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【日本の英雄】意外と知らない?日本が誇る歴史上最強、最優の英雄を紹介!!

日本に英雄っているんだろうか?
 
アレキサンダー大王やナポレオン、世界的に英雄と評される偉人は領土を拡大して、各国に権限を広げた。英雄の条件を『世界に影響力を与えた』だったら、日本にはいないかも知れない。
とは言え、国内で人気のある偉人います。広大な領土を獲得した
支配者から、戦士として有名になり人気となった英雄だ。日本では、義理や人情を大事にして悲劇的な最期を迎えた偉人が「英雄」となることが多い。
 
今回はそんな英雄と評される偉人を多く紹介していこうと思います。
 
 
 
 

坂上田村麻呂

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(758〜811)
本来の意味で「征夷大将軍」を全うした歴史上最初の英雄らしい英雄は、坂上田村麻呂だろう。優れた武勇を評価されて、蝦夷(現代の東北)攻略の最大責任者である「征夷大将軍」に任命されて蝦夷に向かった。幕府を開くイメージがあるが、征夷大将軍とは蝦夷を攻略する責任者を指す役職だったのだ。
 
蝦夷にはアテルイと呼ばれる智将がいた。2000人から4000人の朝廷軍を川と山に挟まれた場所にまで誘導して挟み撃ちにするなど、兵力差を戦略や戦法で五分以上にしてしまう。田村麻呂は真っ向から戦うことを避けて、アテルイ以外の蝦夷を攻略してアテルイを孤立させる作戦を取る。勝ち目がないことを悟ったアテルイは遂に降伏した。
 
田村麻呂はアテルイを連れて京にまで連れて帰り和平交渉を進めるつもりだったが、朝廷はアテルイを処刑してしまった。この報復に激怒した蝦夷は、徹底的に抗戦にすることを誓うことになる。こうして長引いた戦争で、資金が尽きた朝廷は蝦夷攻略を断念しすることになった
坂上田村麻呂は亡くなるまで歴代の天皇に仕えて余生を過ごした。死後には「軍神」と祀られる事になる。

坂田金時

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「金太郎」のモデルであり、酒呑童子など化物を倒した物語の英雄。侍のはしりとされる源頼光の配下として活躍したらしい。実在したかはわかりませんが、一応ご紹介します。
 
山で育った金太郎はクマや鹿などの相撲をしたりして過ごしていた。
ある日、源頼光の命令で優秀な人材を探していた碓井貞光によってスカウトされる。武士になることを望んだ金太郎は頼光の元で働くことになり、「坂田金時」の名をもらった。
 
京にのぼった金時は、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光と並んで「頼光四天王」と呼ばれるようになる。同時期に酒呑童子と呼ばれる鬼が山か降りてきて、若者を連れ去っていた。頼光達は京の平和のために、酒呑童子の討伐を開始する。坂田金時の活躍で酒呑童子を退治することができた。
 

平将門

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(903?〜940)
朝廷を敵に回して、関東に独立王国を建国してしまった英雄。天皇を血を引く名家出身だった将門は家族間の争いに巻き込まれしまう。最終的には将門が実力行使によって鎮圧させたので将門の知名度は向上することになる。
 
これはいいことだったが、将門が面倒ごとに巻き込まれる体質を強める事になる。
藤原玄明(ハルアキ)が常陸国司(ひたちこくし)と対立して将門に助けを求めた。常陸国司の重税によって民衆が苦しんでいたので、玄明が蜂起を起こしたのだ。
 
国司に玄明を引き渡すように言われたが、将門を拒否してしまい両者は軍を動かすことになってしまう。将門は1000人の兵力で3000人の国司軍を撃退してしまい領土の所有権を次々に奪ってしまった。
 
