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『ヘンリー8世』嫁を処刑して離婚を強行した王について

 

 

ヘンリー8世は世継ぎに恵まれなかったことで、6回の結婚をしたことで有名だ。

 

その手段はかなり強引であった。身に覚えのない罪状を押し付けて、処刑させるという、残虐で利己的だったのだ。本当に愛した人は初婚のキャサリンだけで、その後の王妃は世継ぎを生ませる傀儡にしか思っていなかったのだろう。

 

それに、宗教的な話が絡んでくるので、どうしても方法は選べなかったと推測できる。とは言え、現代人の感覚からすると、選択肢は他にもあったのではないかと思ってしまう。

 

待望の男児に恵まれたが、最終的にヘンリー8世の世継ぎになったのは、エリザベス1世なのは何とも皮肉な話だ。

 

さて、ここまでの話はかなり有名なエピソードだったりする。ヘンリー8世と言えば、嫁を処刑しまくった王。そのイメージがあまりにも強く先行してしまう。(私だけかも知れないが)なので今回は、ヘンリー8世の功績や人生を簡単に紹介できたらと思います。

 

 

 

生涯

 

幼少期

 

ヘンリー8世は1491年にロンドン郊外の宮殿で生まれた。父親は薔薇戦争の勝者であるヘンリー7世で、次男だったとは言え、一流の教育を受けたヘンリー8世は幼少期で城主になるなど、高い期待をされていた。ラテン語、フランス語、イタリア語も堪能で優秀な人材であったようだ。

 

1501年に兄が亡くなったので、ヘンリーが王太子となった。少しだけ問題があった。兄のアーサーは結婚したばかりだったのだ。相手はスペイン王の娘であるキャサリン・オブ・アラゴンで、イングランドとスペインが友好な関係を築く上で大切な結婚であった。なのでヘンリーがキャサリンと結婚することになるが、まだ10歳だったので先送りされることになる。ヘンリー本人は懐疑的だったようだが。

 

王となる

 

 

1509年にヘンリー7世の崩御によって、ヘンリー8世が即位した。同時期にキャサリンと結婚することになる。先代の王であった父の意思を継ぎ、絶対王政を強行にした。即位した当時は、フランスと神聖ローマ帝国が共同で、ヴェネツィア共和国と戦争をしていた。弱小国であったイングランドは、フランスと友好な関係を結びながらも、アラゴン王とは対フランスの同盟を結んでいた。どっちつかずの対応して信頼もクソもない。

 

 マクシミリアン1世と教皇が同盟を結んでフランスに戦争を仕掛けると、ヘンリーはアラゴンと共同でフランスに侵攻した。その間に、フランスと同盟を結んでいたスコットランド王のジェームズ4世がイングランドに侵攻してきた。

 

この緊急事態に活躍したのはヘンリーではなく、王妃キャサリンであった。なんとジェームズ4世を戦死させて、戦争に勝利したのだ。スコットランド王に嫁いでしたヘンリーの姉を摂政にして、スコットランドの弱体化に成功した。

 

フランスとの戦いに勝利して帰還したヘンリーだったが、国内ではキャサリンが英雄扱いされたので、微笑ましくも、嫉妬したそうだ。

 

時間が流れて義理の甥であるカール5世がスペインの君主となると、フランスとの因縁が再発することになる。カール5世が、フランスとの戦うことになったのだ。ヘンリーは仲介をするつもりだったが断念して、むしろカール5世と共にフランスに侵攻した。しかし、ヘンリーにとっては旨味は特になく、最終的にはフランスとの講和を結んで、戦線から離脱したのでした。

 

内政

 

さて外交的には活躍したヘンリーでしたが、即位当初は内政に興味はなかった。重鎮に内政を任せていたが、この頃から政治的に邪魔な存在が処刑することが当たり前になっていたと言われている。

 

ヘンリーは先代から続いた絶対王政を強化することに努めていました。と言うのも薔薇戦争の勝者であった父ヘンリー7世が開いたチューダー朝は歴史が浅く、絶対的な力があるとは言い難かったからです。なので、どうしても直系の世継ぎになる男児が欲しかったのだ。

 

一番目の妻 キャサリン・オブ・アラゴン

 

 

24年の結婚生活

 

元々は兄であるアーサーと結婚していたが、兄が早世したことで、成長したヘンリーと結婚した。結婚当初のヘンリーはキャサリンにぞっこんしていたようだ。しかし、待望の男児が僅か52日で逝去した。その後も、流産と死産をくり返したことで関係が悪化したと言われている。この二人の間の子は、後に女王となる「血まみれメアリー」のみである。

