「共和政」の時代を終わらせようとしたカエサルは、「三頭政治」を得て遂に皇帝として君臨する決意をするが、共和政を支持する者に暗殺された。
カエサルの意思は養子であるオクタウィアヌスが継いで、強力な一人のトップが国を治める「帝政」の時代を実現しました。
初代皇帝オクタウィアヌスから約200年の間ローマは最盛期を迎えたと言われ、その時代に君臨した五人の皇帝をまとめて「五賢帝」と言われるようです。
ネルウァ
(96〜98)
五賢帝の最初の一人であるネルファは66歳で即位した。高齢での即位と僅か二年間の在位だったので、政治面での活躍は少ない。先代の皇帝であるドミティアヌスが「第二のネロ」と呼ばれるような圧迫政治を行っていたことで、暗殺された。こんな経緯からの即位だったネルウァは、先帝によって追放されていた元老院議員などを呼ぶ寄せて政界の秩序の回復に力を注いだ。ネルウァの特記すべきところは、年齢など関係なしに優れた人材を積極的に採用するところだったようで、呼び寄せた議員のなかには80歳もいたとか。最大の英断は養子としたトラヤヌスを皇帝に選んだことだろう。
トラヤヌス
(98〜117)
二番目の皇帝トラヤヌスは軍人の出身である。彼の時代にローマは最大の征服領土となった。若い頃から軍人としての才能を開花しているような優秀な人材で、血の繋がりは全くなかったがネルファの養子となる。どうしてトラヤヌスが養子となったのかはわからないようだが、結果的にトラヤヌスを後継者に選んだことは正解であった。ネルウァ時代から引き継いで、先々代の皇帝ドミティアヌスのような圧迫政治を避けて、真っ当な政治を心掛けた。トラヤヌスは内政が安定すると自ら軍を率いて、領土の拡大に努めた。なかでもパルティア遠征では、すでに60歳を越えていたが、侵略に成功したことでローマの領土は最大に達した。ただ、あまりにも広大な領土となったことで、統治が困難となり、すぐに反乱が起こることになる。高齢だったトラヤヌスは翌年に亡くなった。
ハドリアヌス
(117〜138)
3番目の皇帝ハドリアヌスは、トラヤヌスとは違い不用意に領土を拡大することはやめて、国の安定に力を注いだ。トラヤヌスは遠征先で急死することになったことで、急遽ハドリアヌスが養子となり皇帝となった。軍人として前線にいたハドリアヌスは国が広大になるにつれて統治が難しくなることを身を持って体験したことで、皇帝になると領土の拡大よりも安定させることが大切であると考えた。そのために帝国各地を巡回して、ローマ全体の結合の強化と平準化に努めた。また、軍事的に脅威がある土地では中国の万里の長城を彷彿させるような「ハドリアヌスの長城」を建設するなど、帝国の平和と安定を願った。余談だが美少年の愛人がいて、彼が事故死したことを嘆いて、神格化させた。
アントニウス・ピウス
(138〜161)
4番目の皇帝アントニウスは50歳にしてハドリアヌスの養子となり、皇帝となった。ハドリアヌスと元老院は仲がよくなかったが、アントニウスは元老院と協調したことでローマは23年間も平和だった。このことで元老院からは「最良の君主(オプティムス・プリンケプス)」と呼ばれ、死後には「ピウス(慈悲深い)」の名で知られることになる。アントニウス・ピウスはイタリアから出ることはなかった。これは、小規模な反乱は起こっていたが、大規模な遠征が必要なかったからである。この皇帝の時代が最もローマが安定していた時代と言われている。
マルクス・アウレリウス・アントニウス
(161〜180)
ローマの最盛期に君臨した、五賢帝の最期の一人がマルクス・アウレリウス・アントニウスです。ストア派の哲学者だったので「哲人皇帝」と言われる。マルクスが即位した頃、東のパルティアでは大規模な反乱が起こり侵攻してきた。マルクスは大軍を率いて遠征に向かい勝利することで、数々の戦利品を持ち帰った。ところが戦利品に紛れて、疫病まで持ち帰ってしまったようで、ローマは混乱に陥った。一日に2000人も亡くなったとされ、マルクスも病死することになる。この疫病は原因不明であり「アントニウスの疫病」として記録されることになった。当時の記録から推測すると、疫病の正体は「天然痘」と思われる。
さいごに
五賢帝時代の終わりは「疫病」の流行と、アウレリウスの息子が最悪の皇帝だったこともあって終わりを告げることになります。そんな感じでローマの最盛期は終わりを告げて、衰退をはじめるのでした。