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アレクサンドロス大王は何をしたのか? 年表、逸話、生涯を簡単に解説

 

 

 

 

 

基本情報

 

(前356〜前323)

古代のマケドニア王で、20代のうちに巨大帝国を築いた伝説的な人物。短い生涯でヨーロッパからインドに至るまで広大な領土を征服したことで、後の英雄であるカエサルやナポレオンも憧れたとされる。二十歳で即位したアレクサンドロスは、東方遠征を開始して当時の最大国家「ペルシア」を相手に不利な状況であったのにも関わらず、勝ち星を重ねていくことで、巨大帝国を築くとに成功して東西の文化融合を実現した。ところが志半ばで、急死することになり、帝国は瓦解してしまう

 

異名

 

大王、アレキサンダー、イスカンダル

逸話

 

・オッドアイ

・アリストテレスの弟子

・ゴルディアスの結び目の由来

・アレクサンドリアを作った

・酒によって王宮を燃やした

・酒の席で親友を殺してしまい、後悔した

 

年表

 

誕生
前356年 (0歳)
マケドニア王国の首都で生まれる
アリストテレスと出会う
前342年 (14歳)
父の意向でアリストテレスが招かれて家庭教師になる
初陣
前338年 (18歳)
カイロネイアの戦いで初陣を果たす。この戦いで父であるピリッポス2世がギリシャ全域に影響力与える事になる
即位する
前336年 (20歳)
父のピリッポス2世が暗殺されたので即位する。敵対者を排除して再びギリシャを平定した
東方遠征
前334年 (22歳)
父の意思を引き継いで、東方遠征に向かう。
大国ペルシアに勝利する
前333年 (23歳)
ペルシアの王ダレイオス3世が率いていた10万の大軍に勝利した
ファラオになる
前332年 (24歳)
エジプトを占拠してファラオと認められる
バビロン、ペルシアを支配する
前331年 (25歳)
ダレイオス3世の20万人の大軍に勝利する。ペルシアを支配した
インドに向かう
前327年 (29歳)
インドを攻略するが、兵たちが疲弊したことで遠征を断念する
早逝
前323年 (32歳)
高熱に苦しんでバビロンにて、亡くなる

 

生涯

 

王位継承前

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紀元前356年に生まれたアレクサンドロスは、マケドニアの王子として生を受けました。父であるピリッポス二世は、ギリシアで弱小国家だったマケドニアを強国にまで成長させたやり手であり、ヘラクレスの血を継ぐ一族で、母であるオリュンピアスはアキレウスの血を継ぐ一族だそうです。つまりアレクサンドロスはヘラクレスとアキレウスの血統を持った一族なんです。どういうことわかりませんが、ギリシア神話の英雄であるヘラクレスとアキレウスの子孫ってことなので神であるゼウスの血をアレクサンドロスは持っていることになります。また、母であるオリュンピアスや姉のキュロスは戦士としても優秀だったようなので、かなり期待されていたと思われる。

 

12歳になったアレクサンドロスは戦友とも言える相棒と出会います。父であるピリッポスの元に商人がやってきて、大きな馬を売り付けようした。だが、この馬はとても気性荒く誰も乗りこなすことができません。ところがアレクサンドロスは「腕前と勇気がなくて乗りこなせにばかりに、名馬を失うのか!」と馬が影に怯えていることに気づき見事に乗りこなしました。この馬は「ブーケファラス」と名付けられて、後にアレクサンドロスと共に戦場を駆け巡る相棒になります。

 

13歳になったアレクサンドロスは、あの有名な哲学者であるアリストテレスの元で学ぶことになる。アリストテレスは「万学の祖」と言われた哲学者で生涯で550冊も本を出した秀才です。アレクサンドロスは「高貴に生きることはアリストテレスから学んだと」言葉を残すくらいアリストテレスを師匠として尊敬したようです。

 

アレクサンドロスは偉大な先祖の生まれであり王族であったが、有名な哲学者からあらゆることを学んだことで、重圧に負けない実力を兼ね備えていったと思われます。事実、紀元前338年に父の指示でギリシア南部に出兵したアレクサンドロスは敵軍を壊滅させて初陣を勝利で収めた。この勝利によってマケドニアが、ギリシアの覇権を握ることに大きく貢献することになる。アレクサンドロスは次世代の王としての能力も証明したのでした。

