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戦国最強武将とは!?戦況すら変えた最強の猛将を10人を紹介

1467年の起こった応仁の乱をきっかけに幕を上げたとされる戦国時代。およそ百年は続いたとされる戦国時代には多くの英雄が誕生しました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、上杉謙信、武田信玄、島津義弘、毛利元就とか、武力、知性、器量を持った多くの英雄が、一同に領土を奪い合う。才能の塊が奇跡的に集まった時代となったのだ。今回はその中でも、「個人」で強かったとされる最強の武将をピックアップしていこうと思ってます。時代の覇者なら織田信長、天下を統一したなら豊臣秀吉、結果で判断するなら徳川家康が最強となるんだろうけど。そんなことより知りたいのは、戦場で活躍した「個」で強い男だ。卓越した戦略や戦術を実行する能力はもちろんだが、圧倒的な強さで戦局すら変える猛将の強さ。彼らの活躍なしで、勝利は成り立たない。戦場で活躍する猛将を部下として迎え入れることはとても重要なことなのだ。

 

そんな雰囲気で、猛将をなるべく簡単にご紹介できたらと思います。よろしくお願いします。

 

 

 

 

本田忠勝

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戦国最強の代名詞と言えば、徳川家康に仕えた本多忠勝だろう。13歳で初陣を経験して生涯で57回も戦を経験するが、一度も傷を負うことはなかった。「徳川四天王」に数えられ、勝ち戦はもちろん、負け戦でも常に前線で戦っていたとされる。徳川家康だけではなく配下の将達からも人望が熱かった。

その武勇は戦国大名を代表する大名達も認めている。「攻撃は最大の防御」と謳っていた忠勝は、軽量の甲冑を好み、素早い槍捌きが持ち味だった。一騎討ちでも幾度も勝利しているようで、個人でも強い。

ところが戦場では強いが、練習での槍捌きはいまいちだったようだ。徳川家康と織田が連合して天下目前の豊臣秀吉との戦った小牧・長久手の戦いでの忠勝の活躍は、まさに化物だった。16万の秀吉軍に家康軍が苦戦していると聞くと、僅か500人の軍で時間稼ぎをしてみせたのだ。戦場で川に入り、馬に水を飲ませる忠勝の余裕に、秀吉軍は恐怖して進軍を躊躇ったとか。これには秀吉も絶賛するしかなかった。そんな忠勝は1610年に病死することになるが、面白いエピソードがある。死ぬ少し前には小刀で自身の手を切ったそうだ。忠勝は「本田忠勝が傷を負ったらお終いだなぁ」と落ち込み、その数日後に亡くなった。

 

立花宗茂

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「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と戦国最強と並んで評価された九州の武将こそが、立花宗茂だ。大友宗麟、豊臣秀吉、徳川家康と主君を次々と変えて行けたのも、立花宗茂の実力があってこそだろう。

1567年に豊後国(大分県)で生まれた宗茂は、15歳で初陣を経験して、同年には男子に恵まれなかった立花道雪の養子となった。そうして立花誾千代と結婚して正式に家督を継いだ。宗茂は劣勢でありながらも、幾多の戦場で活躍を続けたが、義父の立花道雪が亡くなったことで、九州制覇は芳しくなる。

大友宗麟が秀吉に助けを求めることになり、3万の島津軍を宗茂は僅か3000の兵で迎え撃った。秀吉の元で活躍した宗茂は、島津を打ち破り、秀吉の九州平定に大きく貢献して、秀吉から13万2000石を与えられることになる。

それだけではなく、大友宗麟の家臣から独立して大名となったのだ。いくら戦国の世とは言え、これは異例の評価であった。その後は秀吉の朝鮮出兵にも参加して、15万の敵軍を2000騎で打ち破る奇跡的な大勝利を演じたのだ。関ヶ原の戦いでは秀吉への温情から劣勢であった西軍に参加して、戦争に敗北したことで、牢人となった。その20年後には宗茂を高く評価していた本田忠勝により、大名として奇跡的な復帰を果たすことになる。異例の評価をされた猛将だった。

 

可児才蔵

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「笹の才蔵」と異名を取った可児才蔵は関ヶ原の戦いで、東軍で最多の17もの兜首を挙げたことに由来する。討ち取った首は本来なら槍の先や腰に着けて戦い続けるものだが、才蔵は唇や耳、鼻に笹を押し込んで目印にしたそうだ。

その強さと奇抜さを知った家康によって「笹の才蔵」と呼ばれた。才蔵は岐阜県の可児市で生まれたとされているが、詳細が不明である。朝倉家の側室の子供の説もあるようです。可児市の寺で育った才蔵は、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の開祖である覚禅房胤栄(いんれい)に槍術を学んだ。この槍術を身に付けた才蔵は数々の戦場を経験していくうちに、槍術に磨きをかけていき、昇華させることに成功した。元々教わった槍術では十字の槍を使用していたが、関ヶ原の戦いでは薙刀を使っていたとされる。

