源義経は悲劇の英雄として人気がある。奇襲を得意とした天才的な武将で、兄をサポートして平氏を滅ぼした。なのに、慕っていたはずの兄に裏切れて自害することになる。その人気を裏付けるように、実は生きていて、海を渡って「チンギス・ハン」になったなんて伝説まであったりする。
では、史実の源義経はどんな人物だったのか?恐れを知らぬ英雄だったことは間違いない。勝てばなんでもいい。奇襲を得意としたが義経だったが、当時の正々堂々と戦う姿勢とは大きく異なり、勝手な振る舞いで戦う人物として、武将たちからは反感が強かった。その武将たちにも頼朝の許可を得ずに独断で処罰するなど、横暴な態度が続いたので、人望がなかったと言われている。
兄である頼朝に役職を与えられても、後白河天皇との関係を断ち切る事ができずに、謀反まで計画してしまう有様であった。自身が英雄と自負していた義経はついに挙兵するが、勘違いしていた義経に兵は集まらなかった。まさに悲劇の英雄である。
今回は、恐れを知らぬ英雄、源義経の生涯を簡単に要約できたらと思います。
基本情報
(1159〜1189)
国内屈指の英雄の一人である源義経は兄である頼朝が平家討伐を宣言すると、兵を率いて共に戦い平家を滅した。
兄をサポートしたはずなのに、その兄に裏切られて命を落としたことで「悲劇の英雄」とされる。
その出生は謎が多い。幼名は「牛若丸」で、天狗に育てられて、家来となる弁慶を倒したとか。
大人になると兄である頼朝に仕えて平家との戦いに身を投じた。これまでの常識に囚われない戦法で、平家に勝ち星を積んだとされる。
壇ノ浦の戦いで遂に平家を滅亡させて、兄の頼朝は鎌倉幕府を開いた。
しかし、義経は勝手な行動が過ぎる、もしくは義経の人気がいつか驚異になると考えた頼朝によって追放されることになった。
追い詰められた義経は自害した。平家滅亡の立役者が味方に裏切られる。まさに悲劇の英雄だ。
異名
幼名「牛若丸」
逸話
・一ノ谷の戦いで、源義経は「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)と呼ばれる奇襲を成功させた。絶壁から騎馬隊で奇襲を仕掛けるものである。
・自害をせずに海を渡って、にチンギス・ハンになったと説がある。
年表
誕生
1159年 (1歳)
平治の乱によって父の源義朝が死亡。母と共に捕らえられる
自害
1189年 (30?歳)
藤原泰衡が館を襲撃して、妻子を殺害して自害した
生涯
幼少
義経は1159年に誕生したとされていますが、頼朝と対面を果たした22歳からのことまでしか、断定できる要素が少ないようです。1159年に父の源義朝は、平治の乱で平清盛に敗れる。その後に敗走先で部下に暗殺されてしまう。幼い義経は母の常盤御前に連れられて、京に逃げた。常盤御前は数百の中から選ばれた雑仕女で容姿は淡麗であった。平清盛の女になることで、義経も命を救われる事になる。ただし成長したら出家する事が条件に出された。
こうして、幼くして謀反者の子供としてハードな人生がスタートしながら、11歳になると寺に預けられた。
だが自身が源氏に生まれであり、平清盛をはじめとする平家が敵であることを知ると武術の修行に励んだ。義経が預けられた寺は、バリバリの武闘派の僧兵で、義経は武術の基本を叩き込まれた。16歳になると出家して僧になることを打診されるが、義経は拒否して放浪の旅に出た。ここらへんで、幼名の牛若丸から父である義朝と初代源氏で源経基から一字ずつをもらって義経と名乗るようになった。ちなみに勝手に名乗り出したようだ。
放浪の旅では農民の仕事を手伝って収入を得たり、山賊を仲間にしたり、襲ったり、返り討ちにしたりして、収入を得ることもあったと推測されている。この頃の山賊との戦いは、後に当時の戦場のルールを簡単に破る自由な発想にも恵まれたと思われる。つまり勝てば何をやってもいい。
旅の終わりに奥州(岩手)の藤原秀衡の元に向かった。とても薄い伝手だったが、秀衡にとって源氏の棟梁の息子は、平家と対立した時に旗頭にしやすいなど、使い勝手が良かった。奥州で5年間過ごしたのちに、ついに義経は軍を動かすことになる。
義経戦場に向かう
1180年に兄である源頼朝が流刑されていた伊豆から脱出して挙兵した。平家の絶頂期であったが、平家以外はゴミであると態度に現れていたので、各所から嫌悪されていた。さらに清盛の娘が天皇の子供を産んで、皇太子となると、本来有力視されていた以仁王が、平家討伐の手紙を全国に送ったのだ。