 

王となり東方遠征へ
 

ギリシアの実権を握ることに成功しますが、父であるピリッポス二世が暗殺されてしまい、アレクサンドロスは二十歳にしてマケドニアの王となりました。王位と熟練の軍隊を受け継いだアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを完全に掌握すると、全ギリシアとの同盟を唱え、事実上のギリシア制圧を成し遂げた。

 

そして、ギリシアの宿敵であるペルシア東征に出発しました。

 

マケドニア軍は、グラニコラス川でペルシア軍と対峙します。この戦いでアレクサンドロスは、先頭になって戦うと敵将を撃ち取る活躍をみせ、両軍に大きなインパクトを残すことでカリスマ性を証明しました。アレクサンドロスは、金髪で左右の目の色が違うオッドアイであったとされる。そんなカッケー容姿で、馬に跨がって敵将を討ち取りはじめたら、王でなく英雄そのものであろう。嫌でもカリスマを持ってしまいます。
 

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この頃、アレクサンドロスはとある伝説を残している。ペルシア領の街を占拠したアレクサンドロスはゼウスの神殿を訪れた。神殿には古い戦車が祀られて、その戦車には「ゴルディアスの結び目」と言われる複雑に縄が結ばれていた。伝説では「この縄を解いた者はアジアの支配者になる」と言われていて、それを聞いたアレクサンドロスは剣で縄を両断して「運命とは伝説でもたらされるものではなく、自身の剣で切り開くものである」と兵に宣言した。この頃のアレクサンドロスはまだ20歳である。20歳がこんなことを高らかに言ったと思うと相当の自信があったのでしょう。

 

そして、天下分け目の戦いとも言える運命の戦い【イッソスの戦い】を迎えます。 

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ペルシア帝国のダレイオス三世が率いるのはペルシア軍12万人、対してアレクサンドロスが率いるマケドニア軍は四万人足らず。アレクサンドロスはこれまでにない戦法を確立して、ペルシア軍から五万人とも言われる戦死者が出して圧勝しました。アレクサンドロスはダレイオス三世と戦場で剣を交えたが、ダレイオスはビビって、母や妻、娘を置いて逃げ出したとされる。ダレイオスの家族はマケドニアの捕虜になったが、アレクサンドロスは丁重に扱いました。ペルシアには勝てないことを理解してダレイオス三世は和睦を申し出るが、アレクサンドロスは拒否してさらなる進軍を続けた。

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アレクサンドロスの快進撃は続き、難なくエジプトを攻略して、ファラオ(神であり、エジプトの王さま)になります。

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アレクサンドロスを侮っていたダレイオス三世は、ついに本気を出すことになってきます。遅すぎるくらいですが、20万前後の大軍を準備してガウガメラの戦いに望みます。マケドニア軍は4万7000くらいの兵力。【イッソスの戦い】以上の兵力差。それでも、アレクサドロスが率いるマケドニアの大勝利に終わりました。アレクサンドロスの天才的な戦術はどんな兵力差でもなんの問題もなかった。またしてもダレイオスを追い詰めますが、味方の救援要請があって逃がしてしまいます。しかし、逃亡中にダレイオスは味方に殺害されることになります。これで、アレクサンドロスはさらなる進軍を実現させて、ペルシア領土の都市を次々と侵略してペルシアの帝国の王となりました。

 

アジア進出

 

アレクサンドロスは優秀なペルシア人は積極的に採用して軍の強化を図った。この判断に古参のマケドニア将校は強い反発を見せたと言う。しかし、アレクサンドロスは無視した。そればかりか追放したり、親友を自身の手で殺害するようなこともあったと言う。(追放した者は後から再採用・親友を殺害したことはすっごい後悔した模様)しかも、アレクサンドロスの暗殺計画を企てる者も現れた。それでもアレクサンドロスの中では野心が勝ったようでアジアに進出した。中央アジアでは過酷なゲリラ戦を強いられて、さらには遊牧民族との激しい戦いで士気は低下していたが、遊牧民族の王に「アレクサンドロス様の言うことは何でも聞きます」と言わせた。

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この頃にアレクサンドロスはロクサネに一目惚れをして結婚することになります。

 

