チキンのネタ倉庫

歴史、事件、雑学、エンタメを適当に紹介するブログ

【女英雄】勇敢に戦った日本の女傑10選!!

 

www.chickennoneta.com

 

以前にこんなの書いたみたいなんですが、これの日本バージョンを書いていこうと思う。現代でこそ男女差別が世界的な問題になったりしていますが、日本の歴史を振り返ると男性と女性に差がない時代もあった。ご存知のとおり、卑弥呼のような女性が国のトップになることは、古代日本では珍しいことではなかったのだ。そればかりか、男の代わりに、戦場で戦う女性がいたことも確かで、戦国時代では女性が銃を持って戦っていた記録が数多く残っている。

 

だが、中国や欧米の文化を取り得る過程で、男は仕事をして、女は家事をするみたいなイメージが強くなり隔たりが生まれてしまう。おそらく明治時代辺りから日本は大きく変化したのではないだろうか?

 

現代にまで蔓延るあらぬイメージを払拭することは、なかなか難しい。だが、本来の日本の姿や女性の在り方を知れば、偏見がなくなるのかも。と言うわけで今回は、日本の女性英雄をテキトーの紹介していこうと思います。どうぞよろしくです。

 

 

 

神功皇后ーー世界に影響を与えた最古の女傑

 f:id:adachi3939:20210516223205j:plain

(40〜69)

日本の女王。仲哀天皇の皇后だった人物であり、卑弥呼のようなシャーマンみたいな立場だった。

 

仲哀天皇は軍を率いて、九州の族を討伐して領土の拡大を考えていた。ところが神託を受けた神功皇后は、朝鮮を攻めるべきであると言い出した。九州へ向かうべく準備をしていたので、あまりにも現実的ではない。無視をしたが、仲哀天皇が遠征先で戦死してしまった。

 

こうなってくると、実権を握るのは神功皇后である。軍を率いた神功皇后が、朝鮮に向かった。朝鮮の王は日本の大軍を見て、戦わずして白旗を上げたそうだ。

神功皇后は世界に名を知らしめた。このエピソードは日本だけではなく、中国や朝鮮にも資料が残っているようで、現実で起こった可能性が高い。

また、神功皇后は日本の最初のお札に絵は使われたようなので、やはり古代から影響力があったに違いない。

 

巴御前ーー日本が誇る伝説の怪力

 f:id:adachi3939:20210516223300j:plain

(不明)

源義仲の愛人だった女傑であり、この時代で最強の武将だった。義仲とは幼少の頃からの仲で、義仲が平家討伐に向かうと家臣の一人として戦い武功をあげたという。

 

田舎者で教養がなかった義仲は、後白河法皇に反感を買ってしまい討伐されることになってしまう。ここで登場するのが源義経だ。義経の奇抜な策に敗走を繰り返した義仲は、たったの4人になるまで追い詰められた。

 

ここまで追い込まれた義仲は、巴を逃そうとする。しかし、巴としてもプライドがあったようで、敵を馬から引き摺り下ろすと、首を捻じ切ったらしい。しかも片手で。

 

なんでも巴御前は、とんでもない怪力の持ち主だったようで、両脇に敵の頭を抱えると、そのまま締め殺したエピソードまであるのだ。義経に追い込まれた義仲は討ち取られるが、巴は最後まで生き残り91歳で生涯を終えたと言われている。

 

板額御前ーー巴御前と並ぶ女傑

 f:id:adachi3939:20210516223355j:plain

(不明)

巴御前に並ぶ女傑で、平安から鎌倉時代に活躍した。なんでも188センチもあったらしい。

 

平家側の豪族である城家の出身であったが、平家が滅亡して鎌倉幕府が開いたことで、一族は逃げることになる。城家は鎌倉幕府打倒を目指して、奮闘することになり、板額御前も戦力して戦った。大柄な体躯に、城家随一の弓の腕で、敵を倒していくが、幕府軍との兵力差を前になす術は無く捕虜となった。

 

