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『コンモドゥス』史上最強の皇帝? 剣闘士として人気を博したローマの皇帝について

 

午前中に起床すると、金のスパンコールを施したマントを羽織って闘技場に現れた。

 

闘技場では準備運動の如く、壁の上に立って放たれた熊に向かって槍を放つ。時折、休憩を挟んで、ワインを飲み干す。このように数十体の熊を狩り殺して午前を過ごした。

 

午後になると、剣闘士の試合が本格的に始まる。始球式にような役割を自らが行なって、勝利する。このエキシビジョンマッチが終わると、この日も闘技場は、絶叫と歓声に包まれた。

 

と、ここまでは剣闘士の1日を紹介したのではない。闘技場(コロッセオ)を主催して、自らも激しい戦いを繰り広げた皇帝の1日を紹介したのだ。

 

コンモドゥスは自身が剣闘士として戦うことを好んだ皇帝であった。とある記録によると、野獣とは1000回以上も戦い剣闘士とは735回も対戦したと言う。皇帝なのに。

 

剣闘士として民衆から支持を得たとされているが、コンモドゥスは政治をしなかった。野獣を狩ると、最前列で観賞していた元老院に「おまえ達も簡単に殺せるんだ」と脅したそうだ。本来の責務を放棄して、何を言っているんだか。

 

しかも、コンモドゥスからの手紙はだんだん白紙化して「ヴァーレ」と挨拶だけ書かれたそうだ。

 

つまりコンモドゥスは剣闘士として、戦士としての心得はあったが、政治に無関心で、皇帝としては最悪であった。

 

今回は落第の皇帝でも個人では最強の戦士であったコンモドゥスを簡単に紹介できたらと思います。

 

 

 

生涯

 

生まれ

 

時代はローマの最盛期と呼ばれた五賢帝時代。161年にコンモドゥスは生まれた。

 

落第の皇帝であると冒頭から紹介したが、父は16代皇帝であるマルクス・アウレリウスで、母は15代皇帝のアントニウス・ピウスの孫である。両親が優秀な血族であり名家であることは否定できないだろう。

 

父であるマルクスは五賢帝時代の最後の皇帝であり、哲人皇帝と謳われた。自省録で有名な人物だったりする。

 

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そんなマルクスではあったが、子供が幼くして亡くなるので、コンモドゥスには医者をつけたと言う。その医者がガレノスで、病弱であったコンモドゥスは多くの罹患を経験したが、生き延びることができた。5歳になると弟と共に、副帝となり事実上の後継者に選ばれることになる。

 

この時代に流行したのはおそらく天然痘であり、ガレノスはこの病気について記録を残していることで有名です。こちらの記事で少し書いています。

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弟が早世すると、父マルクス・アウレリウスの唯一の息子となり、父が自ら学問を教えた。これによって軍人としての能力が育むことはなかったと言われている。

 

父であるマルクスは即位した時から遠征による戦争に明け暮れていた。コンモドゥスも11歳で戦争を経験して、前線にも赴いた時には、沼に落ちた父を助けた。

 

即位する

 

16歳になると、父から正帝に指名された。これはつまり、二人の皇帝の誕生であり、共同で統治することを意味した。だがこれは失敗だったと言われている。

 

五賢帝時代はこれまで養子が、つまり優秀な人材が後を継ぐことで、ローマを最盛期に導いていたのだ。マルクスが、能力に関係なく血縁でコンモドゥスを皇帝に即位させたことは、ローマの崩壊に繋がっていくことになった。

 

父であるマルクス・アウレリウスが遠征先で亡くなった。長年の戦いによって体が限界を迎えたのだろう。単独で皇帝となったコンモドゥスは、父とは真逆の決断を決めた。長年に渡って、領土の拡大に務めてきた父が獲得した領土を敵国に譲渡して、戦争を終わらせたのだ。兵士から反対の声が多かったようだが、疫病が流行していたこともあり、これ以上の戦いは無益であると英断したのだ。

 

姉に命を狙われる

 