それでインドに進出しました。インドの敵は「象」と言う秘密兵器を持っていたので、今までとは違う戦闘に苦戦しましたが、最後には辛くも勝利しました。アレクサンドロスはさらなる進軍を渇望しますが、兵士達の疲労はピークに達してペルシアに戻る決断をすることになります。また、名馬ブーケファラスが戦での傷が原因で亡くなりアレクサンドロスはかなり悲しんだ。

 

ヘレニズム文化

 

帰国したアレクサンドロスは征服した地域の管理に力を入れました。ペルシア、マケドニア、バビロンなどの膨大の地域を同君連合の形を取りアレクサンドロスは王となる。円滑な征服を行うために積極的にペルシア人を採用して、アレクサンドロスはペルシア人に受け入れて貰えるように努力した。一説では、ペルシアを侵略していくうちに、ペルシアの高度な文化に感激して、宿敵であったダレイオス三世を尊敬するようになったからと言われています。

 

こうして行われたのは、スーサでの合同結婚式です。マケドニアの兵士とペルシアの女性による結婚式行われ、文化の融合が成されました。アレクサンドロスもダレイオス三世の娘と結婚することになる。しかし、マケドニア人は半ば強引に結婚させられたので不満の声があがり、「マケドニアの文化」を蔑ろにしていると猛反対する動きもあった。対してアレクサンドロスはマケドニア側の意見を聞く気は全くなかったようだ。

 

急死

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ヘレニズム文化を浸透させるための活動を続けていくアレクサンドロスは、アラビア遠征計画をしますが、紀元前323年6月10日に32歳の若さでこの世を去りました。蜂に刺されたことで10日間高熱にうなされたそうです。

 

一説には強引な文化融合によって暗殺されたとも言われている。若くして亡くなってしまったアレクサンドロスですが、歴史上でもトップクラスの大帝国を建国して世界の英雄達が憧れる存在となります。アレクサンドロスは後継者をちゃんと指名せずに「もっとも強い者が帝国を継承せよ」と遺言を残したことで、帝国は内乱に突入することになります。最初の妻であるロクサネと長男アレクサンドロス4世、異母兄弟、母や姉、有能な将校。それぞれの野心が複雑に絡んだ内戦が勃発して、帝国は瓦解することになる。

 

逸話

 

東方遠征

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紀元前334年から紀元前323年までに、ペルシアの領土への進軍を開始した。元々は父であるピリッポス二世が、国の貧富の差が広がることを恐れて、領土を拡大して農民に与えることが目的でした。即位したアレクサンドロスは帝国の拡大に力を注ぎ込んだので、一度も母国であるマケドニアに帰ることはなかった。主な敵はペルシャで、マケドニア軍が4万人前後に対して、ペルシア軍が12万、最大で20万人と国力の差は歴然であった。それでも敵の主要都市を次々と落として、ペルシアを壊滅に追いやったのだ。

 

どうして広大な領土を得ることを目的にしたのか不明である。一説には「名誉欲」とされる。自身の名誉もありますが、血に飢えた兵士達を従えるためにも戦いが必要だったのかも知れません。

 

ヘレニズム文化

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ペルシアを征服したアレクサンドロスは、領土の管理に力を入れるようになる。その一環でペルシアの優秀な人材を積極的に採用した。また、ペルシアの文化を取り入れることで、ペルシア人からの信頼を勝ち取ることを考えた。一説にはペルシアとの長い戦いのなかで、ペルシアの高度な文化に感激したからだとされる。こうして、ギリシア文化とオリエント文化が融合して「ヘレニズム文化」が誕生した。

 

文化の融合としてアレクサンドロスは「スーサの合同結婚式」を行った。これはマケドニアの兵士とペルシアの女性による結婚式で、アレクサンドロスもダレイオス三世の娘と結婚することになる。ところが、マケドニア側の大半が強引に結婚させられることになり、不安の声があがった。

 

容姿

 

身長は低かったようですが、金髪でオッドアイ(左右の目の色が違う)だったそうです。戦場では名馬ブケパロスに跨がり、陣頭指揮を取っていた。さらに自身も敵将を討ち取るなどの活躍をする人物だったので、カリスマ性は抜群。誰が見ても逸脱した人物に感じたのではないでしょうか?