 

40を超えたキャサリンでは子供を望めないと判断したヘンリーは、離婚を画策するようになる。当初のヘンリーの狙いは、兄アーサーと結婚していた事実によって結婚を無効とすることだった。しかし、裁判の結果は上手くいかなかった。そこで、イングランド国教会を創設して、ローマ教皇から独立することで、離婚を成立させた。つまり新しいルールを強引に作ったと思われる。

 

二番目の妻 アン・ブーリン

 

 

約3年の結婚生活

 

アン・ブーリンは前妻であったキャサリンの侍女だった女性だ。アンの姉はヘンリーの愛人だったことからも、ヘンリー好みの容姿だったのかもしれない。アンが正妻になることを望んだので、キャサリンと離婚することになった。

 

アンとの間に子供を授かるが、女性だったので、ヘンリーは失望した。しかし、エリザベスと名付けられて、王位継承権を与えられた。

 

ただ、アンは大変な野心家であり、かなりの浪費家だった。その上で政治にまで口を出すようになったので、次第に邪魔になっていく。ついにヘンリーは五人との姦通罪と、反逆罪でアンを処刑してしまった。

 

 

三番目の妻 ジェーン・シーモア

 

 

1年の結婚生活

 

ジェーンの父はヘンリーの腹心の部下であり、ジェーン自身もキャサリンとアンの侍女をしていた。アンと違い物静かな女性だったようだ。アンが処刑された翌日に婚約して、10日後には結婚した。早過ぎる。そして、待望の男児を出産した。エドワード6世となるその子は、ヘンリーの死後に後を継ぐことになります。しかし、ジェーンは難産だったことで、亡くなってしまった。ヘンリーは男子を産んだことを感謝して、6人の王妃で唯一ウィンザー城内の王室霊廟で隣で埋葬されることを許した。

 

四番目の妻 アン・オブ・グレース

 

 

半年の結婚生活

 

プロテスタントの王妃を所望したヘンリーは、配下のトマス・クロムウェル意向によってアン・オブ・グレースと結婚した。ただし、初対面の段階でヘンリーは結婚の取り消しを望んだらしい。正当な理由がないので、結婚を取り消すことはできなかったが、半年後には離婚が成立した。どうしてヘンリーが初対面で無理だと、思った理由はわからないが、一夜を共にした時に何かあったのかもしれない。肖像画とあまりにも違うことに文句を言ったことが有力らしい。この一件でトマス・クロムウェルは処刑された。

 

 

五番目の妻 キャサリン・ハワード

 

 

約2年の結婚生活

 

キャサリン・ハワードはアン・ブーリンやジェーン・シーモアと血縁関係にある女性である。結婚した時のキャサリンの年齢は19歳で、ヘンリーは50歳。結婚以前からキャサリンは年上の男性と関係を持つことがあったようで、結婚してからもどうにも愛人と関係を持っていたとか。そのことが明るみになって、姦通罪で処刑された。

 

六番目の妻 キャサリン・パー

 

 

三年半の結婚生活

 

ヘンリーとの結婚以前に二度の結婚と死別を経験している。ヘンリーの部下と関係があった女性だが、その美しさに惚れて横取りした。既に高齢で体が思うように動けないヘンリーを看病した。また、庶子の身分となっていたメアリーとエリザベスを呼び戻して、王位継承権を復活させるように頼んだのもキャサリンである。心の優しい女性だったようだ。

 

読書家で優秀な女性だった一面もあるようで、ヘンリーが遠征で不在していると、代理で摂政をすることもあった。

 

 

晩年のヘンリー8世

 

イングランド王室史上最高のインテリと評されるような読書家で、語学が堪能に加えて、180センチを超える体格だったのでスポーツも万能だったと言われている。しかし馬上槍試合で、膝を負傷してから、ブクブクと太り始めて、晩年は不摂生な生活が災いして高血圧や、古傷の後遺症に悩まれたようだ。

 

1547年にこの世を去った。

 

ヘンリー8世の死後に、王位を継いだのは、三番目の王妃が産んだエドワード6世である。しかし、彼は僅か15歳の若さで亡くなったことで、イングランド王位は短期間で次々と変わることになる。

 

そしてエリザベス1世によって安定することになっていくのでした。

 

 

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