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【七英雄】英雄が認めた七人の軍事指導者

 

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軍人から皇帝にまで成り上がり、革命によって混乱していたフランスを導いた皇帝ナポレオン。彼の功績はかなり大きいので知らない人なんていないでしょう。あのベートーベンもナポレオンの影響を受けて交響曲第3番「英雄」を作曲したとされ、現代のフランスでもナポレオンのイメージを損なうということで、豚に「ナポレオン」と命名することは禁じられているようです。それだけの影響力を持つ人物ですので、ナポレオンが残した言葉は現代でもいろいろ残っています「余の辞書に不可能の文字はない」とか。そんなかでナポレオンは七人の英雄を特に称賛したと記録が残っているので、ご紹介していきたいと思います。

 

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最後までよろしくお願いします。

 

 

 

アレクサンドロス大王 (前356~前323)

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古代マケドニアの王。短い生涯で約4500キロに及ぶ遠征と征服を成し遂げた。アレクサンドロスが率いるマケドニアの最大の敵はペルシアだった。ペルシアは当時最大規模を誇る強国で、ペルシア約25万に対してマケドニアは5万にも満たない兵力差で戦うこともあった。戦力差は五倍ほどであったが、ペルシア軍は統率力に欠けていて、反面マケドニア軍は当時としては優れた戦術展開を繰り広げていたと言う。城を攻めるなら無闇に突撃はせず、相手に攻めさせて城門を閉めにくい状態にしてから、一気に攻めるとか。アレクサンドロスは常に自ら先頭に立っていたので、状況に応じて臨機応変に指揮を取っていた。ペルシアの王ダレイオスとアレクサンドロスが剣を交える場面があったとき、ダレイオスはビビって妻子を取り残して逃げ出した。踏ん張れば勝つこともあったかも知れないがら王の醜態もあり、ペルシアはマケドニアには勝てなかった。また、アレクサンドロスは征服した領地で素直に投降するものには、身分はそのままで領地も不用意に奪いはしなかったし、優秀な軍人は将校にしていた。そのこともあって古参のメンバーから不安が漏れてら遠征は一旦休止になった。その間にアレクサンドロスは僅か33歳で急死した。生涯無敗だったと言う。大帝国はアレクサンドロスの死後に分裂してしまった。

 

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ハンニバル・バルカス (前247~前183)

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カルタゴの英雄でローマ史上最大の敵と言われる。ローマとカルタゴが地中海の覇権を巡って第一次ポエニ戦争が起こった。カルタゴの指揮を取っていた父が戦死して、意思を受け継いだハンニバルは第二次ポエ二戦争に身を投じた。カルタゴが最も得意としたの海戦だった。なのでローマはカルタゴは海を渡って攻めてくると思っていましたが、ハンニバルは陸での戦いを選んだ。わざわざ遠回りしてローマに向かうのですが、なかでもあり得ないことは「アルプス越え」でしょう。秋だったとは言え雪が降る極寒。兵士の半分を失いましたが、見事に「アルプス越え」を達成しました。「半分失った」と聞くと「ヤバイやん」と思いますが、カルタゴでは傭兵を雇うのが当たり前だったので訪れた現地で兵の補給などをしていたようです。アルプス越えと言う奇策によってローマに連勝、決定的だったのがカンナエの戦いでしょう。カルタゴは弓なりの陣形を牽いて、ローマ軍に中央突破をさせる。カルタゴの中央が攻められてくると、陣形をV字にして左右から一気に攻めた。この包囲撲滅作戦でカルタゴは圧勝して、ローマの7万人の兵力の内、1万は捕虜で、6万は戦死した。対してカルタゴは5万の兵力で戦死は5700ほどだった。その後、本気になったローマからスキピオ・アフリカヌスの登場して、戦いは休戦交渉が進むほどに熱を増していきましたが、交渉は決裂。ザマの戦いではハンニバルがカンナエの戦いで行った包囲撲滅をローマのスキピオが真似をしてカルタゴは完全敗北。地中海はローマのものになりました。

