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『足利尊氏』優柔不断??それでも圧倒的なカリスマ性を持ったサイコパス

 

室町幕府を開いた足利尊氏は幕府を開くつもりなんて毛頭なかった。発端は鎌倉幕府の指示で討幕を目指している後醍醐天皇を討伐することにはじまる。

 

これがなぜか鎌倉幕府を裏切って、後醍醐天皇と共闘してしまう。鎌倉幕府の討幕に成功したが、後醍醐天皇が目指す世界はら武士にとっては不利な世界。

 

だから足利尊氏は後醍醐天皇と対立したのだ。このように優柔不断で、意味がわからない行動が多かったと言われている。

 

それでも圧倒的なカリスマ性を持っていた。部下への恩賞を手厚くて、戦場で活躍した者がいれば、その場で恩賞を約束する感状を作成した。尊氏の部下たちは、手柄を立てればかなりの恩賞を与えられるので、士気がかなり高かった。

 

あまりにも大盤振る舞いだったことで、与えた土地が被って対立することになったりと、やはりここでも、適当な一面を垣間見ることができる。足利尊氏の管理能力の低さに、子孫は財宝が少なくて困ったそうだ。

 

 

 

 

生涯

 

生まれ

 

尊氏は1305年に河内源氏の足利家の8代目棟梁である足利貞氏の次男として生まれた。側室との子供だったので、父からは家督を継ぐことは想定していなかったが、15歳にして役職を与えられて、北条家からは嫁を貰ったりと、それなりに期待はされていたようだ。また和歌を嗜んでいたようで、後醍醐天皇に和歌を評価されたことで、後醍醐天皇を一方的に信頼した。

 

家督を継ぐ

 

1331年に父の貞氏が亡くなったことで、尊氏が家督を継いだ。長男は父より先に亡くなっている。同時期に後醍醐天皇が討幕を目的に挙兵した。鎌倉幕府の指令で尊氏は反乱軍の鎮圧を依頼される。当初は父の喪中を理由に断るつもりだったが、拒否された。このことが鎌倉幕府に反感を持つ要因の一つになったとも言われている。

 

こうして楠木正成が籠城していた下赤坂城に進攻した。足利尊氏は戦場では常に笑っていたと言われている。雨のように降り注ぐ矢の中でも、笑っていたとか。また合戦は負けたら終わり、敵が近づいたら自害するタイミングだけ教えてと、言い放ったこともある。死を覚悟した姿勢、何なら楽しいんでいる姿から、度胸があると、カリスマ性を評価されたそうだ。

 

この元弘の乱は尊氏の活躍もあって勝利した。反乱に関わった貴族、僧侶は逮捕、処刑、首謀者である後醍醐天皇は流刑となった。尊氏は朝廷から褒美をやるから挨拶に来いと言われていたが、誰よりも先に地元に帰った。これには朝廷側も呆れたと言われている。それほど不本意な合戦だったのだろう。

 

二度目の反乱

 

翌年に島から脱出した後醍醐天皇は再び挙兵した。尊氏に再び鎮圧の指令が下るが、闘病中だったので断ったが、拒否される。さらには妻と子供を人質にされてしまった。司令官として上洛を開始したが、途中で幕府への裏切りを部下に表明した。何でも後醍醐天皇と密かにやりとりをしていたようだ。

 

幕府軍は尊氏の到着を援軍として喜んだが予期しない状況に唖然とする。尊氏はたった1日で京を制圧した。同時期に新田義貞が反乱を起こしたことで、鎌倉幕府を倒幕された。

 

その後も勲功第一として尊氏は、後醍醐天皇から大きく評価された。役職や領土を与えられた。建武の新政では尊氏は自身が役職に就かず、家臣を送り込んでいた。これは後醍醐天皇か、尊氏のどちらかが距離を置いていたと言われている。

 

反乱が起こる

 

建武の新政は天皇を中心とした政治体制であり、武士にはあまりにも不平等に思えるものであった。このこともあり反発を持つ武士と、鎌倉幕府の残党、北条家の生き残り北条時行が挙兵した。この「中先代の乱」で尊氏の弟である直義が鎌倉で、北条時行軍と戦うことになるが、あっけなく敗北する。弟のピンチに尊氏は征夷大将軍の役職を与えるように懇願するが、断られたので、勝手に鎌倉に向かった。天皇は結局、征東将軍の地位を与えた。

 

戦いの果てに鎌倉の奪還に成功した。しかしいつまでも尊氏が戻ってこないので、後醍醐天皇は離反を疑って、新田義貞を送り込んだ。奥州から北畠顕家(きたばたけあきいえ)も南下してくる。絶対的なピンチに尊氏が取った行動は隠居である。寺に籠もってしまったのだ。しかし、直義がピンチになると、「直義が死んだら、生きる意味が無い」と戦線に復帰した。3千の兵を引き連れて新田軍を撃破すると、瞬く間に京に進軍した。この攻勢に後醍醐天皇は比叡山に逃げ込み、京を攻略してしまう。

