
黒軍。
その名前だけで、なんとなく強そうだとわかる。実際、ヨーロッパ最強と謳われた軍隊だった。しかしこの軍を作り上げたのは、大国の王ではない。17歳で即位したばかりの若き王だ。
その名をマーチャーシュー1世という。
ハプスブルク家と戦い、オスマン帝国を退け、一時はウィーンまで落とした。なのに日本ではほとんど知られていない。今回はそんなマーチャーシュー1世の生涯を簡単に解説していこうと思う。
生涯
誕生と即位
まず、父親の話から始めなければならない。
マーチャーシュー1世の父、フニャディ・ヤーノシュは幼い頃からオスマン帝国との戦いに身を投じていた。戦果を積み上げ、ハンガリー王国で英雄と呼ばれるまでになった人物だ。宮廷での軍事的な活躍によって膨大な領地を与えられ、ヤーノシュ一族はハンガリー随一の貴族へと成長していく。
ただし、その領地はオスマン帝国の脅威に晒される最前線でもあった。
そんな英雄を父に持ちながら、マーチャーシューの幼少期は決して恵まれていなかった。父は病没し、兄は内乱で命を落とした。政治的な思惑も絡み、気づけば17歳のマーチャーシューが国王に選出されることになる。
即位後、マーチャーシューはまず中央集権を推し進めた。王に財力と権力を集中させ、力をつけすぎた貴族たちを牽制した。さらに首都に大学や文庫を設立し、文化面でも国の発展に貢献した。若き王の動きは速かった。
ハプスブルク家との戦い
マーチャーシューの最初の壁はハプスブルク家でした。ハンガリーの前王は後見人にハプスブルク家のフリードリヒ3世を指名していたので、マーチャーシューが即位すると、当然のように難癖をつけてきたのだ。しかも困ったことに、フリードリヒ三世はハンガリー国王を証明する王冠を所有して、ハンガリー北部の所有権も実質的に保有していた。ハンガリー北部はイスクラとフス派(キリスト)の傭兵部隊が所有権を持っていたが、これを大金で忠誠を誓わせた。王冠問題もお金で解決したと言う。即位後の問題を解決させたマーチャーシューは、念願であった領土の拡大を開始した。
オスマン帝国との戦いだ。十字軍の名において、オスマン帝国の進行を阻止、もしくは奪還に成功したマーチャーシューではあったが、敗北を味わい自身も負傷することになる。そこでマーチャーシューは、自前の国軍、常備軍を持つことを決めたのだ。それが黒軍である。
黒軍誕生

黒軍の母体は父であるファナャディ・ヤーノシュの時代からすでにあった。中世ヨーロッパでは、住民から徴兵することが当たり前であり、殆どが、パン屋、農民、建築士など、本職を別に持っていることが一般的であったが、黒軍は傭兵の集団として、闘うことを本職とした。言わば戦うことのスペシャリストなのだ。
またマーチャーシューは、当時にしては画期的であった火器の導入に力を入れた。火縄銃を積極的に取り入れて、高価であった火薬にも、惜しむことなく大金を投入したのだ。
当時の軍隊は火器が導入され始めたにもかかわらず、槍兵を中心にしたオールラウンダー的な兵士が一般的でした。戦場ではなんでもこなせるような意味になりますが、実際には、全ては中途半端になります。対して黒軍は、歩兵、砲兵、軽騎兵、重騎兵と役割をはっきりさせることで、それぞれ統制力を飛躍的に上げることに成功したのだ。
画期的な戦術と、最新兵器の導入で黒軍はヨーロッパ最強と謳われた。1487年の全盛期に3万人の傭兵を抱えた。
しかし、黒軍を維持するには多額の費用が必要だった。マーチャーシューは傭兵を次から次へと、雇い入れるが、財政は火の車だった。維持費を確保するために、貴族から徴収した。もちろん貴族から反発があり、反乱が起こるが、その度に黒軍で鎮圧をした。
最大の功績
1479年に勃発したブレッドフィールドの戦いでは、黒軍の強さを知らしめることになる。オスマン帝国が4万3000人の軍勢でハンガリーに侵攻したのだ。対する黒軍は1万2000人のみ。黒軍の指揮官は様子見をして、オスマン帝国が疲弊したところを襲撃した。黒軍に気づいていなかったオスマン帝国は、陣形をとることもできずに、黒軍の攻撃にあう。戦いは最初こそはオスマン帝国が優位であった。最終的には3万人の死者を出して黒軍が圧勝した。この戦いの影響は計り知れないものとなり、オスマン帝国はハンガリーへの侵攻を控える結果となります。
ヴラド3世との関係
オスマン帝国との戦いにおいて、同世代の英雄であるヴラド3世の存在も忘れてはいけない。串刺し公と畏れられたヴラド3世とは、同盟関係にあったが、オスマン帝国と内通していたとして、マーチャーシューは彼を幽閉した。
逝去
マーチャーシュー1世はオーストリア、ボヘミア方面にも勢力を拡大する。モラヴィアを奪還して、一時はウィーンを陥落させるなど、ハンガリー最大の版図を実現した。
1479年にはシレジア、モラヴィア、ラウジッツの領有とボヘミア王位を認められ、実質的なオーストリア大公に選出された。
ハプスブルク家を追い出して、神聖ローマ皇帝位までも目指せるような、大きな存在になった。
だが、1490年に47歳で逝去した。
嫡子がなかったため、ボヘミア王ヴラジスラフがハンガリー王に即位したが、マーチャーシュー1世の死によって、抑えられていた大貴族たちの専横が再び強まり、強力を誇った黒軍も弱体化と同時に内部分裂する
そんな状態でハンガリーは、モハーチの戦い(1526年)ではオスマン帝国に決定的な敗北を喫することになる。
ハンガリー王国は偉大な英雄を失ったことで、瞬く間に瓦解していくことになる。