 

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ユリウス・カエサル (前100?~前44)

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「ハゲの女たらし」と呼ばれたカエサルのキャリアのスタートはそこまで早くはなかった。歴史の表舞台に出たのは30代後半頃で、カエサルは40代でローマの最高の地位である執行官になった。執行官になったものは退位後に軍を率いて他国に遠征するのがルールだったのでカエサルはガリアに向かいました。ガリア地方は現代でいうフランス辺りを指していて、ローマ人とは全く違う言語を話す、ケルト人とゲルマン人の領地でした。ゲルマン人は金髪の長身で、ローマ人は黒髪に低身長。ローマ軍は結構ビビっていましたが、カエサルはゲルマン人は統制が取れていないという弱点を見つけて味方を鼓舞しました。実際ローマ軍は良く訓練された部隊だったので烏合の集同然だったゲルマン人は相手ではありませんでした。ケルト人もゲルマン人とは変わらない統率が取れていない部隊で、当初は敗北もしましたが、ケルト人は攻めるのは得意でも防戦はまったくダメでした。なので全軍で攻めに攻めたみたいです。カエサルはガリア遠征で、ベルギー、オランダ、スイス、フランス、イギリス、ドイツを攻略したので、ヨーロッパを建国したのはカエサルと言われることもある。また、カエサルは投降する者の命を奪うことはなく、農業だったりとローマの文化を教えたりした。この活躍でカエサルのローマ人気はとてつもないことになり、さらにガリア遠征での約八年に及ぶ経験豊富な兵達によって内乱に勝利してローマの独裁官になった。

 

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グスタフ・アドルフ (1594~1632)

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スウェーデンの王で三十年戦争で活躍した「北方の獅子」。グスタフは子供の頃から政治に関わっていた秀才で、ラテン語、ドイツ語、オランダ語、フランス語、イタリア語、などを流暢に話すことができた。なかでも三兵戦術を実践したのがグスタフの凄いところだ。三兵とは、槍兵、銃兵、騎兵を指していて、槍兵を中心に両サイドには銃兵、さらに端に騎兵を配置する薄い陣形。グスタフは銃の軽量化に従い、銃兵を三列横に並べて一斉射撃をすることで火力を高めることに成功。さらには騎兵による突撃では至近距離で射撃みたいなことを行わせて、三兵が密接に援護しあう形にした。野戦砲には最新の3ポンド砲を大量に投入したりして、それまでの戦い方を一新したグスタフの戦法はカルチャーショック的な衝撃だったらしい。グスタフは三十年戦争の介入の最初の戦いで一気に名声を集めて英雄となった。また、相次ぐ戦争で疲弊した国民からの不満が漏れていたので、グスタフは傭兵政策を取った。傭兵はヨーロッパ中から集めてスウェーデンは長らく傭兵政策を行ったという。

 

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アンリ・テュレンヌ (1611~1675)

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ナポレオンはテュレンヌ元帥をフランス最高の元帥と評価した。テュレンヌは14歳から戦争に参加していた人物で長いキャリアのなかで、着実に経験を重ねていった。ナポレオンは「その才能は歳を重ねるたびに際立った」と評価している。と言うのもテュレンヌは貴族の子供として生まれ、アレクサンドロスやカエサルに憧れたが吃音症に生涯悩まされ、虚弱体質でもあった。13歳のときに父が亡くなるとテュレンヌは肉体の鍛練を積み虚弱体質を直そうと努力した。14歳で志願兵としてオランダに渡り、着実にキャリアを積んだテュレンヌはフランスに戻ることになります。金である程度の地位を獲得することができたらしいですが、テュレンヌは実力で地位を獲得していき軍人としては最高クラスの地位「元帥」となりました。この頃には努力家のテュレンヌとは正反対の天才肌のルイ二世・ド・ブルホンこと「大コンデ」が現れます。彼は破天荒なエピソードが多くテュレンヌとは真逆なタイプと言えました。二人は共に三十年戦争を戦い、和平条約を結ばせてフランスの領土は大きくなった。平和になったかと思いきや「フロンドの乱」が勃発してフランスはテュレンヌ率いる王軍と、大コンデが率いる反乱派で別れて、戦争になります。努力対天才。戦いは天才と謳われた大コンデが有利と思われましたが、地味ではあるが戦略をしっかり立てて堅実に戦うテュレンヌの勝利となりました。その後テュレンヌは「大元帥」フランス史上6人しかいないフランス軍人にとって最高の地位になります。テュレンヌはその後とある戦争の開戦して直ぐに偶然にも砲弾に直撃して戦死しました。

