戦国時代では鉄砲や大砲が主流となり刀で戦うことは時代の遅れになりつつあった。それでも、卓越した剣術を持ち、己の剣のみで名声を得た剣豪をご紹介します。
よろしくです。
宮本武蔵
(1582〜1645)
宮本武蔵は、生涯で一度も負けることがなかったとされ、現代でも「剣聖」と謳われる最強の剣豪である。武蔵が晩年に著した「五輪書」によると、13歳で初めて決闘を経験して勝利、16歳で兵法者に勝利、21歳で京の吉岡一門を壊滅させたらしい。有名な巌流島での決闘など、数々のライバルに勝利した。武蔵の編み出した「二天一流」は、二刀流として有名であるが、他の流派でも二刀流は存在した。武蔵はあくまでも、片手で自在に刀を操れるようになれば、戦略が増えると言う考えだった。片手で刀を扱える怪力だった武蔵だからこその戦略だったのかも知れない。
上泉信綱
(1508〜1577)
新陰流の開祖で、多くの弟子を持った剣聖の一人。武田信玄から仕官の誘いがあったが断ったこともあるなど、実力は確かだったと思われる。上泉信綱は、上野国大胡(群馬県)の上泉城主の子供で幼少期から武芸に励んでいた。青年時代から多くの剣豪に弟子入れして塚原卜伝からも剣術を学んだ。28歳になると、陰流をベースとした新陰流を考案、創始した。その後、父が亡くなったことで城主を継ぐが、程なくして武田信玄に滅ぼされてしまう。信玄から仕官の誘いがあったがこれを断り、自身が生み出した新陰流を広めることを選んだ。信綱の新陰流は、多くの弟子に受け継がれることになり、さらなる進化を得る。
塚原卜伝
(1489〜1571)
鹿島新当流を開いた伝説の剣豪。武田信玄、山本勘助、足利輝元など多くの武将に剣を教えた。年老いた卜伝は、若き日の宮本武蔵に襲撃されたが、剣を鍋の蓋で防いだとか。このエピソードはどうやら創作のようで、武蔵と卜伝のどちらが強いのかと、比べられたと思われる。卜伝は、「鹿島の太刀」を代々継承する鹿島神官の次男として生まれた。神道流で剣を学んだ卜伝は、剣の腕を試す修行の旅に出た。合計で三回も修行の旅に出た卜伝は、212人の敵を討ち取り名誉を得る。神道流の剣術と「鹿島の太刀」を融合させて鹿島新当流を開き、「一の太刀(ひとつのたち)」を呼ばれる奥義を生み出した。
伊藤一刀斎
(1550、1560〜1632、1653)
剣術界最大の流派である「一刀流」を立ち上げた剣豪ではあるが、謎が多い人物でもある。14歳の頃に神社に代々継承されている刀を与えられる。この刀で盗賊を七人を斬り、最後の一人を大瓶ごと斬ってしまったことから「甕割刀」と呼ばれる事になる。その後に、鐘捲自斎に弟子入りするが、あっという間に師匠を超えてしまい中条流の「五秘剣」を伝授された。晩年には無意識に敵を倒す夢想剣を開眼するなど数々の伝説を残した。
柳生宗矩
(1571〜1646)
徳川家康にその実力を認められて、徳川将軍家の剣術指南役になった剣豪である。父である柳生宗厳は上泉信綱の弟子で、正式に新陰流を受け継いで、柳生新陰流を立ち上げた人物であった。父が黒田長政の紹介で、無刀取りを徳川家康に披露して気に入られると宗矩は父と共に徳川に仕えることになる。関ヶ原の戦いでの活躍で、柳生家は存在感が増す事になり、徳川家の剣術指南役となった。二代将軍秀忠、三代将軍家光は、柳生新陰流の門下生となり、徳川家代々の剣術となる。