 

続けて、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞、三人の名将と戦うことになる。戦いの果てに敗北した尊氏は九州に逃亡した。この時の尊氏は「建武の新政以前に戻す」と宣言したことで、負けた尊氏に多くの武士がついて行ったのだ。勝者であった楠木正成たちの部下も含めてだ。このカリスマ性に楠木正成は将来の敗北を悟った。

 

九州

 

九州に向かうと菊池武敏(きくちたけとし)が2万の兵で待ち受けていた。尊氏は二千である。この戦いにはなぜか勝ってしまった。裏切りが続出したとされてるが、歴史書にも「尊氏の前世の行いが良かった」と記述されるくらいに意味のわからない勝利だったようだ。

 

九州で体制を立て直した尊氏は京への進軍を開始した。上皇から新田義貞の討伐と言う大義名分を得たこともあり、武士が集まったことで、3万5千の兵力を得た。湊川の戦いでは、1万8千の新田義貞・楠木正成の軍を撃破した。この戦いで楠木正成を討ち取ることにも成功した。再び尊氏が京を侵略したことで、後醍醐天皇は比叡山にまた逃げ込んだ。

 

「直義が安寧に過ごせることを願う」と清水寺に願文を送って、尊氏は自身の隠居を考えたようだ。比叡山に逃げ込んだ後醍醐天皇の顔を立てることを考えて、和議を申し立てた。和議を申し入れた後醍醐天皇は、光明天皇に神器を譲った。

 

室町幕府

 

1336年に尊氏は室町幕府を開いた。新たな武家政権の内容が厳格だったので、直義がかなり介入していると言われている。新体制が発足されるが、この期間に自由に放置をしていた後醍醐天皇が、光明天皇に譲った神器は偽物であり、本物は私が持っていると実権を主張した。

 

このことで奈良に逃亡した後醍醐天皇は政権を発足したことで、南北朝時代に突入した。二つの政権が存在する泥沼な時代となるが、火種を撒いた後醍醐天皇は翌年に亡くなった。南朝との戦いが北朝が有利に進み、北畠顕家と新田義貞を討ち取り、長期に渡ったて対決をしていた名将を撃破することになった。

 

内部抗争

ライバルを撃破した尊氏は軍事は自身が担当して、内政は直義に任せることにした。しかし直義の内政は保守的な武士には有利であり、成り上がった武士には不評であった。その代表格である高師直(こうのもろなお)は尊氏の側近にまで成り上がった人物で、直義と上杉重能たちと対立する事になる。観応の擾乱である。両者は戦うことになるが、尊氏はあくまでも中立の立場であったので、特に何もしなかった。騒動は直義が出家することで解決した。

 

と思いきや暗殺を恐れた直義に元に義理の息子である直冬が助太刀に現れた。直冬は尊氏の息子であるが認知をされなかったので、直義が引き取ったのだ。なので尊氏に対して強い憎悪を持ち、直義には義理があった。九州で勢力を拡大した直冬を恐れた尊氏は、高師直と共に出陣を果たす。

 

この間に直義は南朝に降伏して、まさかの勢力を拡大に成功してしまった。京に攻め入って、高師直派閥を排除した。そのままの勢いで、九州から帰還した尊氏と師直まで倒してしまう。

 

直義の計らいで、師直が出家することで合戦は解決することになった。しかし、尊氏が裏で動いていたようで、上杉能憲が師直の一族を襲撃して惨殺した。その後は直義は実権を取り戻ることになる。しかし、なぜか尊氏が勝者にように振る舞って、尊氏軍に優先して恩賞を配った。極め付けは師直を殺害した上杉能憲を流刑にした。

 

最早よくわからない尊氏の振る舞いに直義は唖然としただろう。敗者であった尊氏が勝者のように振る舞ったことで、直義の派閥が力を失い、直義が鎌倉から逃亡するを余儀なくされる。尊氏は南朝に政権を譲ることを決めて、直義を討ち取る大義を得た。鎌倉にいた直義と戦い勝利すると、幽閉する。翌月に直義は亡くなった。何でも師直と同じ日に亡くなったことから尊氏が毒殺した説もあるそうだ。

 

だとしたら、本当にとんでもない化物である。おそらく弟である直義にも、側近であった師直にもどちらつかずの中途半端な対応した結果なのだろう。最終的にはめんどくさくなって両者を殺害したのかもしれません。

 

晩年

 

北朝と足利を邪魔になった南朝は尊氏に対してを侵攻する。成長した北条時行を筆頭に、後醍醐天皇の息子である宗良親王、新田貞義の息子である新田義興、楠木正成の息子である楠木正儀など、かつてのライバルの親族たちがこぞって尊氏を攻めた。北朝の存在は何とか保たれたが、1358年に合戦の傷が元になって52歳で、尊氏は亡くなった。南北朝問題が山積みにしての死であった。

 

 

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