将門の勢いは止まることはなく朝廷は焦った。そこで将門を討ち取れば身分に関係なく「貴族」にすると言われ、貴族に憧れがあった者達によって将門は討たれた。
 
非情な死を遂げた将門は悪霊になったらしい。

源義経

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(1159〜1189)
国内屈指の英雄の一人である源義経は兄である頼朝が平家討伐を宣言すると、兵を率いて共に戦い平家を滅した。
兄をサポートしたはずなのに、その兄に裏切られて命を落としたことで「悲劇の英雄」とされる。
 
その出生は謎が多い。幼名は「牛若丸」で、天狗に育てられて、家来となる弁慶を倒したとか。
大人になると兄である頼朝に仕えて平家との戦いに身を投じた。これまでの常識に囚われない戦法で、平家に勝ち星を積んだとされる。
 
壇ノ浦の戦いで遂に平家を滅亡させて、兄の頼朝は鎌倉幕府を開いた。
 
しかし、義経は勝手な行動が過ぎる、もしくは義経の人気がいつか驚異になると考えた頼朝によって追放されることになった。
追い詰められた義経は自害した。平家滅亡の立役者が味方に裏切られる。まさに悲劇の英雄だ。
 

北条時宗

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(1251〜1284)
鎌倉幕府の8代政権となり、元(モンゴル)による二度の侵攻、いわゆる元寇によって危機となった日本を救った英雄。
北条家の本家の出身であった時宗は嫡男として育ち、17歳の若さで鎌倉幕府の最高責任者に抜擢された。
 
幕府の責任者なった頃から元から使者に服従するように、散々忠告されていたようだが、時宗は無視を続けた。
 
1274年には時宗が23歳の頃には、遂に元が侵攻してきた。
元は世界の歴史上でも最大規模の大帝国であり、はっきり言って勝てる見込みがない。
武器に関しても、元軍は「てつほう」呼ばれる爆弾と中距離に向いた弓矢など日本にはない戦い方だった。
対して日本軍は長距離向けの弓矢を使い自分達の射程距離を保ってなんとか退くことに成功した。
しかしながら、かなりの被害が出た。二度目に侵攻された時は、一回目を反省して上陸させることを許さずに海上で戦うことを徹底した結果、「神風」と呼ばれる暴風によって元は撤退した。
 

足利尊氏

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(1305〜1358)
鎌倉幕府を滅して征夷大将軍となって、室町幕府を開いた。英雄と言えるのか評価が別れる武士かも知れない。
 
源氏家の出身なので鎌倉幕府サイドの武士であった。後醍醐天皇が鎌倉幕府と敵対する姿勢を見せたことで、尊氏は幕府から出陣命令が出た。
とは言え、尊氏としても源氏ではなく北条家が全盛期の鎌倉幕府では、武士が評価されない。
仲間達の為にも、後醍醐天皇と手を組んで鎌倉幕府を滅す決断をしたのだ。
 
鎌倉幕府を滅したが、これはこれで問題があった。後醍醐天皇が考える政治体制でも、武士は評価されないのだ。
尊氏が考えるのは「武士」が評価される世界。考えの差異から両者は激闘することになる。
武士の世の中を想像する尊氏には、武士達は当たり前のように力を貸したので、勝敗は目に見えたものだった。
後醍醐天皇を倒した尊氏は、征夷大将軍に任命されて、室町幕府を開いた。
 

楠木正成

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(1294〜1336)
「智」「仁」「勇」の全てを持った忠義の英雄が楠木正成である。
無謀であったことは明白だったが、後醍醐天皇に忠義を誓い足利尊氏と戦った。
そんな正成だが元々は悪党(誰にも仕えてない)だったそうだ。
鎌倉幕府に不安があった正成は、後醍醐天皇の元に身を寄せて、足利尊氏らと協力して倒幕を成功させた。
しかし、後醍醐天皇と足利尊氏には軋轢が生じた。後醍醐天皇は「貴族」を中心とした政治体制、足利尊氏は「武士」を中心とした政治体制を望んだのだ。
正成は後醍醐天皇に、これから尊氏の時代なので「武士」の待遇を良くするべきですと進言したが却下された。
戦いが始まると正成は数々の戦略を考えるが、殆どは後醍醐天皇に却下される事になる。
ここまで待遇が悪く、無能な上司の元でも正成は忠義を尽くして「死」を覚悟して尊氏と最後まで戦った。
 

