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【デュ・ゲクラン】「鎧を着た豚」と蔑称された百年戦争の英雄を解説

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フランスとイングランドが王位と領土を巡って争った百年戦争は、現在のフランスとイングランドの国境線を決定付ける歴史的にも重要な戦争である。

百年戦争と言えばジャンヌダルクを思い浮かべる人が多いかと思います。ジャンヌは神の言葉を聞き劣勢だったフランスを救うために立ち上がった女傑です。

 

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今回は壮絶な人生だったジャンヌダルクではなく、百年戦争の前半で主に活躍したフランスの英雄デュ・ゲクランをなるべく簡単にご紹介していこうと思います。小貴族の出身であったゲクランは確かな実力と、時代の流れを掴みフランス王軍の司令官に抜擢され、劣勢であったフランス軍を挽回したことで知られる。

ところが、彼は「鎧を着た豚」と悪口を言われた過去があったりする。そんなゲクランが、どんな経緯でフランス国の総司令官にまで登り詰めたのだろうか?

 

 

 

生涯

出生

フランス軍の司令官を任された人物なので幼少期から期待される逸材かと思いきや、そんなことはなかったりする。ゲクランは1320年にブルターニュの小貴族の子供して生まれた。そもそもフランス人ではない。ブルターニュ人としてフランス王に仕えた裏切り者としても解釈できる。騎士道精神的には、主君に実直に仕えることは問題はないらしい。騎士の長男として生まれたのは良かったですが、ゲクランは容姿が醜かった。母親から愛されず育ったゲクランは、荒れた子供時代を過ごすことになる。問題行動は多かったゲクランは勘当されて、親戚の元に転がり込み騎士の訓練をした。

 

父から許しを貰ったが金銭的な援助を受けることができなかったので、ボロボロの甲冑を身に纏っていたことから、「鎧を着た豚」と蔑称されることになる。

 

だがゲクランは腕ぷしだけは一流であった。馬上槍試合では無類の強さを誇り、自身の強さを証明すると、父からの待遇も変わったそうだ。

 

ブルターニュ継承戦争

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1341年にブルターニュ継承戦争が始まると、ゲクランは数十人の仲間を引き連れて、モンフォール派及びイングランド軍を相手に山賊紛いの略奪行為に及んだ。略奪行為を続けていると名前が知られるようになり、フランス王国将軍などと顔見知りとなる。(元々はブルターニュ派として戦争に参加した説もあるらしい)

1354年にはイングランド軍による襲撃でゲクランは大いに活躍することになり、正式に騎士の地位を得た。更にイングランド軍が占拠していた城を、奇策を講じて僅か30人で占拠したことでゲクランの名は広まることになる。

 

 1356年からは守備隊長ピエール・ド・ヴィリエの元でレンヌ包囲戦に参加する。ここでやっと歴史の表舞台に登場する。ここでのゲクランの活躍は抜きでたものであった。侵攻してきたイングランド軍に対して、偵察部隊や食糧調達部隊を襲撃、更には夜襲を仕掛けるなど、嫌がらせような戦法を続けた。停戦中に敵軍の襲撃を受けて、弟のオリビエ・ゲクランが捕虜になると、ゲクランは不正を訴えて決闘を申し込んだことは有名だ。何人もイングランド兵がらゲクランに挑むが、誰もゲクランに勝つことはできなかった。その後もゲクランの活躍は凄まじいもので、レンヌの防衛に成功した。

 

ゲクランの活躍はイングランド、フランスにまで名が広まるようになり、「ブロセリアンドの黒犬」と呼ばれるようになり、守備隊長に任命される。幾度も戦いに参加して、捕虜になることもあったが、武功を重ねたゲクランは王からの信頼も厚くなり、1364年に「ロワール川からセーヌ川の国王代理」となる。

 

大敗北

 

1364年にシャルル五世がフランス王の即位したので、ゲクランは新たな王に仕える事になる。同年、ナバラ王のカルロス二世とのコシュレルの戦いでは、当時の最高指揮官の一人であったグライーを真っ向勝負に打ち負かしたことで、知名度を全国区とした。功績の大きさからゲクランは将軍に任命されることになった。