また、才蔵は主君がよく変わった。斎藤龍臣、柴田勝家、明智光秀、織田信考、豊臣秀次、前田利家と次々と主君を変えているが、これは主君に恵まれなかったからだ。彼らは自刃、横死、病没、滅亡と壮絶な最期を遂げた。ただし最後に仕えた福島正則とは相性が良かったようだ。

 

森可成

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織田信長が信頼した猛将こそが、森可成です。森蘭丸とかの父親で、蘭丸が信長に気に入られたのも、森可成の活躍があってこそだ。元々は土岐氏(美濃の守護大名)の配下の武将であったが斎藤道三に土岐氏が滅ぼされたことで斎藤に仕えて、その後、信長に仕えることになった。

 

信長は当時二十歳くらいだったので、十歳以上も離れている森可成は、頼り甲斐のある武将だったに違いない。信長が一躍有名となる「桶狭間の戦い」では今川義元の本陣に信長は馬から降りて攻撃することを命令した。

 

しかし、可成は「多勢に無勢。機動力を失っては不利」ってことで騎乗した状態での進軍を薦めた。信長は可成の意見を聞き入れて突撃命令を下すことになる。可成の進言もあり、今川義元を討ち取る大勝利となった。

 

その後も合戦で活躍したことで城を任されることになる。可成は男子に恵まれていて、蘭丸以外にも、長可は「武蔵坊弁慶」となぞられて「鬼武蔵」と異名取っていたりと、猛将の一族だった。そんな可成も戦で亡くなることになる。浅井・朝倉連合が京都に迫る動きを見せたことで、宇佐山城主だった可成は京都の侵入を防ぐために奮闘したのだ。激闘の末に47歳で亡くなった。

 

島左近

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石田三成には過ぎたものが二つある。島左近と佐和山城だ。そんなことを言われるくらいに島左近は有能で頭が回る猛将だった。関ヶ原の戦いでは、石田三成の配下として前線で指揮を振るい奮戦した言い伝えられている。

 

左近と対峙した黒田隊は一斉射撃で深傷を負わせた。だが、その時の鬼のような形相をした左近との対戦は、相当の恐怖体験になったようで、戦後に誰も左近の甲冑や兜を覚えていなかったとか、夢にまで出てくるとか、嘘みたいな逸話が残っている。

 

これほどの武将だったので、人材コレクターだった家康からも声がかかったことがあるようだが断った。後に、石田三成は三顧の礼で左近を迎え入れることになる。三成は当時4石しかなかったが、その半分の2石を与えたと言う。

 

この心意気に心が動いたようだ。とは言え石田三成は左近のアドバイスを聞くことはあんまりなかった。家康を暗殺することを打診するが断られ、夜襲を仕掛けることも断られたとか。もし三成が左近のアドバイスに聞く耳を持っていたら、関ヶ原の戦いの結果は変わっていたかもしれない。

 

後藤又兵衛

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後藤又兵衛は黒田官兵衛とその息子である長政に仕えた武将で、大阪夏の陣で華々しく散った。背丈が180を超える武闘派の男でありながら、指揮能力も高く軍師的な役割も得意として、黒田軍団を代表する猛将であった。

 

黒田官兵衛からは息子のように可愛がられ長政には兄のように親しく接していたが、武将達の注目は常に又兵衛だったので、次第に仲が険悪となる。関ヶ原の戦いで活躍した又兵衛は1万6千石の大隈城を与えられるが、官兵衛が亡くなったことで又兵衛と長政の仲は絶望的に悪くなった。

 

遂に又兵衛は首となり牢人となる。優秀な男だったので、各地の大名からスカウトの声がかかるが、長政の邪魔が入り上手くいかなったようだ。こうして京都で牢人生活を余儀なくされた又兵衛であったが、1614年に豊臣家から仕官の誘いを貰った。

 

この頃の豊臣家は衰退していたので、天下はほぼ徳川のもの。

 

わざわざ劣勢であった豊臣家に仕官する武将は少なく、人材不足に苦労していた。集まった兵も関ヶ原の戦いで地位を失ったものが殆どであり、この寄せ集め軍団を指揮する人材として後藤又兵衛の存在が不可欠だった。

 

こうして再び戦場に返り咲いた又兵衛は、10倍の兵力の徳川軍を相手に奮闘して、壮絶な最期を迎えることになる。最後の戦いでは「武将として死ぬことを誇りに思う」と言葉を残した。

 

山県昌景

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戦国最強は武田騎馬隊。歴史が好きなら一度は聞いたことあると思います。その武田騎馬隊の代名詞とされる「赤備え」を率いたのが、山県昌景だ。「赤備え」とは甲冑から武器に至るまで全てを赤く染めた軍団であり、敵からしたら「赤」は恐怖の対象となり、味方からは頼れる存在となった。

 

「赤備え」は兄から受け継いだものであり、昌景は若い頃から期待されていた。三方ヶ原の戦いでは武田勝頼を助けた逸話を残し、敗走する徳川家康には逃走中に脱糞させるほどの恐怖体験を植えつけた。

