陰陽師とは、平安時代の日本で国家の危機を未然に防ぐ仕事でした。現代で例えるなら公務員のような立場で、占いや雨乞いによって天気や暦、時刻の通知などの業務に携わっていたとのことです。その業務の中には、漫画やアニメのような、悪霊退治も含まれていたとか。今回はそんな有名な陰陽師を簡単に紹介していこうと思います。よろしくお願いします。
- 観勒(みろく)
- 僧旻 (そうみん)
- 井上内親王
- 賀茂忠行(かものただゆき)
- 賀茂保憲(かものやすのり)
- 賀茂光栄(かものみつよし)
- 安倍晴明(あべのせいめい)
- 蘆屋道満(あしやどうまん)
- 崇徳院
- 城長茂
- 天海
観勒(みろく)
7世紀ごろの百済出身の僧侶。602年頃に日本に来航して、天文、暦本、陰陽道を伝えたとされる。聖徳太子をはじめ選ばれた34の弟子に陰陽を教えた。624年には日本で始めて僧正に任命された。僧正とは、中国の南朝と日本で仏教を統括する僧侶である。観勒は日本の陰陽道のパイオニア的存在と言われている。五芒星文化勢力を陰陽道で封じるために観勒像を鎮座させられるほど、初代僧正としての貫禄を見せた。
僧旻 (そうみん)
?〜 653年
百済からの帰来人。観勒からの次世代の百済大寺寺司。正式な名は「僧日文(そうにちぶん)」だそうだが、誤って縦書きで読まれたことで「僧旻(そうみん)」と呼ばれることになる。608年に決行された小野妹子による遣隋使に同行したことを皮切りに、隋に留学して、24年間も仏教・儒学・陰陽五行思想・天文・易学な多くの学問を学んだ。632年に帰国すると、蘇我入鹿や中臣鎌足に教示した。
井上内親王
717〜775
井上内親王(いのうえないしんおう)は呪詛をしたことで皇后を廃された。井上内親王は聖武天皇の皇女であり、光仁天皇の皇后だった。井上内親王が皇后となる前に、同母妹である不破内親王が称徳天皇を呪詛したとして、追放処分を受けていた。後に復権することになるが、朝廷内では派閥が出来上がったことで、井上内親王も危機的な状況であった。772年には光仁天皇を呪詛したとして、井上内親王は皇太子であった自身の子供共々廃されることになる。さらに光仁天皇の姉が亡くなると、これまた井上内親王が呪詛したことになり、子供と共に幽閉されることになった。775年に井上内親王は子供と同じ4月27日に亡くなった。母子が共に同じ日になくなるなんて考えにくい。おそらく毒殺された可能性が高い。二人の死から天変地異が相次いだことで、丁重に埋葬されることになるが、それでも異変が止まなかったので、神社が建てられたそうだ。
賀茂忠行(かものただゆき)
???〜960年
陰陽家の名門となる賀茂家の始祖。安倍晴明の師匠に当たる人物でもある。前鬼、後鬼を支配下に置いた飛鳥時代の呪術師である役 小角(えんの おづぬ)の末裔だとされている。射覆(せきふ)と呼ばれる箱や袋の中身を当てる透視の技に優れていたと言われている。歴史的に活躍と言えば、元来陰陽家は天文道・暦道・陰陽道の三部門に専門的に仕事をこなしていたが、全てに秀でることで陰陽家としての賀茂家を確立した背景を持つ。安倍晴明の才能には早い段階で気づいていて、幼い晴明の申告で百鬼夜行を逃れたこともあるとか。
賀茂保憲(かものやすのり)
917〜977
賀茂忠行の息子であり、安倍晴明の兄弟子でもあり師匠でもあった。幼少期から才能の片鱗を見せていた。父の妖怪祓いに追従すると、無数の鬼が群れていることが視認することができて、父に伝えたと言う。父は訓練なしで鬼を視認できる才能の高さに、喜んで、陰陽道の訓練を開始した。陰陽の技術は父である忠行と同等のレベルにもなり、官僚としても出世をして、陰陽頭になっている。嫡子の賀茂光栄に暦道を、弟子の安倍晴明には天文道を伝えることで、賀茂氏・安倍氏の2家世襲体制の礎を作り上げた。
賀茂光栄(かものみつよし)
939〜1015
賀茂忠行の孫であり、賀茂保憲の長男で、二人にも劣らない陰陽の達人であった。予知能力に長けていたと言われている。しかし、父の賀茂保憲が陰陽道を二つに分けて、安倍晴明に天文道を授けたことに納得がいかずに、安倍晴明を一方的に敵視した。藤原道長に安倍晴明と共に頻繁に呼ばれて、占星術や相談事に乗っていた。
安倍晴明(あべのせいめい)
921〜1005
鎌倉時代から明治時代まで陰陽道を統括した土御門家の祖である陰陽師。当時の最強陰陽師であった賀茂家の忠行、保憲から陰陽を習った。その後も遣唐使に参加して、陰陽の本場で技術を学んだ。帰化すると独自の陰陽道を確立して、土御門家にも伝わり続けることにになる「占事略决」を制作した。晴明の陰陽道の技術は卓越したものである。陰陽道で最も難しい天文道を伝授されて習得、呪符と人形を使って武神十二神将を式神として自由に駆使して、驚異的な呪術を会得していたと言われている。現代でも陰陽師といえは安倍晴明と思われるくらいに、代表する人物となった。
蘆屋道満(あしやどうまん)
?〜?
