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『細川忠興』戦国時代の愛妻家は究極のヤンデレらしい

 

さて、あなたが女性だとして、夫と食事をしていたとしよう。

 

庭師によって懇切丁寧に手入れされた庭で、昼食を取ることになっている。天気は快晴で、料理人が腕振るった料理は格別美味しかったに違いない。なんでもない。寧ろ戦国時代の日常にしては、のんびりとしていて、幸福だった。

 

それが突然にして、鮮血が跳ねた。

 

細川忠興が、妻であるガラシャに見惚れたとして、庭師の首を切り落としたのだ。さらに刀に付着した血は、妻の着物で拭き取った。こんな暴挙を起こされたら、あなたはどう思うだろう?

 

私なら全力で逃げ出して、離婚を切り出すと思う。実際に細川ガラシャも細川忠興との離婚を願っていたようだ。

 

今回は戦国時代に実在した究極のヤンデレ細川忠興が何故にヤンデレとなったのか? その生涯と、妻である細川ガラシャとの愛をなるべく簡単に解説できたらと思います。

 

 

生涯

 

生まれ

 

細川忠興は1563年に細川家の長男として生まれた。細川家は室町幕府の将軍であった足利義輝に仕えていたが、後に織田信長と足利の仲が悪くなると、父は織田家に仕えることを決めた。忠興は信長の嫡男であった信忠に仕えることになる。

 

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織田家

 

15歳にして初陣を飾る。続いて離反した松永久秀の部下が立て籠る城攻めで明智光秀らと活躍したことを評価されて、信長が自らが直筆した礼状を頂いた。

 

そして、明智光秀の娘である玉子。のちの細川ガラシャと結婚した。

 

細川家は元々足利家と縁のあった家系です。同じく新参者であった明智家とは、どうにも縁があったようで、信長は両家がより親密になることを狙ったとか。細川家は明智光秀の支援されて、丹後(京都の北部)を支配することになった。

 

本能寺の変

 

大きな変革が起こった事件は誰もが知る「本能寺の変」でした。その首謀者が明智光秀であることは周知の事実でしょう。信長を討ち取った明智光秀は各地に散らばった武将や有力者に、自身に仕えるようにと書状を送ります。

 

殆どが断るなかで、細川家も断ります。互いの子供が結婚していて、仲がいいとされていてもです。なんなら忠興の父は、光秀の謀反を聞くと直ぐに隠居を決定して、家督を忠興に譲り、ガラシャと離縁することを提案しました。

 

明智との縁を切ることは今後に置いて大事なことだと思うが、忠興は離縁は選択しないで、妻を山奥に幽閉することに決めた。

 

明智光秀は豊臣秀吉に敗れて、落命すると、秀吉の天下が一段と近づく。本能寺の変が起こって早々に動いた細川家に、お咎めはなかった。しかし、忠興の妹が嫁いだ一色家は、明智と内通していたとして、細川家が撲滅して、その領地を手に入れることになった。

 

豊臣政権下

 

豊臣政権下では小牧・長久手の戦いで七将に数えらるほどの、勇ましい活躍を残して、朝鮮への進攻にも参加した。

 

その裏で、妻ガラシャは今だに幽閉生活を送っていた。秀吉の天下が安定する頃には幽閉生活が解かれていましたが、忠興は各地を転々して戦いに明け暮れていた。

 

忠興が九州に派遣された頃に、新たな子供に恵まれたが、その子が病弱で心配の種が増えた。父である明智光秀の離反、長年の幽閉生活、豊臣政権、ガラシャは以前から興味を持っていたキリストに没頭することになってしまった。

 

時を同じくして、九州に赴いた秀吉は想像以上にキリストが反映していることに脅威を感じて、宣教師の追放を命じました。これはキリストを広める宣教師を追放するだけで、キリスタンには特に何もなかったとされるが、妻がガラシャと名乗りキリスタンになったことに忠興は反対した。「側室を五人設ける」などキリスタンではあってはならないことをすると脅かすが、ガラシャは強い意思もあって黙認するようになる。

 

この頃から忠興の様子がおかしくなり、冒頭で紹介したようなヤンデレ全開のエピソードが誕生するようになります。乳母の些細なミスを咎めて、耳と鼻を剃って追放したり、家臣を斬りつけてその刀の血をガラシャの着物で拭った。ガラシャも忠興が謝罪するまで、意地でも血だらけの着物を着ていたという。

 

そして、冒頭のエピソードは続きがあり、首を落とされた庭師を見てもまるで動じないガラシャに忠興は「蛇のような女」と罵る。

 

対してガラシャは「些細なことで人を着るあなたは鬼です。鬼である。鬼の女房には蛇がお似合いです」と互いに牽制するのでした。

 

 

関ヶ原の戦い

 

秀吉が亡くなったことで、世間は混乱するようになります。政権争いが勃発したことで、徳川家康と石田三成が対立することになり、衝突が避けられないことになります。

 

忠興は家康に仕えることを決めて、妻子を大阪の屋敷に残して人質とすることで、信用を得ました。

 

家康の命によって上杉征伐に向かうことになった忠興は、屋敷に残した家臣に「もし敵が攻めてきたから慣習に乗っ取って自害せよ」と言いました。

 

妻に自害しろまで言っていなかったし、まさか本当に事件が起こるなんて忠興自身が誰よりも思っていなかったことでしょう。

 

忠興が留守にしている隙に、三成が動いたのだ。忠興の妻であるガラシャを人質にすることで、三成側に寝返りさせようと画策したのだ。細川家の屋敷を兵で囲んだ三成は、大阪城に入城することを指示するが、ガラシャはキリスタンは自殺をすることはできないので、屋敷に火をつけて、壮絶な最期を選択したのでした。これほどの覚悟を持っていたことに驚愕した三成は、この一件から武将の妻を人質に取ることはやめたそうだ。

 

忠興は妻をキリスト式で葬って、死を悲しんだ。ガラシャは生前から夫との離婚を望んでいたとされるが、最期まで二人が少し歪んだ愛で結ばれていたのかもしれない。一方で、長男である忠隆の嫁は逃げ出したことで、父と子の仲が悪くなったそうだ。

 

関ヶ原の戦いでは前哨戦から活躍をしたようで、本戦では黒田長政と共に、宿敵である石田三成軍と直接対決して、136人も討ち取ったとされている。きっとすべての怒りをぶつけたのだろう。

 

徳川政権

 

小倉藩の初代藩主となるなど、評価をされるが1611年に病に倒れる。家康に漢方薬を紹介されて回復した。後に家康にお礼をしたそうだ。

 

大坂夏の陣にも参加したが、1620年に病気によって三男に家督を譲った。この三男とも仲が悪かったようで、実質的な権力は忠興にあったようです。

 

余生も忙しく過ごしたようで、死際では「戦場が恋しい」と言い残すなど戦国武将らしかった。忠興は、1646年に83歳で亡くなった。