織田信長

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(1534〜1582)
「天下布武」を掲げた戦国時代を代表する英雄。天下布武とは、武力によって日本を統一すると言う意味ではなく、安定した平和をもたらす意味が有力だそうだ。
織田信長は尾張弱小国の出身であるが破格の勢いで、天下統一目前まで勢力を拡大した。
 
強敵であった今川義元も奇跡的に破り、室町幕府の再興を目指しれ上洛を開始して、織田包囲網を突破して、戦国最強の武田騎馬隊に勝利して天下統一目前に迫るが、家臣の明智光秀の裏切りによって悲劇的な最期を遂げる。

本多忠勝

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(1548〜1610)
徳川家康の仕えた戦国最強の武将の一人で「東日本一の武将』と評された。
生涯で57回の戦争に参加したが、一度も傷を負わなかったそうだ。
 
本田家は徳川家康は松平を名乗っていた頃から、仕えていた家柄で忠勝も幼少から仕える事になる。
12歳で初陣を経験して敵の首を取ってきたとか。
三方ヶ原の戦いでは負け戦ながら、前線に活躍して赤備えを率いた山県昌景を撃退している。
小牧・長久手の戦いでは500の兵力で、2万人の秀吉軍の足止めをした。この活躍に秀吉は「東国一の勇将」と評した。
 

立花宗茂

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(1569〜1642)
戦国最強の武将「本多忠勝」と並んで評価された西国最強の武将こそが立花宗茂だ。
 
幼少の頃から才能があったので、立花道雪の養子となり立花家の当主となった。
島津家の戦いの中で大友家は次第に追い詰められる事になり、豊臣秀吉に助けを求める事になる。
秀吉と協力して島津家に勝利した宗茂は強さを認められて大名に昇格した。
その後、関ヶ原の戦いで西軍についたことで、敗北。領土を没収されるが、今度は徳川に認められて没収前と変わらない領土を貰い大名に返り咲いた。
とにかく強かったので、誰もが欲しがった人材だったのだ。
 

真田幸村

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(1567〜1615)
優れた武力を持っていても英雄になれるわけではない。絶望的な状況でも主君に尽くして最後まで戦った武将が、日本では英雄と評される。
真田幸村はその典型かもしれない。二十歳過ぎてから初陣を経験した幸村は、関ヶ原の戦いに敗北して十年以上謹慎することになる。
 
50歳近くになった時に豊臣勢として大阪冬の陣に参戦した。真田丸と赤備えを率いて徳川を大いに追い詰める事になる。
その強さから、家康は幸村を勧誘するがこれを断り、無謀な大阪夏の陣を迎えた。野戦に持ち込んで家康を追い込んだ。
 

宮本武蔵

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(1584〜1645)
生涯60戦以上して一度も負けなかった最強の剣豪こそが、二刀流で戦う「二天一流」の開祖である宮本武蔵だ。
佐々木小次郎との巌流島の戦いはあまりにも有名であるが、実は嘘かもしれないらしい。
とは言え宮本武蔵が実在したのは本当で、幾つもの命をかけた真剣勝負によって、その精神力は境地に達した。
二刀流のイメージがあるが、これは片手で刀を扱えるようになると、どんな状況にも対応しやすくなると言う考えだったようだ。
自身の死際に「五輪書」と呼ばれる兵法を執筆して亡くなった。この本は現在にまで読まれ継がれている。
 

大石内蔵助

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(1659〜1703)
赤穂事件を描いた「忠臣蔵」の主人公が大石内蔵助(おおいしくらのすけ)だ。
赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城の廊下で吉良上野介を当然斬りつけたことで事件が始まった。
浅野内匠頭はその日の内に切腹することになり、赤穂の領土も没収される事になるが、吉良にはお咎めがなかった。
 
