく役立っていたのだ。それだけはなく、精神的な心の支えでもあったのでマリアは統治への意欲を失い生きることすら億劫になったと言う。

 

精神的に回復したマリアは息子のヨーゼフと共同の統治者となった。ヨーゼフを愛していたが、ヨーゼフの考えに賛同できない部分もあって実権を与えることはしなかったらしい。

 

1780年にマリアは散歩の途中に発熱して、二週間後に多くの子どもたちに囲まれて亡くなった。63歳でした。

 

最後に

 

初恋の人と結婚して多くの子供を産むなんてなかなかの人生ですね。ちなみに17歳で結婚して24歳頃には子供を4人も産んでいたようです。母としてマリーアントワネットを心配していたようで、マリーが嫁ぎ先のフランスで贅沢な暮らしをしていると聞いたときは、頻繁に手紙を送って夫に尽くすようにと綴っていたようです。しかし親心を理解されなかったようで、マリーはフランス革命の末に処刑されるんですけどね。マリアはフランス革命前には亡くなっているので、ある意味幸福だったかも知れません。

 

最後までありがとうございました。

 

 

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