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エイブラハム・リンカーン大統領の功績がわかる10のこと

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リンカーンとは

 

第16代アメリカ大統領で奴隷解放を宣言した。奴隷制度に反対する立場として大統領に就任したことで、奴隷制度に賛成する南部は独立を宣言して、独自国家を形成することになる。これを反乱と判断したリンカーンは進軍を指示した。こうして南北戦争が勃発した。その後、奴隷解放を宣言したことで「偉大な解放者」として歴代アメリカ大統領のなかでも屈指の人気を誇ることになる。資金で勝る北部が優勢となり、南部のリー将軍が降伏したことで南北戦争は終結し、南部は自主的に奴隷制度を廃止することになっていく。ところが戦争が終結した数日後にリンカーンは頭部を撃たれて亡くなった。

 

幼少期

 

1809年にエイブラハム・リンカーンは、ケンタッキー州の貧しい農家の子供として生まれた。父はエイブラハムが生まれるまえに、それなりの地位を治めていたが、土地の権利証が偽物だったので退去を命じられてしまい一気に貧乏生活を強いられることになる。二年後、エイブラハムが9歳のときに、母が事故で亡くなってしまうなど、幼少期から苦労の連続だった。唯一の僥倖は義母がいい親だったことだろう。父と義母は無学だったので、リンカーンも正式な教育を殆ど受けることはなかったが、義母の存在によって進んで読書をするようになった。正式な教育で足りないところは、読書で補うことができたそうだ。

 

職歴

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1832年に23歳のリンカーンは共同経営者と借金をしてまで、小さな雑貨屋を購入するが事業が困難となり手放すことになる。同年に戦争に参加することになり、リンカーンは軍人となった。戦争から戻ったリンカーンは町に利益をもたらすことができると考え政界への進出を考える。一度目の選挙ではパッとしなかったが、二度目で当選してイリノイ州の議会議員を8年間務めた。この期間に法学の学位を取り、1836年には法廷弁護士として認められた。1846年、45歳頃に国政に挑戦して合衆国下院議員を2年間務めて、その後1854年からは、奴隷制度反対を掲げるようになる。

 

大統領就任、南北戦争

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1861年にリンカーンは大統領に就任しました。この頃のアメリカは、北部では奴隷の解放を訴え、南部の農村では奴隷がいないと働き手いなくなるので奴隷制度の存続を訴えてた。奴隷制度の拡大に反対していたリンカーンの当選に、南部から不安の声が上がることになり、次々と合衆国からの脱退を宣言する州が現れ、アメリカは二分してしまう。そして、南部による砲撃によって南北戦争が勃発することになった。戦争は当初南側が有利な状態ではあったが、北部側は資金面などでは圧倒的に有利であったので、時間が経過すると北部が有利となり、南側の降伏で戦争は終結した。

 

奴隷解放者となる

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1862年に南北戦争の事実上の終結を迎えたタイミングで「奴隷解放」を宣言した。63年に南北戦争の経過が北部に有利となると有名な「人民の、人民による、人民のための政治」と名演説を行う。リンカーンは「偉大な解放者」と呼ばれることになり、300万人とされる黒人奴隷の解放を実現した。

 

暗殺

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1865年。南北戦争が終結した5日後にリンカーンは暗殺された。劇場に喜劇を見にいったリンカーンだったが、密かに近づいた男に後頭部を撃たれてしまい亡くなってしまう。犯人は単独ではなく複数のグループだったようで、国務長官も命を狙われたそうだ。在任中の大統領が暗殺されたのはリンカーンがはじめてだったようで、全米が驚愕した。

 

性格と容姿

 

実は190センチを超える巨漢で、大柄を活かしてレスリング選手として名声を得ていたようです。性格に関してはかなり利他的な人物だったようで、自己犠牲を躊躇なく払う大義の人だった。弁護士をしていた頃も、多額の弁護料を棒に振っても有罪が確定している罪人は弁護しないと言い放ったこともある。選挙でも目的達成のためなら、別の人を援助したことで、自身が落選するなんてこともあった。

 

リンカーンのような人間からしたら「奴隷解放」とは当たり前の価値観なのだ。

 

恐妻家だった

 

リンカーンの妻メアリーは裕福な家庭で育ったお嬢様で、浪費癖が激しく、料理はぜんぜんダメだった。しかも癇癪持ちで嫉妬深い女性だった。彼女との結婚はリンカーンにとって「地獄に行くようなもの」だったらしい。家に帰ることを拒んで、仕事場に籠もったとか。

 

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演説が上手かったとされるリンカーン。なかでも「人民の、人民による、人民による政治」は有名ですが、それいがにもたくさんの名言を残しています。この場では一部となってしまいますが、リンカーンが残した名言をご紹介していこうと思います。

 

・「敵が友になるとき、敵を滅ぼしたと言えないかね?」

 

・「私の歩みは遅いが、歩んだ道を引き返すことはない」

 

・「直接会って話すのが、お互いの悪感情を一掃する最良の方法である。」

 

・「この悲しい世界では、不幸は皆に訪れる。その場合、ひどい苦しみを伴うことがある。完全に癒やすことができるのは、時をおいて他ならない」

 

・「何歳まで生きたかは重要ではない。いかにして生きたかが重要だ」

 

意外な功績

 

数々の功績をの残したリンカーンですが、意外にも特許を取得しているようです。弁護士をやっていた時代に取得したようで、「浅瀬でも座標しない船」と言う造船に関するもの。リンカーンは幼少期から川や湖の近くに住んでいた。10代の頃には船でバイトしていようです。そのときに浅瀬で座標した経験から、思いついたらしい。