 

両親と先祖

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父であるピリッポスはギリシアの弱小国であったマケドニアを強国にまで成長させた手腕で。ヘラクレスの血を継ぐ名家の出身である。母のオリュンピアスはギリシア北部のロッソイ王の娘でアキレウスの子孫と言われている。つまりアキレウスは「ゼウス」の子孫なのだ。アレクサンドロスが即位するときも母によって、「ゼウス」の息子であると噂が広めたみたいです。アレクサンドロス自身も、先祖を意識していたようで、アキレウスに遺体を戦車に繋いで走り回る伝説があるならやってみたり、ヘラクレスが落とせなかったとされう砦を陥落させた。

 

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家庭教師

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哲学者であるアリストテレスの元で学ぶ機会があった。アリストテレスは「万学の祖」と言われた哲学者で生涯で550冊も本を出版した秀才です。アレクサンドロス自身も師匠として尊敬していたようで、「高貴に生きることはアレクサンドロス大王から学んだ」と言葉を残している。わざわざ名が知れた哲学者を家庭教師と招き入れるくらいですから、親からの期待もかなり高ったと思われる。

 

ゴルディアスの結び目

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二十歳頃にはアレクサンドロス大王はとある伝説を残したとされる。ペルシア領を占拠したアレクサンドロスは、ゼウスの神殿を訪れた。そこで祀られている戦車には「ゴルディアスの結び目」と呼ばれる複雑な縄が結ばれていた。伝説では「この縄を解いた者はアジアの支配者になる」と言われていて、それを聞いたアレクサンドロスは、剣で縄を切断してしまったのだ。「運命とは伝説でもたらせるものではなく、自身の剣で切り開くものである」とアレクサンドロスは高らかに宣言した。

 

なぜ強かったのか?

 

二十歳頃にアレクサンドロスは初陣する。それから王になり大遠征が終わる十年間で負けはなかった。それを可能としたのは、単純に当時のマケドニア軍が間違いなく世界最強の軍隊だったからだ。素朴な食生活を好むマケドニア人は健康的で質のいい兵士であり、しっかりとした訓練もされていたので統率力が高った。ファランクスと呼ばれる伝統的な長槍を活かした兵の編成を改良して、臨機応変に対応することを可能とした。さらには、当時としては先駆けでもあった投石機などの導入や、兵糧攻め、ヒットアンドアウェイの戦術であったり、卓越した戦法を駆使していたようだ。アレクサンドロスは自身も兵士であり、敵将を討つ活躍を見せた。前線へ積極的に行くので自身が大怪我をすることもあったが、勇敢な王の姿に部下の士気を上昇、臨機応変な指示も可能とした。これら特異な要素を持っていたからこそ、マケドニアは最強であり、アレクサンドロス大王は生涯無敗であった。

 

性的指向

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大王にへファイスティオンと言う名前の親友がいました。彼とは幼馴染であり側近でもあった。この二人は肉体関係があった可能性が高いそうです。当時は得に男同士が関係も持つことは珍しくはありませんでした。遠征の忙しさもあったからでしょうけどアレクサンドロスは29歳で初婚を経験したのも、へファイスティオンを愛していたからかも知れません。へファイスティオンは病で亡くなるとアレクサンドロスは治療をできなかった医師を殺害して、へファイスティオンを神として崇めるように指示をした。

 

死因

 

アレクサンドロスは10日間も高熱にうなされて、紀元前323年に亡くなりました。実は死因については断定することはできないとされています。高熱にうなされたことから、西ナイル熱に感染して亡くなったとされる説もあれば、暗殺説もあるようです。暗殺された理由ですが、酒癖が悪く放火や部下を斬りつけるなんてこともやっていたことや、上記でも説明しましたが、オリエント文化の擦り付けが原因とされています。

 

後継者

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アレクサンドロスは「最も強い者が帝国を継承せよ」と言葉を残して亡くなったので、彼の死後に帝国は混乱して、後継者争いが勃発した。後継者は争いは二人の将軍が覇権を争うことになる、一人はカッサンドロスで、彼はアレクサンドロスの異母兄弟を即位させる考えだった。もう一人のポリュペルコンはアレクサンドロスの死後に生まれた息子アレクサンドロス4世を即位される考えでした。後継者争いは、母であるオリュンピアスまでを巻き込むことになっていく。この大規模な争いの勝者はカッサンドロスであった。カッサンドロスはアレクサンドロスの母、子供を含めて血筋を全て殺害して、自身が即位するのでした。