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【ウィリアム・マーシャル】五人の王から認められた最強の騎士

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底階級の身分であっても、ウィリアム・マーシャルは騎士とての強さと教養、そして度量を兼ね備えていた。その実力は敵対関係にもあった五人の王にも認められて、重宝される事になる。騎士の王とも呼べる「獅子心王リチャード一世」すらも、その強さを認めざるを得なかった。騎士から国を任される宰相の位にまで上り詰めたのは、異常と呼べるだろう。しかも、晩年には騎士として再び戦場に舞い戻るのだ。誇張があるにしても、最後まで騎士道を極めた騎士であることは間違いないだろう。

今回は生涯を騎士道に捧げた最強の騎士「ウィリアム・マーシャル」ご紹介していこうと思います。どうぞ。よろしくお願いします。

 

 

生涯

 

少年期

 

ウィリアムは1146年にジョン・マーシャルの三男として生まれた。マーシャル家はイングランド王の「警護役」位の身分でしかなく、当時のイングランドは、マティルダ派とスティーブン派で分かれていた。当初ジョンはスティーブン派でしたが、マティルダ派が有利になると寝返ったらしい。そんななかで、ウィリアムが6歳の頃に父に捨てられる経験をする事になる。敵対していたスティーブン王に城を包囲されたのだ。この危機にジョンは休戦を求めるが、スティーブンは三男であるウィリアムを人質として要求したのだ。ジョンは「出来のいい息子なんていくらでも作れる」とウィリアムを見捨てしまう。処刑される運命にあったかと思われたが、スティーブンの慈悲でウィリアムは二ヶ月間の捕虜生活を送ることになった。このようにウィリアムは父からは全く持って期待されていなかった。かつ長男でもないので、相続する財産もない。親戚の家に預けられたウィリアムは騎士として成長し、自身の実力を証明するしか生きる術がなかった。14歳で戦争を経験して、16歳頃には騎士に叙された。

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その後ウィリアムはトーナメントに参加して自身の実力を証明していく事になる。トーナメントとは武芸を競う競技で、死ぬことすらある危険な競技であった。相手を捕虜にすれば勝利で、敗者は身代金や馬、武器、甲冑などを譲渡しなければならない。当初は主君であるタンカーヴィルと組んでトーナメントに参加していたが、後にフランス人であるロジェ・ド・ゴージと組んでトーナメントを渡り歩いた。十ヶ月の参加で103人の騎士を捕虜にして、多額の財産を得た。

 

アリエノール・ダキテーヌに見出される

 

1168年、ウィリアムが16歳頃アリエノールの護衛部隊に任された。しかし、不意打ちとは言え、怪我を負い捕虜になった。その時の戦いぶりが、アリエノール・ダキテーヌに評価されて、アリエノールが身代金を払って釈放された。

 

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アリエノールは後に「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるイングランド王ヘンリー二世の妃である。縁を得たウィリアムはアリエノールとヘンリー二世の子供である若ヘンリー王に騎士道を教える立場として従えることになった。なんでもウィリアムの強さだけではなく、教養が高いことも教育係に指名された理由だそうだ。

 

ヘンリー二世はフランスとの一件が落ち着くと、息子達に領土の分割して領土をバラバラに統治することを決めた。若ヘンリー リチャード、ジェフリーはそれぞれ領土を持って統治することになる。ウィリアムは若ヘンリーの側近として従えた。

ところが三年後に、ヘンリー二世と、若ヘンリー達、息子達はフランス王と結託して反乱を起こす事になる。理由は地位だけで息子達に権限がないこと、末っ子のジョンに若ヘンリーの城を譲渡することを決めたことである。この反乱でウィリアムが何をしたのかわかっていないが、若ヘンリーの騎士の叙任をしている。反乱は父であるヘンリー二世によって鎮圧された。

 

若ヘンリーの死

 

若ヘンリーとの関係は良好であったが、若ヘンリーの妃とウィリアムが不倫関係にあると噂が流れた。これに激怒したウィリアムは告発者に決闘裁判を申し出るが、若ヘンリーに却下されてしまう。ウィリアムは若ヘンリーの元を去ることになった。この頃、若ヘンリーが名ばかりの王位に不安を漏らして、ヘンリー二世と話し合いで、他の兄弟に臣従儀礼をさせることを決定した。しかし、後の獅子心王・弟のリチャードが拒否して反乱を起こしたのだ。

