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【エカチェリーナ二世】玉座の上の娼婦と言われたドイツ生まれの女帝について

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ロシア史上最も長い34年間も「大帝」の座ついたエカチェリーナ二世は、おそらく欲深い女帝であった。自身の夫に対してクーデターを起こして大帝の座を奪い、オスマン帝国の戦争に勝利してクリミア半島も獲得している。


性についても積極的だったようで公認の愛人が10くらいで、非公認が100人近くいたとか。なので孫から「玉座の上の娼婦」と皮肉を言われるような女帝でした。今回は欲望に塗れた女帝の生涯を簡単に解説できたらと思っています。

 

どうぞ最後までよろしくお願いします。

 

 

幼少時代

 

1729年にエカチェリーナ二世はプロイセンで貴族の娘として生まれました。子供の頃から我の強い人物だったようで、ガキ大将的な存在だったようです。10歳の頃には、後に結婚することになるピョートル三世と出会う。ピョートル三世は決して容姿が優れた人物ではなかったし、精神的にも問題がある人物であったが、血筋的にロシア皇帝に即位する可能性もある将来性のある子供であった。エカチェリーナ二世は本来、皇帝の妃になれるような家柄の子供ではありません。ですが、エカチェリーナの母の兄と、当時の女帝エリザベータがかつて婚約者の関係だったので、エカチェリーナはピョートル三世と妃の候補に上がった。

 

エカチェリーナは特別な血筋でもなければ特別な容姿を持っていたわけではありませんが、それでも彼女は自身の将来の安泰を確信していたようで、皇帝の妃になることを疑っていなかったとされる。

 

1744年。15歳になったエカチェリーナ二世は女帝エリザベータによってロシアに招かれた。エカチェリーナ二世は気に入れる為に、自身の中のドイツ人を消して、根っからのロシア人になる努力をした。睡眠時間を削り、体調を崩してでもロシア語やロシア正教の勉強していた。その努力もあって女帝エリザベータをはじめ、ロシア国民に、エカチェリーナ二世は気に入られたのだ。

 

その年にピョートル三世は天然痘に患いいっそう容姿が醜くなったが、エカチェリーナにはどうでもいいことであった。エカチェリーナは元からピョートル三世に興味はないが、玉座に関心があったからだ。1745年にエカチェリーナ二世と、ピョートル三世は結婚した。

 

結婚生活

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エカチェリーナとピョートル三世は愛し合ってはいなかった。(色んな意味で)ピョートルは女に関心がないようで、兵隊のおもちゃで遊んでいるような軍隊オタクだった。なのでエカチェリーナ二世は23歳まで処女だったらしい。そんな生活は何年も続かない。エカチェリーナは愛人を作り夜の経験をしたのだ。

 

それで困るのは愛人である。ピョートル三世に女性経験がないのは周知の事実だったようで、しかも包茎だった。その手術を受けさせるために、愛人はピョートルを上手く誘導したのだ。エカチェリーナもピョートルも責任から関係をしっかり持ったが、二人とも愛人との関係に溺れた。

 

1754年にエカチェリーナは愛人とピョートル、どちらの子供かわからない子を産んだ。

 

クーデター

 

1761年に女帝エリザベータは死去したので、ピョートル三世は皇帝に即位し、エカチェリーナ二世は皇后となった。だがピョートル三世は愛していないエカチェリーナを皇后とするつもりはなかったので、愛人を皇后とするように動き出した。エカチェリーナの性格からすると黙っているわけはないんだが、この時、愛人の子供を妊娠していたので、ピョートルの行いで国民からの同情を買う為にも妊娠を隠す必要があった。火事を起こしてピョートルが見物にいっている間に子供を産んだらしい。出産を終えたエカチェリーナはついに動き出します。

 

ピョートル三世は子供の頃からその幼稚な言動から、「王の器」ではないと言われていた人物でした。なので貴族たちの間でも、ピョートルの皇帝の座から下ろすみたいな話があった。さらにピョートルは女帝エリザベータのときから戦争していたプロイセンが尊敬するフリードリヒだったので国益を無視して戦争をやめたのだ。これで国民の信頼を完全に失っていた。

 

エカチェリーナのクーデターは簡単だった。誰もピョートルの味方をしなかったのだ。ピョートルは遠征に行っていたので、エカチェリーナは自ら先頭に立って先回りして攻めた。ピョートルの部隊は強引に着用させられていたドイツ風の軍服を脱ぎ捨てて、古風のロシア軍服を着て離反した。ピョートルはあっさり皇帝の座をエカチェリーナに譲渡して、エカチェリーナは「大帝」となったのだった。ピョートルは在位はわずか6ヶ月であったと言う。

 

即位後

 

エカチェリーナは、オスマン帝国やポーランドを相手に領土の拡大を実現していった。それらは優秀な愛人や元愛人の力もあったらしい。また教育面にも力を入れていたようで、女性のための学校を設立したりと教育システムにテコ入れをしたのだ。

 

エカチェリーナ二世はとにかく愛人を愛でた。肥満で歯抜けの老婆になっても、愛人になりたがる男は沢山いた。それは愛人関係が終わっても待遇が良く、寛容に接してくれたからである。

 

1796年にエカチェリーナ二世は脳卒中でトイレで亡くなった。

 

最後に

 

エカチェリーナは生涯死ぬまで女帝の座であった。これは結構スゴイことで、夫であるピョートル三世は6ヶ月でやめさせられるし、エカチェリーナの後を継いだ長男は5年間の治世で暗殺されています。こういう実例からも、エカチェリーナ二世が優秀な大帝だったと伺えると思いました。

 

最後までありがとうございました。