幕府の判断が面白くない大石内蔵助達は吉良邸に討ち入るすることを発表して、47人で深夜に吉良邸を襲撃したのだ。
討ち取った吉良の首は、浅野内匠頭の墓の前に供えたらしい。
その後、幕府に事件を報告した大石内蔵助達は全員が切腹する事になった。
こうして事件を要約すると意味がわからない。
史実では浅野が吉良に斬りつけた理由は不明らしいのだが、映画やドラマでは、浅野が吉良からの賄賂を断ったことで嫌がらせをされたことが原因らしい。
正統な経緯を模造紙したからこそ、大石内蔵助の行いは「仇討ち」として美談のように描かれた。
 

大塩平八郎

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(1793〜1837)
「大塩平八郎の乱」で有名な大塩平八郎です。飢饉によって苦しむ民衆のために大規模な一揆を起こした英雄で、その最期は爆死だそうです。
幕府が兵を動かしたのは「島原の乱」以来の200年降りだったようで、当時の幕府への不安を表したものだった。
 
そんな平八郎ですが、正義感が強くて頑固者だったようです。
一揆を起こす以前にも、キリスタンの摘発、盗賊に協力していた役人を告発、破戒僧を島流しにしたりと、不正に対して異常な程の拒絶を見せた。
 
一揆を起こしたのも正義感の強さからの行動だった。
全国的な飢饉によって深刻な食糧不足が起こり、各地で餓死者が相次いだ。
大塩平八郎は自身の私物を売って食糧の確保に努めたりしたが、このような状況にも関わらず、商人が買い占めたことに激昂して一揆を起こした。
 
一揆の直前になって密告されたことで、幕府の対応が早く一日で鎮圧されてしまう。
 

近藤勇

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(1834〜1868)
新撰組局長の幕末の英雄の一人。実は武士の出身ではないようで、赤穂浪士や三国志の関羽などの英雄に憧れる農家の子供だった。
 
家に泥棒が入ったことがあったようで、子供ながら機転をきかせて撃退したことがある。
この話を聞いた天然理心流の近藤周助の養子となり人生が大きく変わった。
 
道場の師範となった勇は、門下生を連れて上洛する将軍を援護に参加するのなど、次第に歴史の表舞台に登場していき「新撰組」を結成する。
池田屋事件で攘夷派志士を殲滅するなど、幕府につくすが、時代の流れに逆らう事は叶わない。
幕府は新政府軍に追い詰められていき、新撰組も多くの離脱者を出してしまう。
最後まで戦う勇だったが、捕まり処刑される事になる。
 

土方歳三

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(1835〜1869)
新撰組のナンバー2であり、旧幕府軍の総司令官も努めた幕末の英雄。
農家生まれで10人兄弟の末っ子で生まれた。呉服屋で働いた後に、天然理心流に入門して、近藤勇と出会う。
近藤勇とは義兄弟の契りを交わす仲となりと共に「新撰組」を結成した。
知名度を上げていくが、大政奉還によって幕府は終焉を迎える。
土方歳三は近藤勇と、新たな組織を結成して、旧幕府軍として新政府軍と戦うが、捕まってしまい勇が処刑されてしまう。
かつての仲間達を含めて次々と降伏していく中で、土方は総司令官となって戦った。
乱戦の中で腹部に弾丸を食い、35歳で亡くなったそうだ。埋葬地は今でも、わかっていない。
 