 

だが、若ヘンリーは病に犯されていて、十字軍に参加する夢をウィリアムに託して、急死することになる。ウィリアムは自身の死際に、テンプル騎士団に入団して、死ぬ事になる。

 

三年後に聖地から帰還すると、ヘンリー二世に従えることになる。この頃、後の獅子心王リチャードがフランスと協力して反乱を起こしていのだ。この反乱でウィリアムとリチャードは直接対決している。リチャードの猛攻に徹底を余儀なくされたヘンリ二世。追撃に向かうリチャードの前にウィリアムが立ちはだかった。鎧を身に付けていなかったリチャードは、ウィリアムの気迫に圧倒されて容易く落馬した。簡単に命を取れる状況であったが、ウィリアムは馬の命だけを奪い、リチャードを徹底させた。リチャード一世すら慄く強さなのだ。

 

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リチャード一世に仕える

ヘンリ二世が病に倒れてことで、リチャード一世に下で働くことになる。この頃ウィリアムは40歳で17歳のイザベル・ド・クレアと結婚した。貴族の娘との結婚だったので膨大な領土と伯爵などの位を手に入れる事になる。加えてリチャード一世は即位そうそうに十字軍遠征に向かったので、ウィリアムは摂政の一人に任命された。

この頃のイングランドの政治はかなり荒れていた。摂政に選ばれた有力人物が次々に病死したことでギヨーム・ロンシャンが次第に力を握るようになり、リチャードの弟ジョンと協力してロンシャンを追放した。リチャードがイングランドの帰還途中で捕虜となると、ジョンが王位の奪還を企てた。この時にはジョンと対立することになる。リチャード一世と、アリエノール、ウィリアムを相手にジョンは王位を返上した。

ジョンが王になっている間にフランスによって領土を奪われたいたので、リチャードと共にウィリアムも戦争に参加した。この戦いの時ウィリアムは53歳。若い兵士を出し抜いて、城壁に架けられた梯子をいち早く登ったらしい。リチャード一世もこれには感嘆したそうだ。

 

ジョンの元で

 

リチャード一世が不運の死を遂げると、ジョンの即位に協力することになる。しかし、リチャード一世が残した負の財産によって、ジョンは資金不足に悩み、フランスと休戦することになった。ジョンとウィリアムの仲もよくはなかったようだ。なんでもウィリアムがアイルランドの方へ引っ越したことで、その一体の領土を巡って争ったようだ。

ジョンはイングランドを建て直そうと努力するが上手くいかず、マグナ・カルタによって王としての権限を失った。これによって反諸侯派が反乱を起こして、フランスも侵攻することになる。ジョン派だったウィリアムも危機に陥る。

 

リンカーンの戦い

ウィリアムはジョン派として死力を尽くして戦うが、1216年にジョンは病死してしまう。これによって状況が一変する。僅か9歳のジョン王の息子ヘンリが即位することになった。ジョン王派の諸侯の思いもあり、ウィリアムはジョンの後見となる決意をする。そして、リンカーンの戦いが始まる。ウィリアムはジョン派の団結力を高めて、反乱軍を撃破し、リンカーン城下でフランス軍と激突することになる。フランス軍は老将ウィリアムを警戒して防御よりの策を講じるが、当時70歳を超えるウィリアムの戦法と、若い兵士を率いて先頭で勇敢に戦う姿に、フランス軍の戦線は三時間もせず崩壊した。その後も、後の「獅子王」。歴代フランス王の中でも戦が上手かったとされるルイ八世を徹底に追い込んでいる。

 

老将の死

 

マグナカルタの改定再公布によってフランスはイングランドからの撤退を余儀なくされて戦争は終わらせた。ウィリアムは早い段階から、和解する考えだったようだ。

1219年に、五人の王に仕えた伝説の老将は体調を崩した。ウィリアムは、自身の死を悟るとテンプル騎士団に入団して、73歳で死去した。遺体はテンプル教会に埋葬された。

 

まとめ 

多少の誇張がないと、疑わしい伝説をたくさん残している人物です。晩年のウィリアムは王以上の信頼を獲得して民衆や貴族から慕われたとされる。一人の騎士が生涯のうちに五人も王が変わったのも不思議な感じです。それだけ波乱の時代だったんでしょうか?