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【アンリ四世】フランス随一の人気を誇る良王について

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今回はユグノー戦争によって混乱したフランスを統一して、現代においても高い人気を誇るフランス王アンリ4世を紹介します。

 

 

幼少



アンリ四世は、1553年に12月13日に生まれた。父は名家であるブルボン家の当主で、母はフランス王フランソワ1世のナバラ女王ジャンヌ・ダルブレである。恵まれた生まれであったが、この時代のフランスは内戦によって荒れていた。いわゆるユグノー戦争である。

 

フランソワ1世の時代からプロテスタントは迫害の対象であったが、プロテスタント(フランスでの呼び名はユグノー)は貴族の間でも改宗が進み、ついには内戦に突入したのだ。

 

母は熱心なプロテスタントだったので、ユグノー勢力についたが、父はカトリックに改宗したのでアンリもカトリックとして宮殿に残った。父は司令官として戦ったが戦死したので、幼いアンリがブルボン家の当主となり、戦争は休戦することになった。

 

青年

戦争が落ちつきシャルル9世と王太后カトリーヌが全国巡礼に向かうと、アンリもこれに付き添った。とある地で「ノストラダムスの大予言」で知られるノストラダムスに、将来国王になるとアンリは予言された。

 

戦争が再開するとアンリは母に連れられて、カトリックに改宗した。カトリックが反乱を起こすことになり、アンリは自ら軍の指揮を取り勝利をおさめた。そして、ユグノーのトップである叔父が戦死したことで、アンリがユグノー陣営のトップとなった。

 


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若きリーダーの誕生であった。戦争は勝敗をつけることが難しくなり、王太子カトリーヌによってカトリックとプロテスタントの融合する話が進むことになる。それは、プロテスタントのアンリと、カトリックの王妹マルグリットの婚姻であった。結婚式の参列でカトリックの貴族がプロテスタントの貴族を虐殺したことで、混乱が爆発。プロテスタントの民衆まで次々と手をかけた。この事件を「サン・バルテルミの虐殺」と言う。

 

歴史的な大きな事件によってアンリは宮殿で囚われの身となり、強制的にカトリックに改宗されて、プロテスタントの敵として軍を率いた。

 

宮殿から脱出したアンリはプロテスタントに戻り再びトップになり、カトリックと戦う決意をした。


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即位

ユグノー戦争は単なる宗教観の争いだけではなくフランス王の継承問題までもが絡むようになる。ナバラ王でありユグノーのアンリ四世、国王のアンリ3世、カトリック同盟のギーズ公アンリ。三アンリの戦いが始まった。

 

ギーズ公によって、ナバラ王のアンリは王位継承権を剥奪される。ギーズ公は別の人物を正統な後継者にするようにアンリ三世を説得することにも成功して、自身の立ち位置を優位にした。アンリ三世はギース公を危険視して暗殺してしまう。そのアンリ三世も暗殺者に致命傷の傷を負い、死際にナバラ王アンリを呼び彼に王位を譲った。こうしてアンリは35歳でフランス王位を継承してアンリ四世と名を改めた。

 

しかし、プロテスタントであるアンリ四世の即位をカトリックは黙ってはいなかった。再び戦争が始まりアンリはカトリックとの戦いを終わらせるためにも、自身が改宗することを決めるのであった。

 

フランスの多くがカトリックであったので、多くの支持を受けることに成功したアンリはパリに入城して、正式に戴冠式を済ませた。そうなると、次はプロテスタントから非難の声を浴びる事になる。アンリはナントの勅令によって国家の宗教を正式にカトリックとして、多くの制約はあるがプロテスタントを認めることで、ユグノー戦争を集結させたのだった。

 

その後


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王としてのアンリの仕事は内戦によって疲弊したフランスを立て直すことであった。開墾池を拡大して農業を活発化、街道や運河の設備を整え、首都パリは大規模な再開発計画を実行した。武力ではなく懐柔させる方法で国民からも信頼を得たアンリは、「良王」と呼ばれることになり、絶大な人気を得た。

 

また、アンリはヨーロッパの和平を夢見るようになり、宗教や国境を超越してキリスト国が一体化して、国際裁判や国際軍を実現できないかと行動に移す。国際連盟の先駆けのような考えは、幼少から内戦を経験していたアンリらしい発想であると思われる。

 

しかし実際に軍が動くことはなくアンリ四世は、狂信的なカトリック教徒の若者に刺されて亡くなってしまう。1610年のことである。

 

崩御後

王位を継承したのはアンリの息子であり8歳のルイ13世であった。ルイ13世は最初の妻との子供ではなく2番目のマリー・ド・メディスとの子供である。アンリは最初の妻とも2番目とも政略結婚だったので仲は良くなかった。最初の妻であるマルグリットとはサン・バルテルミの虐殺もあって関係は冷え切っていて長い別居生活だったので子供もいなかった。二人目とは6人の子供に恵まれたが、アンリには56人以上の愛人を抱えていらしい。

 

孫にはルイ14世がいる。

 

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