鎌倉幕府2代目将軍の源頼家は、処刑するつもりだったが、浅利義遠が嫁にしたいと名乗り出た。浅利は板額との子供は優秀な武将に育ち幕府に貢献する、と説得した。

これに納得した頼家は嫁にすることを承諾した。板額も嫁ぐことを素直に受け入れたそうだ。

 

甲斐姫ーー城を守り抜いた戦国の姫

 

(1572〜不明)

戦国の時代の姫でありながら、父に代わって城を守り抜いた女傑。北条家に従っていた成田家の出身で、武勇の才覚に恵まれた女性として育った。

 

時の権力者である豊臣秀吉に、北条家が従わないことを決めたので、秀吉に攻められることになる。豊臣家から派遣された石田三成は秀吉の指示もあって執拗に水攻めをしたらしい。したらしいは語弊がある。水攻めをするには工事が必要になるのだが、甲斐姫はとにかく邪魔をしたし、地元の人間に工事をさせたのもあり、上手く進まなかったのだ。

 

業を燃やした秀吉は、援軍を向かわせた。この援軍に対して甲斐姫は、200の兵を引き連れて城を出て戦ったのだ。しかも敵兵を討ち取ったらしい。北条家が滅亡することになるので、戦いは豊臣側の勝利となるが、三成は勝った気がしないと嘆いたそうだ。

 

甲斐姫の活躍は秀吉にも届くことになり、成田家の存続を約束する代わりに、甲斐姫が秀吉の側室になった。

 

立花誾千代ーー戦国最強の嫁

 f:id:adachi3939:20210516223709j:plain

(1569〜1602)

戦国時代に本多忠勝と並んで、最強の一人と評された立花宗茂の嫁であり、城主だったとされる。大友宗麟の家臣であった立花道雪は男子に恵まれなかったので、一人娘であった誾千代に家督を譲った。

 

誾千代は7歳で当主となり立派な武士として育つ覚悟を持ったとされる。しかし、立花道雪は同僚の息子である男子を気に入り強引に婿として迎え入れた。それが立花宗茂だ。

 

立花宗茂との仲が、良かったのか実はよくわかってない。二人の間に子供が授かることはなく、別居していたとされている。とは言え宗茂が朝鮮に派遣されると、誾千代が城を守っていたらしい。

 

関ヶ原の戦いで宗茂が西軍につくことになるが、東軍に惨敗、宗茂は敗走することになる。誾千代は宗茂を迎えに行き城まで無事に届けると、自身は軍を率いて追手である加藤清正を戦ったのだ。

 

既に名の知れた誾千代に恐れた清正は、戦わずして引き返したとされる。この時点で伝説的な女傑であったのだ。ところが、この二年後に誾千代は32歳の若さで亡くなってしまう。宗茂は必死に看病したと言われているので、やはり二人の仲は良かったのだろう。

 

小松姫ーー本田、真田とゆかりのある姫

 f:id:adachi3939:20210516223833j:plain

(1573〜1620)

戦国最強の武将である本多忠勝の娘であり、真田幸村の兄・信行の嫁が小松姫である。武田の家臣であった真田昌幸は、武田家滅亡後に独立を図った。

これよって対立したのが、徳川家康であった。真田昌幸は劣勢でありながらも、第一次上田合戦で徳川家康に勝利して真田の名前を天下に轟かせた。秀吉の介入で真田は徳川の与力大名となる。家康は真田との和解を考えて、本多忠勝の娘を真田に嫁がせた。信行と小松姫はとても仲が良かったと言う。

 

だが1600年になると、状況が変わってくる。関ヶ原の戦いによって真田家は分裂したのだ。昌幸と幸村は西軍に、信行と小松姫は東軍についたのだ。これはどちらが勝っても真田家が存続することを願ってらしい。

 

昌幸は最後に孫の顔が見たいと城を訪れるが、小松姫は武装して追い返したのだ。これに昌幸は「さすが本多忠勝の娘だ」と感嘆した。後日、小松姫は昌幸と孫を会わせるように、取り計らった。小松姫は戦国の女らしい覚悟を持っていながらも、女性らしい優しさも持ち合わせていたのだ。

