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【ティムール】大帝国を夢見た中世アジア最強の軍事指導者

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ティムールは中世アジア最強の軍事司令官と評されることがある。人類史上最大の領土であったチンギス・ハンの帝国が瓦解していくなかで、ティムールは軍事的な成功をおさめてたった一代で帝国を築いた。チンギス・ハンを超える帝国ではなかったが、アレクサンダー大王に次ぐ、歴史上で3番目に広い征服領土を果たした。

 

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今回は中世アジアの覇者ティムールをなるべく簡単にご紹介していこうと思います。

 

 

 

生まれ

 

チンギス・ハンによって建国されたモンゴル帝国は、ペストなどのパンデミックの流行もあって崩壊しつつあった。中央アジアに位置するチャガタイ・ハン王国も、東西に分裂する事態になっていた。

 

西チャガタイ・ハンの生まれとされるティムールは、1336年に没落貴族の子供として生まれたとされる。詳細は不明で、チンギス・ハンの元で仕えた千人隊長の子孫らしい。裕福な生まれではなかったが、当時にしては恵まれた170センチの大柄な体格と武術の才能によって、盗賊の長となりアウトローな生活をしていたようだ。二十歳になると、国の有力者に見込まれてそれなりの立場となった。

 

東チャガタイ・ハンの有力者であるトゥグルフが攻めてくると、西勢はあっという間に負けを認めて降伏する事になる。ティムールも謁見して、降伏することを誓ったそうだ。この素直な行いと才能を認められたティムールは指導者としての地位と、領土を与えれてた。東と西に分裂していたチャガタイ・ハン王国はトゥグルフによって統一されることになる。しかし、ティムールの降伏は表向きだけであり、内心ではクーデターを引き起こして、独立することを目指していた。

 

 

独立戦争

 

トゥグルフと敵対することを決めたティムールは、東チャガタイ・ハンに追われているアミール・フサインと合流して戦闘を開始した。フサインはチンギス・ハンの血を継ぐハン一族で言わば王族と言える人物だ。若く勇敢な戦士達はたった60人で、1000人の兵を相手して勝利する。ティムール自身も敵の領主を討ち取るなど、勢いを付ける事になる。人員が不足していることは明確などで、敵の捕虜となったり、右手右足を負傷して生涯片足が不自由になるなど、屈辱的な大敗を喫した。

 

敗北をしたとは言えティムールの噂は広まり6000人の兵を抱えるようになった。それでも敵軍の兵力は圧倒的であることには変わりはない。ティムールは夜襲を仕掛けることで、2万の敵を兵力差を埋めることに成功したことと、トゥグルフが亡くなったことで西チャガタイ・ハンは、ティムールとフサインで共同統治体制が整った。

 

 

フサインと対立、トップになる

 

トゥグルフが亡くなった後も東チャガタイとの戦いは続き最終的には完全勝利したが、一度大敗北をしたことでティムールとフセインは仲に亀裂が生じるようになった、決定的だったのが、フセイン重税を課したことで国民は困窮し、ティムールは自身の財産を民に譲ったことだった。

 

二人の差異は明らかで、ティムールは兵を集めて遂に国取りに動いた。フセインは本拠地を改築してティムールの軍に備えることにしたが、工事費用に捻出にまたもや重税を課したことで、有力な人材の多くがティムールにつくことになってしまう。

 

状況が一変したフセインは降伏して、ティムールに助命を約束されるが、周囲の人間が反対したことでフセインは家族もろとも処刑されることになった。最初の妻を亡くしていたティムールは、チンギス・ハン一族の女性を嫁にして「ハンの娘婿」を意味するキュレゲンの称号を名乗り、国のトップになった。

 

遠征

 

サマルカンドを首都にしたティムールは、1370年にティムール朝を開いた。ここからティムールは、30年以上の長い時間、生涯をかけて征服活動を開始することになる。中央アジア、トルキスタン、ペルシア、イラク、シリア、南ロシア、インド、オスマン帝国、ユーラシア大陸全土を支配して、かつてチンギス・ハンが築いた歴史上最大の帝国をもう一度実現することを夢見たのだ。

 

周辺諸国を制圧して地盤を固めると、弱体化していたイランを征服して、富を求めてインドを陥落、オスマン帝国にまで手を伸ばした。「アンカラの戦い」と呼ばれるオスマン帝国と戦争では、両軍合わせて100万の軍勢が集まった。過去にたった60人でクーデターを仕掛けていたことを考えると、とんでもない飛躍である。ティムールは勝利するが、有力な人材を多く失うなど大打撃を受けることになった。

 

ティムールの遠征は破壊と殺戮に血塗られたものであった。初めから降伏する姿勢であった地域では保証金を払うだけで許されたが、反抗した地域では徹底的に虐殺した。

 

インドでは10万人を捕虜にしたが、足手まといであると判断すると虐殺を決定して、15日間に渡り破壊と殺戮を繰り返した。破壊と殺戮は征服地域の住民を従えるために必要なことではあったが、ダマスカスでは1万人の幼児を捕虜にして、馬で轢き殺した。これには部下に咎められるが、「慈悲の思いは浮かばなかった」とティムールは一掃したそうだ。

 

多くの街を破壊したティムールではあったが、首都であるサマルカンドは愛していた。大規模な工事を繰り返して、街の活性化に力を注いだ。その熱量からティムール自身が、現場を視察して叱咤激励をしたとか。征服地域の職人はサマルカンドに強制送還して、仕事を与えた。

 

ティムールの死


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かつての大帝国モンゴル帝国の西側の制圧を終えたティムールだったが、1404年に中国に進出することを決めた。しかしその遠征途中で、ティムールは亡くなってしまう。このことでティムール帝国の中国進出は頓挫することになり、王位を巡って争いが始まるが、ティムールの孫に当るハリール・スルタンによって鎮圧され彼がティムールの後を継いだ。ハリールによってティムールの正式な葬式が行われることになり、サマルカンド市民は黒い喪服を着用して偉大な王の死を悲しんだ。