 

後に天下を統一する家康すらも恐れたのだ。昌景は長篠の戦いで討死にすることになり、武田家も滅亡することになる。家康は武田家の残党を抱えることを決断した。

 

これは恐怖したからこそのリスペクトであり、尊敬が強かったからだ。山県昌景の「赤備え」軍団も、配下である井伊直政に継がせて「井伊の赤備え軍団」を結成した。この井伊直政も本多忠勝と並ぶ「徳川四天王」と数えられる猛将と評価されることになる。

 

前田慶次

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かぶき者。その自由奔放さは天下を統一した豊臣秀吉からも認められて、かぶき者を許可された逸話を持つ戦国を代表する自由人こそが、前田慶次だ。若い頃は自由に生きたようだが、上杉家に仕官すると、慶次は変わった。

 

特に関ヶ原の戦いの番外編である長谷堂の戦いでの慶次の活躍は漫画のようである。関ヶ原の戦いが早々に決着したことを聞くと直江兼続は自害を考えるが、慶次はこれを鎮めて撤退を決断させた。慶次は殿を務めることになり、五人の精鋭と300人の兵を巧みに動かして敵軍を撹乱させながら、見事に殿をやり遂げた。

 

なんでも敵の大将を討ち取る寸前まで追い詰めたそうです。この殿は伝説となり日本陸軍の戦術書に記載されていたこともあると言う。とは言え、前田慶次の情報は少なくどこまでが史実か不確かなことが多い。

 

出生に関しても、謎が多く、実の父親は織田信長の重臣である滝川一益が有力であるそうだ。前田家の養子となった慶次であったが、義理の父は体が弱かったので、信長の指示で前田利家が家督を継ぐことになる。本来なら慶次が前田家を当主になってもおかしくはなかったのだが、信長の指示なら従うしかなかった。

 

このような経緯もあって利家との仲はあんまり良くなく、それで京都に逃げたのかもしれない。だが、これは可能性の域であり、共に戦場で戦ったこともあるし、慶次は義理堅い人物だったので、利家を悪く思っていた可能性は低い。真相は不明である。

 

渡辺勘兵衛

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伝わっている話が本当なら、大阪の陣で300人も討ち取ったとされている。マイナーな武将ではあるが、単騎での強さなら随一ではないだろうか?『槍の勘兵衛』と異名を取ったようで、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に褒めたられた程の逸材でもある。

 

戦場での圧倒的な存在感、己の強さのみで天下に名を轟かせた。しかし勘兵衛には、問題点がある。それは戦に対する熱量が比ではないことだ。開戦すると、誰よりも早く槍を構え突撃したそうだ。猛将らしい勇敢な姿勢ではあるが、「軍令違反」とも取れる。軍隊を任されている管理職からしたら、最悪の存在であった。

 

この性格が災いしたこと、自身の評価(給料)に不服を持ったことで4回転職して7回も主君を変えることになる。これだけ我が強く、勇敢な猛将なので戦場で亡くなったかと思いきや、そう言う訳ではないのが面白い。勘兵衛は大阪夏の陣でも勇敢で突撃をしたが、これによって乱戦を誘ったとして「軍令違反」を咎められたのだ。勘兵衛は主君を追われ、そのまま再就職も叶わず79歳で生涯の幕を閉じた。

 

真田信繁

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「真田幸村」の名前で有名。大坂夏の陣では徳川家康に二度も自害を覚悟させた猛将である。その活躍から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評価された。

 

しかし、信繁が本格的に評価されるようになるのは40代になってからだとされる。十代は上杉家の人質として生活して、二十代は豊臣秀吉の人質として大阪に入った。なので初陣は、23歳と戦国の世にしては遅めのデビューとなったようだ。

 

天下分け目の大決戦である関ヶ原の戦いでは、どちらについても真田家が存続をすることを願って父と共に西軍についた。なので本多忠勝の娘を娶っていた兄とは敵対関係となる。

 

西軍の勝利となり、兄の懇願もあり死刑は免れたが、信繁は罪人として流刑となってしまった。そこから十数年47、8歳の頃に豊臣秀頼からスカウトされたことで、歴史の表舞台に返り咲くことになる。

 

かつての武田を彷彿させる「赤備え」軍団と、強固な城壁である真田丸を駆使して徳川軍を苦しめた。この大阪冬の陣での活躍で家康はかなりビビったようで、10万石でスカウトするが、これを断る。家康は国を一つやるとまで言うが、これすらも信繁は断ったそうだ。

 

家康としては、かつてよ屈辱的な敗北を経験した三方ヶ原の戦いを想起させたのでは思われる。大阪夏の陣が最終局面を迎えると、後藤又兵衛の死もあって、信繁は特攻を決意した。単独で徳川本陣だけを目指した。信繁の活躍はあったが、豊臣は敗北。傷を癒すために寺で休んでいたところを襲撃されて亡くなったとされる。

 

 

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