 

 

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プリンツ・オイゲン(オイゲン・フォン・ザヴォイエン)(1663~1736)

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名将プリンツ・オイゲンは神聖ローマ帝国。すなわちハプスブルク家に仕えて帝国の軍事面を大きく躍進させた人物である。フランス人の貴族の出身で、母はルイ14世の愛人だったので、オイゲンはルイ14世の子供であると言う噂もあった。軍人になることを渇望したが、実の父かも知れないルイ14世やらに「小柄」であるからと別の道を進むように言われたオイゲンは自分を必要としてくれる地を探して、オーストリアに落ち着いた。反対するものも多かったが、皇帝レオポルト一世に見出だされたオイゲンは、着実に武功を上げた。オイゲンの戦法はスピードであった。相手の予想を遥かに越える迅速でかつ大胆に軍を動かすことに長けていた。晩年は70歳にして総司令官として出陣している。さすがに指揮官としての能力は劣ろいてしまい後手に回っていた。しかしフランス軍もプリンツ・オイゲンの名前に怖じ気ついて攻勢に転じることはしなかった。もはや名前だけで相手を混乱させていたのだ。引退したあとも他国から高く評価されていて、英雄フリードリヒ二世は毎日オイゲンと食事をして戦略を学び、ピョートル一世からはポーランド王に推挙されたが、これを断り神聖ローマ帝国に忠誠を誓った。

 

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フリードリヒ二世 (1712~1786)

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プロイセンの王で「大王」と評された人物。優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロセインを強国にしただけではなく、幼少の頃から学問だけではなく芸術に没頭していた。父であるフリードリヒ・ヴェルヘルム一世は兵隊王(軍人王)とあだ名されるくらい横暴で凶悪な王さまだったので、芸術なんてものに関心を示す自子をよく思ってはいなかった。なのでフリードリヒは暴力やら食事を与えられないとか虐待を受けて育ったらしい。そんななかで我慢の限界の達したフリードリヒは逃亡することにしたが、その日のうちに捕まり、手引きをした人物を目の前で処刑されて、フリードリヒも幽閉された。その後、父に許してもらいフリードリヒは国王としての道を進むことになる。1740年に即位すると父の意思をついで、富国強兵につとめてオーストリアのハプスブルク家マリア・テレジアと継承戦争を勃発させる。ヨーロッパではハプスブルク家の弱体化を求める声があり、プロイセンを支援した。そのこともありプロイセンは戦争に勝利して、フリードリヒは軍事指導者としてその名を広めた。また七戦争ではフランス、ロシア、オーストリアを相手に敗北に追い詰められるが、ロシア王がフリードリヒ二世を崇拝するピョートル三世になったことで、軍が撤退した。「君主は国家のしもべである」啓蒙主義であったフリードリヒ二世は近代的な政策を数々行い、戦争の勝利によって領土を倍にして、人口を三倍にした。プロイセンをヨーロッパの列強にした功績から「大王」と呼ばれた。

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まとめ

 

今回はナポレオンが心底褒め称えた七人をご紹介させてもらいました。どの人物も大英雄に相応しい、のちの世の中に影響を残した人物ばかりです。なかでもアレクサンドロス大王、ハンニバル、カエサルはどの英雄も憧れた、凄い軍事指導者であると再認識しました。

最後までありがとうございます。

 

 

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