さて、今回はフランス史上たった6人しかいない元帥の上位互換である、大元帥の一人テュレンヌ小爵を紹介していこうと思います。
テュレンヌはナポレオンも憧れた英雄の一人で、マイナスからスタートでしたが、努力、ライバルの出現、ライバルとの対立、そして和解するみたいな感じで、漫画のような感覚で読むと結構面白い生涯だったりします。まあ完全な主観ですが笑
出生
本名アンリ・ド・ラ・トゥール・ドヴェルニュ、通称テュレンヌ小爵はユグノー(フランスの宗教改革派)の貴族として育った。テュレンヌの一族は軍人としての評価も高く、家系図を辿っていくとフランス元帥だったアンヌ・ド・モンモランシーの曾孫(孫の子)だったりする。後にライバルとして登場する天才的軍人コンデ公ルイ二世も、アンヌの曾孫に当る。なのでテュレンヌが軍人として成功したいと思うのは自然の成り行きで、子供の頃には地理と歴史に特別な才能を開花して、特にアレクサンドロス大王やカエサルに憧れた。しかし、テュレンヌは生まれながらにして体が弱く、吃音に悩むことが、障害となった。12歳になったテュレンヌは、父の死をきっかけにトレーニングに没頭するようになり、虚弱体質に打ち勝つ努力を始めた。
軍人デビュー
14歳になったテュレンヌはオランダの志願兵となって軍人としてのキャリアをスタートさせた。オランダで戦を学んだ若き日のテュレンヌは、活躍を評価されて陸軍大尉に昇格した。19歳になるとテュレンヌはフランスに戻った。これは母親が母国フランスで活躍して欲しいと願ったからだ。実績を評価されたテュレンヌは、フランス軍でも歩兵連隊大佐と言う高待遇を受けることになる。
フランスでの初陣は三十年戦争であった。この戦争は、1618年から1648年まで続いた宗教戦争で、テュレンヌ登場以前には二人の英雄が戦争の主役と言えた。プロテスタント軍のグスタフ・アドルフと、カトリック軍のヴァレンシュタインだ。
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ただ、この二人の英雄が相次いで亡くなったことで、フランスは行動を移すことになる。フランスはカトリック国家であったが、神聖ローマ帝国の弱体化を図るためにプロテスタントを支援していたが、カトリックの英雄ヴァレンシュタインの死を皮切りにフランスはカトリックに真っ向から戦う選択をした。
テュレンヌはフランスを代表する軍人へと評価が上がることになる。包囲戦での突撃が評価されて昇進、敵将軍と直接剣を交える勇気、さらには一方的にカトリック軍を破る快進撃が続いた。テュレンヌは29歳にして戦いの核心にたどり着いたそうだ。それは当たり前のことを当たり前にする。基本があってこそ作戦が生きると言う核心。地味であるが、この考えこそが必然的な勝利を実現した。テュレンヌは32歳と言う若さでフランス元帥となった。
この時に同じ一族であり、弟でもあり、ライバルと言える若き天才コンデ公ルイ二世と合流する。テュレンヌの快進撃は続き、神聖ローマ帝国の大きな弱体化に成功する。そして、ヴェストファーレン条約によって三十年戦争は終結して、フランスに一時的な平和が訪れた。
フロンドの乱
三十年戦争の結果でフランスの領土は大幅に拡大したが、問題があった。長い戦争によってフランスは財政危機に陥ったのだ。重税はもちろんのこと、官職保有者の減給が求められた。宰相マゼランへの不安が爆発したことで、貴族を中心にフロンドの乱が勃発した。王族であるコンデ公ルイ二世が動いたことでテュレンヌも、乱に参加することになる。テュレンヌは戦力の確保に手こずり亡命を経験する。その後は、コンデ公の姉であるアンヌがフロンドの乱の精神的指導者として暗躍し、コンデ公とテュレンヌは少々無理をして王軍と戦った。宰相マゼランをドイツに亡命させることには成功したが、テュレンヌは親戚を戦死させてしまう。
頭を冷やしたテュレンヌは政府と和解することになる。これは、13歳のルイ14世が成人を宣言して、王軍を率いて反乱軍と戦う姿勢を見せたからだ。フランス王軍からしたら、二人の天才軍人を相手にするのは得策ではないので、どうしてもテュレンヌと和解する必要があった。テュレンヌは王軍を指揮することになり、反乱軍とスペイン連合軍を率いるコンデ公と戦うことになった。派手で鮮やかな戦法に知られるコンデ公と、地味ではあるが基本に忠実とした戦法を取る両者は互角の戦いを演じた。コンデ公のパリの入場を許して引き分けに持ち越されるが、仲違いからコンデ公はパリを離脱したことで、テュレンヌはルイ14世のパリ帰還に成功させた。フロンドの乱は完全終結したが、背後で暗躍したスペインに侵攻することになる。
スペインの将となったコンデ公との再戦だ。イングランドのオリバー・クロムウェルが送り込んだ軍の力もあり、テュレンヌはコンデ公を破り、フランスに有利な条約を結ばせた。
オランダ侵略戦争
宰相のマゼランが亡くなったことで、ルイ14世による親政がスタートした。テュレンヌはこれまでの功績を評価されて、フランス史上6人しかいない大元帥の地位に到達した。同じように時期に結婚もしたが子供を作ることなく死別、元々プロテスタントとして育ったが、カトリックに改宗するなど変化の多い時期だったと思われる。
1667年にはネーデルランド継承戦争に参加した。表向きはルイ14世の指揮ではあるが、短期間で5つの主要都市を制覇して、フランス最高指揮官としての実力の差を見せつけた。また、フランスへの帰還を許されたコンデ公と、共闘したことでフランスは圧倒的な戦力をヨーロッパに轟かせた。
ルイ14世の個人的な怒気からオランダに侵略を開始した。テュレンヌはルイ14世と共に従軍する。ところがオランダの策略によって進軍が大幅に遅れることになり、神聖ローマ帝国、スペインが結託してフランス軍を攻めることになりルイ14世は戦線を離脱した。味方であった陣営がオランダと和睦したことで、フランスはオランダからの徹底を余儀なくされた。テュレンヌは後方が不安になりドイツに止まることになり、ドイツ各地を荒らし回ることになる。神聖ローマ帝国との戦いは勝ち星が多かったが、各地で略奪行為を行ったり、報復として都市を二週間に渡る焼き討ち、虐殺行為を行ったことは、テュレンヌ戦歴の中でも汚点とされることになる。戦争はテュレンヌとコンデ公の活躍があったが、全体的にはフランスは押され気味だった。戦争が始まって三年後、テュレンヌは戦死することになる。フランスを優位に進めるために徹底して敵国を責め続けた大元帥は開戦と同時に放たれた砲撃に偶然当たったことでの戦死だった。テュレンヌの死はフランス全土に駆け巡り、国民は悲嘆することになる。テュレンヌの死後は、コンデ公が受け継ぎ被害を最小限に食い止めた。
テュレンヌの遺体は歴代フランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂で葬られることになる。