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『島津豊久』ドリフターズ の元ネタ。島津の退き口の立役者を簡単解説

 

 

 

関ヶ原の戦いで島津軍は、石田三成との意見が対立して前線で待機をしていました。しかし、小早川秀秋の裏切りによって、孤立する事になる。退路を断たれた島津軍は、敵軍を強行突破する作戦に出る。この時に島津豊久は、しんがりを担当して、最後の一人になるまで戦った。一説では僅か13人で、徳川軍の足止めをしたと言われている。島津豊久は、槍に何度も刺されても、死ぬまで戦いを続けた。この鬼気迫る戦いぶりから、ドリフターズでが主人公格の一角として、モデルになっている。

 

今回は若くして伝説的な最期を遂げた島津豊久を簡単に紹介できたらと思います。よろしくお願いします。

 

 

 

生涯

 

生まれ

 

島津豊久は1570年に薩摩で生まれました。祖父は島津貴久で、父は貴久の四男に当たる島津家久である。嫡男である島津義久が島津を継承すると、薩摩国を統一して勢力を拡大した。その立役者こそが、三人の弟である。三男である家久は、兄弟で最も武勇に優れていたと言われていた。その息子である島津豊久も幼い頃から武勇に優れた父に憧れて、戦場で活躍することを夢見たようです。また江戸時代後期の文献によると、美少年だったようで、現代の鹿児島でも豊久は美少年として知られているようです。

 

豊久は元服(現代で言う成人式)する前から一人前の武将として評価が高かった。14歳の頃、元服する前から初陣を経験して、手柄を立てた。

 

また、島津と龍造寺との九州の覇権をかけた合戦の中では、父の反対を押し切って戦に参戦した。戦いは6000と20000と島津が不利であったが、見事に生還して島津の勝利に貢献した豊久は、父からあっぱれであると、賞賛されたのでした。

 

九州攻め

 

1587年に元服を果たした島津豊久でしたが、更なる強敵が本土からやってくるのでした。それは豊臣秀吉です。大友宗麟の要請に応えた秀吉は、総勢2万人の大軍を準備した。島津軍は退却しながらも奇襲を成功させて、豊臣軍の大名を三人も討ち取った。しかし、19万人の豊臣軍が豊臣軍が本土から上陸すると、たちまち島津は巨大な軍に敗北することになり、降伏をするのでした。豊臣秀吉に従うことを決めたので、島津は薩摩の実権を失うことはなかった。

 

しかし、この年に豊久に起こった変化がこれだけではありません。父の豊久が亡くなったのです。18歳で家督を急遽継ぐことになった豊久は、秀吉の指示で京都攻めに参戦する。1590年に小田原征伐にも参戦した。

 

 

文禄の役、慶長の役

 

1592年に文禄の役にも参戦した。海外進出なんですが、島津家は兵を出すかで内部で揉めたようです。最終的には主君の島津義久の代理で島津義弘が兵を送り出すことになります。誰もが海を渡ることを拒む中で、豊久は500人の兵力を集めて、いち早く合戦に参加することを決めたのでした。

 

豊久の活躍は恐ろしいものであった。朝鮮の城を僅か500人で奪うと、60000人の朝鮮軍を相手に籠城して、反撃をしつつ撃退してしまったのだ。晋州城の攻略では一番乗りで入場して、馬印を掲げたことで、その存在を知らしめた。海戦でも、「船から船を飛んで敵を討った」と記録が残るくらいの大活躍をした。さらに船まで奪って秀吉に献上したそうだ。彦陽城の戦いでは単騎で突撃して、敵将を討ち取った。豊臣は朝鮮との戦いで苦戦を強いられていたが、島津家のみが不利な状況でも、勝利をもぎ取った。

 

 1598年に秀吉が亡くなると、朝鮮侵略は中止となり、豊久は帰国した。朝鮮での活躍を認められた豊久は、父・島津家久と同じ官位である中務大輔(なかつかさのたいふ)になった。島津豊久は豊臣からも認められる猛将と評価されたといえる。

 

関ヶ原の戦い

 

1600年、関ヶ原の戦いが勃発する。秀吉が亡くなったことで、天下は不安定となり、徳川家康と石田三成が衝突したのだ。当初は徳川家康側につく予定でしたが、石田三成から勧誘もあって、西軍につくことになった。

 

しかし、合戦の前夜、島津は夜襲を仕掛けるべきであると、進言するが、石田三成はそれを拒否したのでした。このことで合戦当日に、島津は動かないことを決めた。島津と石田の意見の対立だけではなく、小早川秀秋が裏切るなど統制が取れてない。小早川が裏切ったことで、戦況は圧倒的に東軍となった。島津は全く動いていなかったので、徳川本陣と5000人の東軍に挟まれる形となってしまう。

 

島津の退き口(しまづののきぐち)

 

退路を断たれた島津義弘は、切腹することを決める。しかし、豊久が諌めて、前代未聞の作戦を自ら提案するのです。敵軍を中央突破して、徳川本陣を叩くフリをして、急展開して戦地から脱出する。自身がしんがりを務めることで、脱出の時間稼ぎをすると言うのだ。

 

 豊久を先鋒に徳川本陣を突撃する。本隊を攻撃すると思わせて島津軍は急転して、脱出を図った。殿を勤めた豊久は、僅か13人で、徳川四天王のひとりに数えられる井伊直政、本多忠勝、大軍を相手に島津義弘が帰還するまでの時間を稼いだ。

 

死ぬまで戦いを続けた島津豊久は31年の生涯に幕を閉じたのでした。

 

豊久の活躍で島津義弘は無事に薩摩に帰還することができました。東軍が勝利したことで、敗者である西軍は領土の没収をされましたが、島津家にお咎めはありませんでした。徳川家康が豊久を恐れてのことだと言われている。

 

 

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