 

池田せんーー200人の鉄砲隊を率いた

 

(不明)

織田信長の家臣である池田恒興の娘ことが池田せんだ。池田せんは武道に精通していたようで、200人の鉄砲隊を率いて戦場で活躍していたとされている。活躍を評価されて一時期は城を任せられていたと記録が残っているようだ。

 

小牧・長久手の戦いにも参加したそうだが、父である池田恒興と夫の森長可(森蘭丸の兄で猛将で知られる)が亡くなってしまった。池田せんの記録は小牧・長久手の戦い以後はのあんまり残ってはいない。再婚して、池田家と森家に尽くしたとされている。

 

細川ガラシャーー壮絶な最期を迎えたキリスタン

 f:id:adachi3939:20210520224231j:plain

(1563〜1600)

明智光秀の娘であり、キリスタンであった女傑。ガラシャは戦に参加したわけではないが、戦国の娘らしい壮絶な最期を遂げたことで知られている。

 

時代は関ヶ原の戦い直前であった。夫の細川忠興は徳川家康につくことを決めたので、東軍に参加することになった。西軍の石田三成はガラシャを人質にして、細川忠興を西軍につかせる強行手段を取ろうとしたのだ。

 

「もし、わしが不在時に襲撃されたら自害せよ」と忠興に言われていたガラシャは、三成が攻め入ると自害した。さらに遺体を回収されないように、屋敷を爆発させたと言う。石田三成はかなり衝撃を受けたようで、正室の人質作戦は取らなくなった。

 

中沢琴ーー男装剣士

 

(不明〜1927)

幕末時代の女性剣士で男装して戦ったと言われている。父親が道場を開いていた剣士だったようで、兄と共に幼少から剣術の稽古に励んでいた。

 

徳川家茂が上洛することになり、警護を必要とした。これが浪士組である。後の新撰組のメンバーである近藤勇などに混ざって、中沢琴は男装して兄と浪士組に参加した。

しかし、浪士組の真の目的は攘夷(外国勢力の追い出す活動)であった。元々の目的である将軍の警護は「新撰組」、江戸の治安を守る「新徴組」の二つに別れることになり、琴は新徴組に属した。

 

170センチと大柄な女性であったので、男装していても違和感はなかった。それどころか男色の風習が残っていたこともあり、男からも女からもモテモテだったらしい。

 

時代が流れて戊辰戦争が始まると、琴は戦場で剣を振るった。しかし、新政府軍が扱う大砲などの一歩進んだ兵器に成す術はなく敗戦することになる。西郷隆盛の温情で実質お咎めがなかった琴は兄と故郷に帰った。自分より弱い男には嫁げないと、生涯を独身で過ごした。

 

中野竹子ーー婦女隊を結成して華々しく散った

 f:id:adachi3939:20210516224423p:plain

(1853〜1931)

戊辰戦争で最も壮絶だったとされる会津戦争で壮絶な死を遂げた女性剣士。会津藩の役人の娘として生まれた竹子は、文武両道の才媛であったとされる。

 

戊辰戦争が開戦すると、新政府軍は次から次へと侵攻していき、竹子たち会津にまで手を伸ばした。竹子は女性達を引き連れて、婦女隊を結成して新政府軍と戦う意思を示した。死を覚悟していた竹子は、最年少での参加者である妹が、「苦しい思いをして死ぬなら自身の手で」と葛藤する。しかし、妹はもしもの時は自害する覚悟であると語ったことで、思い止まった。

 

それは竹子も一緒であった。戦場で撃たれた竹子は、敵に首を取られるくらいなら、首をはねてくれ、と妹に頼み絶命した。婦女隊は竹子の死後も懸命に戦い続けた。

 

 

女武者の日本史 (朝日新書)

女武者の日本史 (朝日新書)

  • 作者:長尾 剛
  • 発売日: 2021/04/13
  • メディア: 新書