百年戦争は、イングランドとフランスが王位を巡って争ったのだが、国境や国民意識が低い時代なので、国が戦ったのではなく、一族と一族が争ったのが、正しい認識らしい。この戦争が終わる頃には、フランスとイングランドの国境が現代に至るまでの原型となり、国民意識が高まったそうだ。つまり、歴史の変換点とも言える重要な戦争のなのだ。知っていても損がない戦争とも言えるので、教科書にだっておそらく記載されていのではないだろうか? 有名な戦争なので誰もが聞いたことはあるが、ジャンヌ・ダルクくらいしか知らないと思うので、今回はわかりやすく解説するために、人物に焦点を当てて紹介していこうと思う。百年も続くと、ジャンヌダルクを筆頭に多くの英雄が登場したので、面白いと思う。
どうして百年戦争が始まったのか?
(1339年〜)
きっかけはイングランド王エドワード3世がフランスの王位は「俺のものだ」と主張したことでした。エドワード3世の父親が先代の国王であることは間違いないのですが、母親もフランス王の娘であり、エドワード3世は次期フランス王候補の中でも、血縁的には申し分なかった。このエドワード3世は父親がバイセクシャルであり王として落第だったようで、嫁、つまりはエドワード3世の母親にクーデターを起こされる。エドワード3世も母にクーデターを起こしたようなので、親子揃って好戦的な性格だったのかも知れない。それとも、成功体験からフランスも手に入れようとしたのかも知れません。
当初はエドワード3世はフランス王位をフィリップ6世に譲るつもりでしたが、イングランドの領地をフィリップが没収することを宣言したことで、エドワード3世はフランス王位を手に入れるために、宣戦布告をした。こうして百年戦争が幕を上げるのでした。
前半戦
(1339年〜)
クレシーの戦いーーエドワード3世vsフィリップ6世
約1万5000人の大軍を率いてエドワード3世は、フランスに上陸した。イングランド軍の侵攻を拒もうと、フランスのフィリップの大軍を率いて決戦に挑もうが、全勝全敗。エドワード3世が率いるイングランド軍に敗北が続いた。本来なら、攻める方が難易であるが、フィリップ6世の経験不足が敗因と思われる。それ以上にイングランド軍の戦術が秀悦だった。ロングボウ(弓兵)を大量に準備したイングランド軍は、V字の陣形を組み、フランス軍が突撃してくるのを待った。そして、フランス軍が突撃すると、矢を放つ。このような弓兵を最大限活用した戦術は、百年戦争の間にイングランド軍の十八番となる事になる。特にクレシーの戦いは決定的で、フランス軍は倍以上の戦力であったのにも関わらず、屈辱的な大敗北をした。イングランド軍の陣形や狙いはフランス貴族は分かっていたが、フィリップ6世は貴族の進言を無視して、何度も突撃しては兵を失うような愚策であったと言われている。フランスは1万から2万くらいの戦死者、その中にはプリンスも含まれていた。とんでもない大打撃を受けたフランスではあったが、ペストの流行もありイングランドは進軍を諦めた。
ポワティエの戦いーー黒騎士エドワード黒太子vsジャン2世
フィリップ6世が亡くなりフランス国王には息子のジャン2世が即位しました。エドワード3世は当然のようにフランスの王位を寄越せと主張したようです。これも当然のようにジャン6世は拒否しました。こうして百年戦争は再開することになりました。
再開した百年戦争では「ブラック・プリンス」と恐れられた黒騎士が活躍することになります。彼の名はエドワード黒太子。エドワード3世の長子で、戦場で黒い甲冑を着用していたことから、ブラック・プリンスと呼ばれフランスで大変恐れていました。クレシーの戦いでは、僅か16歳で初陣を飾った黒太子は、ジャン2世と衝突することになります。
フランスに上陸したエドワード孤立したところをジャン2世に攻められることになります。ジャン2世の最大で2万の兵力だったとされて、対して黒太子の兵力は1万も満たない。対決は避けられいと判断した黒太子は、クレシーの戦いと同じような戦術を取ることで、戦力差を覆すことに成功した。ジャン2世は善良王と呼ばれて、戦上手で知られていたが、恐怖の黒騎士には敵わず、自身も捕虜にされた。