勝海舟

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(1823〜1899)
「江戸城無血開城」を成し遂げた幕府の交渉人。その生まれは貧乏な御家人であった。16歳で家督を継ぐ。塾に通うお金がなかったので独学で勉強、剣術も免許皆伝の腕となる。
その後、航海術を学んだ海舟は、福沢諭吉、ジョン万次郎らと共にアメリカに渡った。
アメリカの技術の高さにカルチャーショックを受けた海舟は、日本に戻ると海軍の強化に努めたそうだ。
しかし、横暴な態度が原因で謹慎生活を余儀なくされた。時代は流れ、幕府軍と政府軍は戦争を開始。幕府軍は江戸に攻める政府軍に対する交渉人として、勝海舟を呼び寄せて最大の功績である「江戸城無血開城」を実現させたのだった。
実は無血開城は事前に決まっていたらしい。海舟の凄いところは、もし交渉が決裂したら、江戸城を町を焼き払う焦土作戦を実地する予定だったようだ。
そのために庶民を千葉に避難する計画もあったらしい。
 

坂本龍馬

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(1835〜1867)
幕末最大の英雄であり一番人気があるのは、やはり坂本龍馬だろう。
「薩長同盟」「大政奉還」明治維新は可能にしたのは坂本龍馬の活躍である。
剣術の修行で江戸にやってくるが、ペリーの来航によって考えが変わる。
そんな中で勝海舟と出会い外国に負けない海軍の結成を志した。
勝海舟との活動が目立つようになり、幕府に圧力をかけれるようになる。この頃から命を狙われるようになり、「大政奉還」を実現した一ヶ月後に中岡慎太郎と共に暗殺された。
犯人の有力候補は京都見廻り隊とされている。他にも新撰組も疑われてたようで、後に近藤勇は処刑される理由にも繋がる。
初めての新婚旅行、日本初の会社の設立など、今日まで数々の伝説を語り継がれている。
 

西郷隆盛

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(1827〜1877)
薩摩リーダーとして、「薩長同盟」「江戸城無血開城」王政復古を実現した幕末の英雄。
明治維新後も政治家として活躍した後に、大久保や木戸と決別して西南戦争を引き起こし自害した。
 
そもそも西郷は西南戦争なんて起こしたくはなかったと推測できる。
新政府を追い出された西郷は薩摩に戻って、世界の強国と対等に戦える強い軍を育成する私学校を創立した。これは行き場を失った士族(元武士の身分)に仕事を与える目的もあった。
 
ところが新政府は反乱を起こすのではないかと警戒してスパイを送り込む。
表向きでも、薩摩の倉庫から武器を没収した。これに激怒した私学校側は、政府の火薬などの武器を奪い、スパイを特定して拷問した。
拷問されたスパイは「西郷の暗殺を計画していた」と話したことで、私学校側は政府への反乱を決めた。
新政府には勝てる見込みはない。しかし、士族達に最後の死に場所を造るのが自身の仕事だろうと、西郷は覚悟を決めた。
こうして始まった西南戦争。粘って戦った薩摩だったが、圧倒的な兵力差を埋める事はできなかった。最後には自害を選択した。
 

東郷平八郎

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(1848〜1934)
海軍元帥。日露戦争で大国ロシアを打ち破ったことで、世界的に英雄と評価された。
ロシアに苦しめられていたオスマン帝国(トルコ)では、ロシアを破った英雄として、「トーゴー」と子供に名前を付けるのが流行ったくらいだ。
 
日露戦争に参加した平八郎は50歳を超えていたが、それまでに目立った活躍をしたことがなかった。
そればかりか、日清戦争に向けて大規模なリストラ計画がされる中で、平八郎もリストラ候補だったそうだ。
これは年功序列や名誉職の偉いだけの無能を排除する目的だったので、このエピソードからも平八郎が期待されていない事は容易に想像できる。
 
ところが日露戦争が開戦すると、東郷平八郎は見事に勝利した。しかし、これは奇跡的なものであった。
海上で船の進行方向を変えるのには時間が掛かるので、敵戦に狙われやすいのだが、これを運良く決めた(トウゴウターンと呼ばれる)敵船のエンジントラブル、主力船、二番手に運良く砲弾を命中させるなど、運が何度も起こったことでの奇跡的な勝利だった。運も実力のうちである。