これに答えた頼朝は平家に不安を積もらしていた東国の武士を味方に付けて挙兵したのだ。兄の挙兵を聞いた義経は、周囲の反対を押し切って、頼朝の元に向かった。二人は再会して、共に平家打倒を夢見て行動を開始する。運がいいことに、清盛が病死したことで、平家は統制を失っていく。
そんな中で、木曾義仲が台頭してきたのだ。
木曾義仲は倶利伽羅峠の戦いで、平家に壊滅的な打撃を与えて勝利したことで、上京を果たした、天下は木曾義仲を中心に回り始める。しかし、義仲の軍は京でやりたい放題、後白河天皇と揉めて、平家との戦いで敗北したことで、頼朝にチャンスが訪れる。追い込まれた木曾義仲は、後白河天皇を拉致するが、既に仲間は少なく、1000人しかいない。
そこで義経である。宇治川の戦いで木曾義仲は敗走させて、後白河天皇を救出した。木曾義仲は続く戦いで戦死することになる。
平家との戦い
源氏が同志で揉めている間に逃走していた平家は力を取り戻しつつあった瀬戸内海から中国、四国、九州を支配していたのだ。後白河天皇から平家を滅ぼすこと依頼された義経達は、軍を動かした。
こうして、一ノ谷の戦いが勃発することになる。メインの軍が平家と戦っていると、サブの軍を率いていた義経は、崖から急襲することを思いついて実行して、本陣を燃やし尽くして大勝利した。しかし、武士から嫌われることになる。身勝手な奇襲を成功させて平家を倒したので、他の武士の手柄を横取りする形になったからだ。さらに義経は京の周辺に徘徊する平家の残党の処理を任せられることになる。つまり出世したのだ。
その頃に平家の本隊を追う部隊は、平家を追い込んでいく。義経も出陣することになり、1185年に進軍を開始した。屋久島の戦いでは、暴風の中で三日かかるルートを数時間で渡って急襲を成功させている。少数の部隊であったが、山や民家を燃やして大軍に見せかけて、平家を敗走させた。そのまま壇ノ浦の戦いで、平家を滅亡させる。この時に、三種の神器と安徳天皇を無事に連れ戻すことを頼朝から依頼されていた。三種の神器は正式に天皇となるために必須となるアイテム。だが安徳天皇は入水自殺、三種の神器も海に落ちたので、全てを回収する事ができなかった。
この失態に頼朝は怒り狂うことになる。英雄として京に戻った義経だったが、後白河天皇から新たな役職をもらう。敵だった平家の女を側室にするなど、義経は頼朝に敵対する意思があるような矛盾した行動が続く。このことで頼朝から鎌倉に入る事を許されなかった。この事で義経は逆ギレして、京に戻る。
英雄から一転
時間が経過して頼朝は義経に伊予の国司になることを任命した。当時の伊予は国内最大級に栄えていたので、伊予を任せられることは最高の栄誉であった。なので後白河天皇から授かった役職は断って、頼朝の元へと向かわなくてはならない。しかし、義経は後白河天皇に言われるがままに、京に留まって、二つの役職を兼任したのだ。
決定的だったのが、源行家の反乱である。反乱分子であった行家の討伐を命じられた義経であったが、仮病を理由に断って、あろうことか行家に感化されて、謀反を計画したのだ。
この動きを察知した頼朝は義経を襲撃した。それを返り討ちにする義経。もはや兄弟の亀裂は修復が不可能であった。
義経は後白河天皇から頼朝と敵対する許しを得て、戦うことを決めた。これに伴って兵を募集するが、誰もついてこなかった。稀代の英雄「源義経」であったが、常識に囚われない言動に、武士達からの評判は決して高くはなかったのだ。
戦いは一方的なものになった。京を脱出した義経は西國に船で逃げるも暴風によって転覆して京周辺に潜伏することになる。その間に頼朝が後白河天皇に近づき、逆に義経を討つ許可を得たのだった。こうして全国を敵に回してしまった義経は、平家を滅ぼすた僅か一年で英雄から、全国指名手配犯になったのだ。
京に居られないと判断した義経は、奥州に戻って藤原秀衡を頼る。藤原秀衡は義経を旗頭にして、鎌倉と戦うことを決めるが、すぐに病死。その藤原泰衡が跡を継ぐが、頼朝からのプレッシャーによって、義経を襲撃して討ち取ってしまう。1189年のことである。義経の首は頼朝に献上されるが、「勝手に弟を殺すな」とキレて、奥州藤原を滅した。