この大勝利で、多大な領土を獲得したイングランドでしたがペストが流行したことで、百年戦争は再び休止となった。
カスティーリャ継承戦争ーー救国の英雄「鎧を着た豚・デュ・ゲクラン」の参戦
百年戦争の番外編とも言われるカスティーリャ継承戦争が開戦することになる。カスティーリャとは後のスペインのことで、カスティーリャの継承者によってはイングランドが優位になるのでフランスは戦力を貸し出して参加することになった。もちろん、イングランドも軍を送っていて、あの黒騎士「ブラック・プリンス」エドワード黒太子がカスティーリャの地に降り立っていた。
フランスの王シャルル5世は、賢明王と呼ばれる秀才であり、幼少期から本ばかり読んでいた逸話があるようなかなり勤勉な人物であった。即位したシャルル5世は武勇と騎士道を好んだ父とは違い現実的な外交や、戦術や戦法を考えて着工する能力を類いな才能を持っていたのだ。だからこそ、名将デュ・ゲクランの才能を見抜き、彼を重用する決断をした。
「鎧を着た豚」なんて言う嫌なあだ名を持つゲクランは奇襲や夜襲など、ゲリラ的な戦術を得意として、戦に勝利するために現実的な戦術を練ることができた。カスティーリャ継承戦争でも遺憾無く才能を発揮することになり、あの黒騎士エドワード黒太子と戦ったが惜しくも敗北している。と言うのも上司がゲクランの進言に聞く耳を持たない人物だったからだ。しかし、一度は敗北をしたゲクランであったが、カスティーリャ継承戦争はフランスに勝利をもたらす活躍をする。
その後もシャルル5世がエドワード黒太子に対して、宣戦布告をすることで、百年戦争が再開する再開すると、フランス最高司令官となったゲクランと、賢明王シャルル5世の活躍で、イングランドに奪われた領土は全て取り返すことに成功した。
この頃、エドワード3世は老いには勝てずに満足に指揮を取ることはできない。エドワード黒太子も、赤痢となり父よりも先に亡くなってしまった。
中盤戦
(1358〜1415頃)
イングランドの内乱ーーリチャード2世の廃位
イングランドの王位にはエドワード黒太子の息子であるリチャード2世が即位した。リチャード2世は、百年戦争で奪われた領土の奪還とスコットランドとの戦費を補うために、国民に人頭税を課した。国民からの反感は強く、ワット・タイラーを中心に反乱が起こった。これをワット・ライラーの乱と言う。ただの農夫であったタイラーでしたが、国王リチャード2世と直接の交渉にこじつけた。しかし、タイラーは二度目の交渉の場で暗殺されることになる。リチャード2世は好機と見て、反乱軍を力で鎮圧させた。この成功体験に自信を付けたリチャード2世は、自身の決断に盲信するようになっていく。百年戦争よりもスコットランドやアイルランドに遠征したいリチャード2世
は、フランスと休戦条約を結んでシャルル6世の娘と結婚した。ここまではいいのだが、遠征は尽く失敗するは、専政が目立つようになり貴族に反乱を起こされた。リチャード2世は廃位に追い込まれることになり、ヘンリー4世が新たにイングランド王になった。ヘンリー4世も続発する反乱に苦しむことになる。
フランスの内戦ーー狂気王シャルル6世
イングランドが混乱してるとき、フランスも内情は決して良くはなかった。シャルル5世の死後に即位した息子のシャルル6世は、当初は有能な人材を復権させるなど、優れた決断から「親愛王」と評された。
まあ、これは最初だけで、二十歳を過ぎるとシャルル6世は「自分の体は、ガラスでできている」と妄想に駆られて、引きこもりになったのだ。支離滅裂な発言が目立ち、正気を失っていることが多くなると、政務を真っ当することは困難となった。シャルル6世は「狂気王」と呼ばれて、王位は事実上の空位となる。ただでさえ、百年戦争で取り返した領土の統治に時間を割いてるのに、王が指揮をふるえない状況になると、フランスは二つの派閥に分かれて、争うことになってしまった。
アジャンクールの戦いーーヘンリー5世の台頭