ローマに帰還して新しい政治体制を築いていく中で、コンモドゥスは友人や側近に政治を任せるようになっていく。

 

このことでサオテルスなる人物がコンモドゥスに変わって実権を握るようになっていく。まだ若く勉強不足のコンモドゥスには皇帝の業務がわずわらしかったのだろう。

 

このことで元老院から反感を買うことになり、この動きに敏感に察したのが実の姉であるルキッラであった。ルキッラは弟であるコンモドゥスを暗殺して夫であり人気もあったポンペイアヌスをを即位させることを目的に行動を起こした。

 

この暗殺計画は上手くはいかなかったとされる。闘技場を徘徊するコンモドゥスを短剣で刺して殺害するつもりだったが、「元老院の命により」と実行犯がわざわざ叫んだので、護衛兵に難なく叩きのめされた。

 

この事件により実行犯が処刑されて、関与した者や疑いがある者は尽く処刑したそうだ。だけど姉は島へ流刑となり、その夫は政界からの引退に追い込んだ。

 

しかし身内に命を狙われたこと、元老院への不信感を積もらせることになり、コンモドゥスはますます政治への関心を失うことになった。

 

反乱と暗殺

 

ブリタンニアで反乱が起こるが、コンモドゥスが直接な介入はせずに鎮圧された。しかし、兵士たちは恩賞の少なさに批判の声が相次いだことで、コンモドゥスに直接訴えることを考えた。

 

その内容も暗殺を企んでいる人物がいると、暗殺に敏感になっていたコンモドゥスはいとも簡単にその人物を差し出した。

 

その後はクレアンデルに政治を任せた。彼も勝手な政治体制を図ったが、再び伝染病が猛威を奮った。

 

このことで1日に2000人の死者がでた。さらに、凶作によって穀物の買い占めが横行したことで、全ての矛先がクレアンデルに集まる。こうして民衆によるデモ行進が始まったのだ。

 

兵士を使って力でデモを終わらせたことが、クレアンデルの失敗であった。

 

大虐殺によって怒り狂った民衆はますます、激しい行動を取るようになる。大惨事となったことで、コンモドゥスは民衆の怒りに恐怖を覚えた。コンモドゥスはクレアンデルを処刑して、これまでのことを反省して、自らが政治をすることを決めた。

 

やっと政治をする

 

新政を開始したコンモドゥスですが、他人に政治を任せきりの自由人だったことは、読者の皆様も気付いていると思います。

 

政治を他人に任せていたコンモドゥスは、美女と青少年を合計で600人も集めて、宴や乱行を主催したり、自身も女と酒で遊びほうけていた。

 

更には冒頭で説明しましたが、政治を他人任せにして、剣闘士としての訓練は真面目に積んでいた。そんな人物が果たして真っ当な政治を行うことができるだろうか。

 

できるわけがない。

 

コンモドゥスは、ヘラクレスを崇拝して、自由な統治をすることを宣言したのだ。

 

更には自身がヘラクレスになり切って、ヘラクレスのコスプレとして元老院に「ゼウスの息子」であると公認させたのだ。

 

連日の闘技場の使用による経費が嵩むと、ローマ大火災によって莫大な出費がでた。

 

公庫に莫大な金があったとしても、限界ある。そのために富裕層に適当な罪をふっかけて、財産を没収することで金を捻出したのだ。

 

暗殺される

 

国は財政を建て直したが、富裕層、元老院は我慢の限界を迎えた。

 

暗殺を着実に遂行するには、コンモドゥスは強すぎる。毎日のように剣闘士の訓練をして、戦いに明け暮れている皇帝を真っ向から暗殺するのは、至難である。

 

計画は12月31日の夜であった。毒を仕込まれたワインをコンモドゥスは飲んだ。解毒剤を常用してたので、毒を吐き出した。失敗したが、毒で弱っていたコンモドゥスは入浴中に屈強な剣闘士に首を締められて、呆気なく絞殺された。享年は31歳の若さであった。