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『木曾義仲』源氏初の征夷大将軍「旭将軍」の人生を簡単に要約 

 

旭将軍。その異名の由来は、太陽にように東から来訪した将軍やら、破格の勢いで上洛を果たしたこと、など説がいろいろある様です。

 

旭将軍こと木曾義仲は源氏の出身で、源義経や頼朝とは親戚関係にありますが、敵対することになります。どうして義仲は木曽を名乗ることになったのか? どうして義経と敵対することになったのか?

 

今回は木曾義仲の生涯を簡単に解説できたらと思います。

 

 

 

生涯

 

生まれ

 

木曾義仲は1154年に武蔵國の秩父(埼玉県秩父市)で生まれたとされています。幼名は駒王丸(こまおうまる)。父である源義賢(よしたか)は河内源氏の出身で、帯刀舎人(たちはきのとねり)帯刀先生(たちはきのせんじょう)と呼ばれる皇太子の護衛を務めてた。

 

祖父の源為義は関東への勢力拡大を画策したことで、義賢は武蔵國の秩父氏に婿入りした。それで生まれたのが義仲だと言われています。一説には遊女との子供とも言われている様で、生まれた時のことはあまり記録が残ってない。

 

義賢は兄であり義経や頼朝の父にあたる源義朝(よしとも)と対立することになり、戦で討ち死にすることになる。一族は抹殺されることになるが、まだ2歳であった木曾義仲は母と共に信濃國に逃れた。母方の縁もあり、豪族であった中原兼遠(かねとお)に庇護されることになる。この地では木曽次郎を名乗る様になり、後に家臣となる中原兼遠の息子で、今井兼平(いまいかねひら)と樋口兼光(ひぐちかねみつ)とは兄弟のように育ち、互いに信頼関係を高めていった。

 

また根井行親(ねのいゆきちかと楯親忠(たてちかただ)とも知り合い、この4人は後に「木曽義仲四天王」と呼ばれる様になります。

 

そして、伝説的な女武将と呼ばれる木曽義仲の妾「巴御前」(ともえごぜん)ともこの時に出会います。彼女も中原兼遠の娘だったと言われている様です。

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挙兵

1180年。26歳の木曾義仲は挙兵に悩んでいた。1179年に平清盛がクーデターを起こして、後白河天皇を幽閉していた。翌年の1180年に皇族の以仁王(もちひとおう)が平氏の打倒を決めて、源氏に挙兵を促した。この頃、頼朝は戦争に参加したが、あえなく平家に敗れている。

 

義仲自身は挙兵することに消極的だったが、信濃國に平家が攻めてきたことで、ついに重い腰をあげた。市原合戦と呼ばれるこの信濃国の防衛では、木曽義仲に信濃国の全域の武士団が一致団結した。この戦いぶりに父である源義賢の配下の武将達も駆けつけたことで、勢力が大幅に拡大した。

 

同じ頃に平家に敗北した頼朝は軍勢の再編成を得て、平家に勝利をしていた。しかし、1181年に義仲を恐れた平家が6万の大軍を仕向けていた。そもそもは頼朝を中心にして開戦した源平合戦であったが、平家は頼朝よりも義仲を危険視したのだ。事実として、義仲は僅か半分の兵力で勝利をして、認知を更に広めることになる。

 

この結果に納得がいかない頼朝は、仲違いした叔父が義仲についたこと、義仲が勢力拡大を続けるので敵意を向けた。そんな中で義仲と対立し武田家が、頼朝に「義仲は平家に取り入ろうとしている」など訳のわからない陰口をしたことで頼朝は大義名分を得て、義仲に攻撃を開始した。

 

1183年に頼朝は軍を差し向けるが、義仲は源氏が戦う理由はないと、後退して、戦う意識がないことを主張した。これに驚いた頼朝は戦う意志がないなら「叔父を差し出すか、子供を人質にしろ」と脅した様だ。頼朝としては当然にして、自分を裏切った叔父を差し出すと思っていたが、義仲は嫡男である源義高を人質に差し出したのだ。義仲としては叔父を差し出せば必ず殺害される。自身の息子なら、丁重に扱われると考えたようだ。実際に息子は頼朝の娘と後に結婚することになる。なので義仲の判断に間違いはなかったと思われる。

 

こうして頼朝との和解が成立した。

 

倶利伽羅峠の戦い

 

戦いは再び平家との戦いに戻る。1183年に平維盛(これもり)は10万の大軍を引き連れて、木曾義仲に迫ってきた。義仲は真っ向勝負を避けて、奇襲や夜襲によって平維盛軍を混乱させた。なかでも有名なのが、火牛の計である。数百の牛の角に松明を縛って突進させた。数々の計略によって、倶利伽羅峠の戦いで勝利をおさめたのでした。

 

 

1183年。倶利伽羅峠の戦いで平家に大きなダメージを与えた木曾義仲は入京を果たした。これまでの活躍を評価されて、旭将軍と呼ばれるようになる。

 

この時には平清盛は亡くなり息子の宗盛が、平家の棟梁となっていた。宗盛は義仲の大軍に慄き、天皇の子供と三種の神器を持ち出して、西国に逃げ出したのでした。このことで、大義名分を得た義仲は、平家の追跡を命じられた。

 

さらに新たな天皇を決めることが急務となった。木曾義仲は以仁王の子供が天皇になることが、道理であると主張するが後白河法皇は、孫である安徳天皇の弟が天皇になるべきであると主張した。最終的には、後白河法皇の意見が通ることになるが、この意見の対立で木曾義仲は孤立をしてしまう。

 

加えて、義仲の軍は各地のあれくれ者の寄せ集め集団だったので統制が取れていなかった。義仲の軍が京での滞在が長引くと、自然と京の治安が悪化して民衆や貴族からの評判が悪くなった。情が厚く義理堅い性格でしたが、政治面での脆弱さが露見することになる。更には四国での平家との戦いも苦戦が強いられてしまう。この期間に、頼朝と義経が入京をするかも知れないと情報が入った。

 

頼朝との戦い

 

頼朝が上洛する情報を聞きつけると、義仲は平家の追跡を放棄して急ぎで京に戻った。焦った義仲は法住寺合戦で後白河法皇と対立して、勝利した。法皇の命を奪うまではしなかったが幽閉して、政敵を排除しました。1184年に木曾義仲は自らを征夷大将軍に任命した。平家のと和睦など、戦略を練りますが、法皇を幽閉から始まる反逆に木曾義仲を慕う仲間は少なかった。源範頼(のりよし)と義経の6000の兵力に対して、義仲は僅か200人。戦いの果てに、義仲四天王と巴御前だけになり、全員が最後まで義仲に仕えて戦い続けたのでした。木曾義仲は31歳で戦死した。