達磨国(兵庫)に存在した非公式の民間陰陽師団体出身の陰陽師。安倍晴明が藤原道長に仕えていたことに対して、政敵であった藤原顕光に道満が仕えていたことで、両者はライバル関係にあったと言われている。安倍晴明とは幾度も呪術対決をしていた。安倍晴明が外国に渡っている間に、道満は晴明の妻と関係を持ったことで、二人は命をかけた呪術対決をして晴明を殺害した。のちに復活した晴明によって斬首されてしまう。
また、民間の陰陽師であった智徳法師(ちとくほうし)と同一の人物ではないかと言われている。智徳法師は海賊に襲われた船主を気の毒に思って、呪術を使って取り返したことがある。陰陽道のトップである安倍晴明に挑戦して、式神を奪われた。のちに返却してもらった。
崇徳院
1119〜1164
日本三代怨霊に数えられる崇徳院(すとくいん)は、まず、出生に問題があったとされる。父である鳥羽天皇の息子らしいが、その嫁は祖父である白河法皇の愛人だったのだ。なので白河法皇は孫を天皇として、自身が院政として実権を握ることにしました。鳥羽天皇はこのことを一生涯恨むことになります。
やがて祖父が亡くなると父が実権を握るようになります。父は崇徳天皇に弟を養子にやりました。これは父が院政となり、弟を天皇とすることで実権を握る計画の一つでした。崇徳天皇は自身が院政の立場になれると思っていたので譲位することになります。弟は近衛天皇となりますが、父の策略で崇徳は実権を失ってしまいました。
弟、父が続けて亡くなると、もう一人の弟ーー後白河天皇によって犯罪者扱いされることになります。なんでも崇徳天皇が国を傾けようとしている噂にのっかたそうです。やむおえず崇徳天皇は兵を率いることになりますが、惨敗して謀反人として讃岐に流されることになりました。崇徳天皇の死後、火災などの天災が相次、後白河天皇の周りでも急死が相次いだ。
城長茂
1152〜1201
妙見菩薩を信仰していた城長茂(じょうながもち)は源氏を呪詛した。城長茂は平家の味方になって、木曽義仲と戦った。菩薩とは一年中働くことなく天体は北極星を中心に回転している。そのために北極星には力があると信じられていた。一説によれば、城長茂は源氏を呪詛したと、伝えられている。しかし、6000で挑んだにも関わらず、2000の木曽義仲に敗れてしまった。
天海
1536〜1634
会津出身の僧で家康、秀忠、家光と徳川三代に渡って仕えた。黒衣の宰相と呼ばれていたようだ。焼き討ちされた比叡山の復興の責任者を務めたことから、家康に認められて、側近に加えられたと言われている。陰陽道に精通していた天海の発案によって、江戸の都市開発が進められた。また、日本三代怨霊とされる平将門の呪力を幕府の庇護に向けるように仕向けたこともある。家康の遺体を日光山へ移動したのも天海で、日光山を北極星に見立てることで、江戸城の助けになるように期待した。
ここまで有名な陰陽師もしくは呪術師を紹介しましたが、それ以外にも卑弥呼、聖徳太子、など多くの偉人が呪術に関連していたと言われている。