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【プリンツ・オイゲン】ドイツの英雄となり祖国と敵対した最強の軍事司令官

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フランス貴族の出身でありながら、神聖ローマ帝国のハプスブルク家に仕えたオイゲンは、フランスの英雄ナポレオンや、フリードリヒ大王にも高く評価された。

 

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近代、第一次世界大戦の時代になると、オイゲンの活躍は再評価されて、国民的な英雄となり、ドイツ海軍の重巡洋艦の名前に使われるようになる。現代でもプリンツ・オイゲンと検索するとゲームの影響もあって、ドイツ海軍の重巡洋艦が殆どだったりする。

 

日本ではそれほど知名度はないようですが、英雄としては確実に評価が高い人物なので紹介していこうと思います。

 

 

 

 

生涯

誕生

本名はオイゲン=フォン・ザヴァイエン=カリニャンで、1663年にフランス貴族の子供として生まれた。父はフランス軍人、母はルイ14の教育係でありフランスの宰相を務めたマゼランの親戚であるオリンピア・マンチーニで、ルイ14世の愛妾で有名な人物だ。オリンピアとルイ14世は仲がすこぶる良かったので、二人の間には子供がいると噂があった。その一人として噂があったのが、オイゲンである。長男ではなかったオイゲンは家督を継げないので軍人になることを志した。しかし、ルイ14世はこれを認めなかった。 

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家柄は問題がないにしても、オイゲンが小柄だったからだ。軍人として成功しないと判断したルイ14世は、僧職につくことを提案した。本当に血縁関係があったか定かではないが、国のトップに言われてしまってはフランスにはいられない。夢を捨てきれないオイゲンは、軍人として雇用してくれる地を探す決断をした。各地を渡り歩いたオイゲンは、皮肉にも同じカトリックでありながらフランスと敵対関係にあったオーストリアで雇用される事になった。

 

オスマン帝国との戦い


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神聖ローマ皇帝レオポルト1世はオスマン帝国との戦いで劣勢となり、ウィーンを脱出していた。とにかく戦力が欲しかったレオポルトは、周囲の意見を無視してオイゲンを軍人として雇用した。ロートリンゲン公シャルル五世に従い戦線に参加したオイゲンは、騎兵隊を率いて手柄を立てた。レオポルト1世の救援要請にカトリックの同盟国は答えて、ポルトガルやスペインが軍を動かした。なかでもポーランド王のヤン三世ソビエスキはエース格として大活躍をしたそうだ。勝敗を決定付けるゼンタの戦いで、二十歳前後のオイゲンは奇襲を成功させた事で、オスマン帝国の約3万人を溺死させる大勝利に貢献する。この活躍で、オイゲンはオーストリアの有力な将軍として数えられるようになった。その後もオイゲンは活躍を続けて、1693年には30歳にして元帥に昇格した。

 

フランスとの戦い

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フランスのルイ14世と、神聖ローマ帝国のレオポルト1世は、スペインの王位を巡って争うことになる。これがスペイン継承戦争である。オイゲンは北イタリア戦線に向かいフランスと交戦することになった。

 

オイゲンが最初に戦ったのは、ニコラ・カティナ元帥であった。カティナ元帥は強靭な防衛線を張って確固たる自信を持っていたが、オイゲンも真っ向から進軍をすることが危険であるとわかっていた。なので大回りして、後方から進軍することで奇襲を成功させた。カティナ元帥は二度も撤退を余儀なくされてしまいルイ14世によって左遷されることになる。

 

続いてオイゲンの前に立ち塞がったのは、ヴィルロワ公である。ヴィルロワ公も敵ではなくオイゲンによって捕虜にされた。次にイタリアに送れたヴァンドーム公にも勝利するが、オーストリアから財政支援が途絶えたことで窮地に立たされる。

 

離反にあったこともあり、フランス軍は帝都ウィーンに迫る勢いであった。イングランドのマーバル公ジョン・チャーチルと合流したオイゲンは、迅速に兵を動かして、フランスの大軍と激突する。敵からの攻撃を予想していなかったフランス軍は、連携が大きく崩れて思いように機能しない。ブレンハイムの戦いと呼ばれるこの戦いでは、フランス軍は約2万人が戦死して、約1万人が捕虜となり大きなダメージを受けることになり、ルイ14世の勢いはここから後退するのだった。

 

ヴィラールとの戦い

フランスとの戦いは続き両軍は再び大軍を率いて衝突することになる。ところがフランスはルイ14世の意向もあって総司令官にブルゴーニュ公ルイは抜擢された。ブルゴーニュ公はルイ14世の孫であり、それまでフランス総司令官を務めてたヴァンドーム公と意見が合わなかった。フランス側の連携がまるで取れてなかったこともあり、オイゲンはフランスをさらに追い詰めていく。ついにはフランスと言う国そのものは危機的状況となった。

 

それでもルイ14世はスペインの王位を狙い、ヴィラール元帥を送り込んだ。ヴィラールはスペイン継承戦争から後にフランス大元帥に昇格することになる戦上手で、オイゲンとはオスマン帝国との戦いで共闘した仲でもあった。

 

マルプラケの戦いでオイゲンとヴィラールは戦い、辛くもフランスが勝つことになる。しかし、両軍合わせて3万人以上が戦死することになり、オイゲン自身も負傷するなど、どちらも国力は限界に近づいていた。オイゲンとヴィラールは和平交渉を進めるようになり、ルイ14世を説得してスペイン継承戦争は終結することになる。

 

「和平を目的としない戦争は全て愚行である」

 

オイゲンはスペイン継承戦争の後半になると、戦争の落とし所を探すようになっていたと言う。条約によってネーデルランドの総督になったオイゲンは、墺土戦争に参戦する。オスマン帝国とバルカン半島のセルビアを争ったこの戦争は、オイゲンを中心に準備をが進められて8万の兵を集めたが、オスマン帝国は15万の大軍勢であった。数的には不利の戦いであったオイゲンは敵を降伏させることに成功して、ヨーロッパの英雄として称賛された。

 

晩年

ポーランド継承戦争に参加して、後にプロイセンの英雄となるフリードリヒ大王を従えて従軍するが、病気によって活躍はできなかった。それでもオイゲンの名前だけで、敵軍にプレッシャーを当て得るには充分であった。ロシアのピョートル1世からは、ポーランド王に推薦されるが、これを断り生涯をオーストリアで従えることを決めた。マリア・テレジアの結婚相手の相談に乗るなど、多くの偉人がオイゲンを頼り高く評価した。1736年にオイゲンは亡くなった。相続する子がいなかったので、オイゲンの資産は全てハプスブルク家のものになる。

 

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