戦国時代の日本は積極的に合戦していたことで、世界的に見てもハイレベルな戦いを繰り広げていたと言われている。大航海時代によってヨーロッパの有力な国々が、アジアやアメリカ大陸の植民地化を進める中で、日本人は強くてヤバイと判断されて、別の方法を取らざるを得なかったとか。そんな戦国時代で、戦闘民族みたいな野蛮で頭のネジが緩んでいると恐れられた若武者がいた彼の名前は森長可。織田信長の配下で、槍の名手であった森可成の息子。あまりの暴れっぷりに、徳川家康も豊臣秀吉も恐れたと言われてる。
今回はそんな森長可を紹介していこうと思います。よろしくお願いします。
生涯
1558年に森良成の三男として生まれた。森良成は桶狭間の戦いで信長に進言した事で勝利に導いた有能な人材であった。のちに城を任されるまでに評価をされる。そんな父である森良成は浅井、朝倉連合との戦いの果てに戦死する。信長を逃すために僅か1千の兵力で、3万の兵力であった浅井、朝倉連合を数日間も足止めしての壮絶な最期だった。家督を継ぐ予定であった兄まで戦死した事で、13歳にして長可が家督を継いだ。15歳になる頃には森家の当主として、羽柴秀吉、丹羽長秀らと同等な扱いを受けていたとされる。
初陣
織田信忠についた長可は、一向一揆の鎮圧で初陣を飾った。一揆に突撃を仕掛けて森家は高く評価された。その後も、一揆の鎮圧に駆り出された長可は、とにかく誰よりも先に先陣を切って突撃をするような恐れ知らずの猛将となっていく。とある戦いでは船を使って単独で川を渡ると、一揆勢を27人も殺害して、武功を重ねた。と言った感じで森長可は出世していった。父と同様に槍の名手であり、短気で血の気の多い性格から「鬼武蔵」と呼ばれるようになる。これだけの猛将ではあるが、小柄だったことは想像できないもしれない。
甲州征伐
長篠の戦いで勝利した信長は、衰えた武田家を攻め滅ぼす事を決めた。この合戦は織田家が数的に有利であった事もあり若手が多く起用された。その一人が森長可だ。先鋒部隊として、鬼のように活躍した長可は、多くの武田家を葬った。本部とは別行動を取った長可は、城の屋根に登って、板を剥がした。そして、一斉に銃弾の雨を降らした。あまりにも一方的であったと言う。まさに血祭りであった。さらにそこから敵本陣に目掛けて銃を乱射して、自身も槍を持って敵を次から次へと殺しまくった。この戦いはあまりにも無残で一方的な戦いとなり、長可は返り血を浴びて、鎧が赤く染まった。織田信忠は血だらけの長可を見て、大怪我をしたのかと心配したと言う逸話がある。
命令違反を二度もしたこともあって信長から厳重な注意を受けたが、活躍は評価された事で、海津城と20万石を与えられた。
上杉との戦い
海津城を入城したが、武田の残党などの8000人が一揆を起こした。長可は僅か3000人の兵士で、たったの数日で鎮圧してしまう。一揆勢も長可の強さに恐れを覚えたのだ。戦いばかりイメージがあるかも知れないが、領主としても優秀であったとされる。一揆が起こらないように有力な家の妻、子供は海津城に住まわせることで、人質を取り、一揆が起こらないように仕向けた。信濃を安定して統治ができるように尽力した。
統治がうまく行くと、長可は越後に侵攻を開始した。上杉景勝が柴田勝家に攻められた味方の援軍に向かうことを決めたからだ。長可は次々と侵略を成功させて、越後の深いところまで侵攻した。このことで上杉景勝も援軍に向かう事を諦めた。狙いは成功した長可だったが、織田信長が本能寺の変で討たれたことで一転して危機となる。敵勢力の深いところまで侵攻していた長可は、当初の計画を大きく変えて信長の仇をとることにした。
海津城に帰還したが、信長が討たれたことは広まっていて、多くの裏切りと大規模な一揆が起こった。長可は人質にとっていた妻、子供を盾にして安全地帯まで逃げた。そして人質の首をはねて、首だけを送りつけた。鬼畜である。
美濃の制圧
無事にかつての旧領土に帰還した長可だったが、かつての家臣たちの多くは裏切っていた。そこで長可は敵が団結するまでに、勢力を取り戻すことに奮闘した。上恵土城を皮切りに、一月で、今城・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略した。長可の圧倒的な強さを恐れた、根元城、土岐高山城、妻木城の領主は戦わずして降伏した。その後は羽柴秀吉に仕えることを決めると、美濃に残った敵対勢力を次々と攻め落としていく。11ヶ月で敵対勢力を駆逐して、美濃を統一した。
小牧、長久手の戦い
羽柴秀吉と織田信雄が小牧・長久手で一戦交えることになった。森長可も先鋒として戦争に参加した。当初は犬山城を攻略する予定だった既に味方によって攻略済みだった。そこで小牧山を占拠する事を考えて近くで野営をした。しかし小牧山は徳川勢に陣取られていて、奇襲を仕掛けられてしまう。一時は混乱したが直ぐに状況を整理して、長可は迂回して敵軍を攻めるために軍を動かした。しかし、一部が退却と誤解した事で陣形が崩れて、敗北してしまう。
よっぽど悔しかった長可は決死の覚悟で鎧の上に白装束を羽織って出陣した。徳川家康の本陣であった岡崎城の攻略を狙って進軍していく。道中では次々と敵部隊を撃破していき、岩崎城を落とした。順調に見えたが別働隊を動かしていた家康によって、大将である羽柴秀次が敗走してしまう。2次、3次と家康軍が布陣を構えた事で、池田、森長可軍は敵陣営で孤立することになった。退却は不可能。決戦に持ち込む覚悟をした長可は決死の覚悟で戦いに挑んだ。敵本陣に向かう長可に立ち塞がったのは、井伊直政であった。戦いの果てに、眉間を撃ち抜かれた長可は即死であったという。長可の遺体は両軍の奪い合いになった。家康は首はいらないと指示を出したこと、森家の小姓が徳川家の配下を偽って、武功を大声で誇りながら立ち去った事で首を回収することができた。
享年は27であった。先鋒として恐れられた武将と言うべきか、かなり若くして亡くなった。