ナバラ王カルロスに関してはここでもご紹介しています↓↓↓

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その頃ブルターニュでは和平条約が上手くいかなくなる。(ブルターニュ継承戦争の続き)フランスとイングランドは最終決戦に向けて、オーレの地で両軍は激突することになった。ゲクランはブルターニュの上司であったシャルル・ド・ブロワの元で戦うことになるのだが、実権はシャルルにあったので戦は上手くいかない。ゲクランは幾度も助言をするが、シャルルは聞く耳を持たなかったので、シャルルは戦死、ゲクランは捕虜となり、オーレの戦いは大敗北に終わった。

 

知名度が高いゲクランの身代金は多額であり、諸侯と同等であったとされる。この時代は国王に身代金を払う義務はなく、個人で払うものであったのだが、シャルル五世は傭兵を率いる人材を探していたので、身代金を建て替えた。このことでゲクランは解放される事になった。

 

荒くれ者ばかりの傭兵たちは戦争がなければ、ただの厄介者である。ゲクランも元々は荒くれ者として嫌われてはいたが、確かな実力を持った荒くれ者だ。つまり傭兵たちにとってゲクランは、最高のトップだったのだ。1366年に社会不安となっていた傭兵を率いたゲクランは、カスティーリャに向かい残虐王ペドロと争っていたエンリケ・デ・トラスタマラの援軍として戦い、各地で勝利を治めた。

 

しかし、1367年のナヘラの戦いでは、オーレの戦いと同様に実権がなかったことで、意見を聞き入れてもらえなかった。このことで、敗北して再び捕虜となる。

 

敵軍の参謀の意見もあり、ゲクランの解放に時間が必要となった。シャルル五世に立て替えてもらい、ゲクランは1368年に解放される。1369年には王の命令によって、再び残虐王ペドロと戦うことになり、準備不足だった残虐王軍を撃破した。

 

フランス国王総司令官

 

1369年にシャルル五世はイングランドに宣戦布告。イングランドの王エドワード三世もフランスの王位を宣言したことで、両軍は激闘することになる。カスティーリャでの一件が解決していたゲクランは、シャルル五世の召集に答えてイングランドとの戦いに身を投じる。

 

ゲクランの活躍によって数十の都市は解放され、このことで、ゲクランはフランス国王総司令官に抜擢されるのであった。小貴族の出身である底階級の騎士が最高司令官にまで登り詰める異例のことである。名誉職のような待遇ではあったが、シャルル五世の改革のよってそれなりの実権も手に入れたようだ。

 

その後もゲクランの快進撃は続き、二年間の休戦条約を結ばせる事になる。この間にフランスはイングランドに奪われた領土を取り戻した。

 

惜しまれる死

1375年に休戦条約の後に、イングランドのエドワード三世が亡くなったことで、シャルル五世はゲクランにブルターニュの攻略を命ずるが、ゲクランは消極的だったとされる。それはその頃の妻の実家がイングランド側のブルターニュの貴族だったからだ。

 

ブルターニュは攻略したが、腑に落ちないゲクランは総司令官の辞職を申し出るが、シャルル五世はなだめて、ラングドックに向かわせた。

 

1380年、7月13日にゲクランはラングドック攻略中に赤痢によって亡くなる。

 

シャルル五世によってゲクランは王家の墓所であるパリのサン=ドニ大聖堂で埋葬されることになり、二ヶ月後にはシャルル五世も亡くなった。シャルル五世の石棺の足元でゲクランは静かに眠り続ける。

 

さいごに

百年戦争の序盤で活躍したゲクランの働きによって、イングランドに奪われた領土はほぼ取り返したとされる。フランスではシンデレラストーリー的な出生と、豪快無双の荒ぶる勇姿などから救国の英雄として人気があるそうだ。

 

また、奇襲や野戦など合理的に一面もあれば、名誉を重視して勝つまで座って食事をしない誓いを立てるとか、騎士らしい一面もある。おそらく前者の方がゲクランの本質のような気がする。

 

 

 

中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)