イングランドとフランスは内乱によって混乱していたが、先に安定したのはイングランドであった。二つに分かれたフランスでは、どちらもイングランドに加勢を頼むなどいまだに混乱が続いていた。ヘンリー4世はどちらにも援軍を送ると言う曖昧な態度を取っていたが、息子であるヘンリー5世が即位すると、フランスの混乱を好機と見て、進軍することを決めた。1万2000人の兵力でフランスに上陸したが、戦いと赤痢によって半分近くの兵力を失う。フランス大元帥シャルル・ダルブレは、2万の兵で、ヘンリー5世の行手を阻んだ。逃げ切ることはできないことを悟ったヘンリー5世はアジャンクールの地で決戦に挑んだ。兵力差はおよそ四倍、行軍による疲弊、赤痢の蔓延、絶対的なピンチである。しかし、ヘンリー5世は冷静であった。イングランドの十八番である弓兵を大量に用いたカウンター戦術で、フランスに圧勝したのだ。
この勝利によってイングランドは勢いをつけることになり、フランスの領土の大半を占領した。イングランドの猛攻に、フランスはトロワ条約を結んむ決断をする。この条約によって、ヘンリー5世はシャルル6世の娘と結婚して、シャルル6世が崩御した後にはフランスの王位を手に入ることになった。イングランドの大勝利。と思われたがヘンリー5世は2年後に赤痢で急死した。
後半戦
(1429〜1453)
オルレアンの戦いーーフランスの救世主「聖女ジャンヌ・ダルク」の参戦
ヘンリー5世が亡き後でもイングランドの攻勢は止まらない。重要拠点であるオルレアンを包囲されたフランスは、まさに絶望的な状況であった。オルレアンを落とされたら、一気にイングランドの侵攻を許すことになってしまう。国王候補であるシャルル7世は、絶望的な状況と、自身が先代の実子ではない可能性がある出生の曖昧さから、気力を失っていた。そんな中で、田舎の村から一人の少女が訪ねてきた。少女の名前はジャンヌ・ダルク。「神のお告げにより、フランスを窮地から救い、シャルル7世を国王にする」謎のヒロイズムを掲げる農夫の娘の言葉をシャルル7世は、信じることにした。理由としてあげられるのは、やることをやったが結果が伴わない現状を打破する起爆剤を探していたらしい。ジル・ド・レ、ラ・イルと共に軍を率いることになったジャンヌはオルレアンで奇跡を起こすことになる。
ジャンヌはとにかく攻撃するべきと、上層部を説得して強引に兵を動かした。敵軍の反撃に怯むフランス軍であったが、ジャンヌが先頭に立って味方を鼓舞すると、士気が上昇して連戦連勝を重ねることになる。まさに、聖女の奇跡であった。その後もフランス軍を勝利に導いたジャンヌの活躍で、シャルル7世はランスにて戴冠式を行い正式に即位した。ジャンヌはその後のパリでの戦いで負傷して捕虜となると、処刑されることになる。
百年戦争の終結ーーアーサーの名を持つフランスの英雄「リッシュモン大元帥」
アルテュール・ド・リッシュモンは、先の戦いであるアジャンクールの戦いで捕虜となっていた。ヘンリー5世は「アーサー」の名を持つ者がイングランドの王になると言う言い伝えを気にして、リッシュモンをぞんざいに扱った。(「アルテュール」が英語で「アーサー」)ヘンリー5世が亡くなったことで、やっと解放されたリッシュモンは密かに外部と連絡を取っていたので、シャルル7世を紹介してもらい元帥の座についた。
しかし、シャルルとの折り合いが悪くリッシュモンは宮廷を去ることになる。
ジャンヌ・ダルクが処刑された後に、リッシュモンは次第に信用を取り戻すことになり、再び総司令官の座に戻った。外交などの政治面でもフランスを優位に進め、軍事面でも砲兵を大量に導入したことで、イングランドの十八番であった弓兵を封じた。勢いを付けたフランス軍は、イングランドを追い詰めることになり、カスティヨンの戦いでの勝利で、百年戦争は終結した。
百年戦争終結後
フランス
百年戦争を終結させたことで、シャルル7世は勝利王と呼ばれることになります。戦争が終わった後は、ジャンヌ・ダルクの名誉回復に努め、荒廃したフランスの復興に力を入れました。晩年は息子であるルイ11世との対立に苦しだと言う。なんでもルイ11世は「遍在する蜘蛛」と呼ばれる陰険で慎重な性格だったようで、一説によるとシャルル7世は毒殺されることを恐れて餓死したそうです。
イングランド
ヘンリー5世の息子であるヘンリー6世は精神病になってしまい息子を判断することもできなくなった。このことでイングランドはかつてのフランスのように、二つの派閥に分かれて内戦に突入しました。薔薇戦争と呼ばれるものです。