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【エドワード黒太子】「ブラックプリンス」と呼ばれたイングランドの黒騎士

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フランスとイングランドが王位をかけて争った百年戦争では、多くの英雄が生まれました。当ブログでは、ジャンヌダルクや、ジル・ド・レ、デュ・ゲクランなどフランスに偏って紹介してきましたが、ついにイングランドの英雄をご紹介します。

 

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その名は「ブラック・プリンス」戦場で黒い鎧を身に纏っていたことから、敵国から恐れられたイングランドの王子「エドワード黒太子」。主に百年戦争の前半で活躍したエドワード黒太子は、イングランドを代表する英雄で生涯で殆ど負けなしだったとされます。彼の活躍でイングランドは百年戦争をかなり有利に進めることができた。

 

 

生涯

 

少年期

1330年に時のイングランド王エドワード三世の長子としてエドワード黒太子は生を受けた。ウッドストック宮殿で生まれたことから、エドワード・オブ・ウッドストックとも呼ばれる。7歳の時にはコーンウォール公に叙爵されて、太子と公爵が混合する地位となった。1339年には父がフランスの王位を宣言したことで、百年戦争が勃発することになり、エドワードは少年時代からイングランドの代表を務めることが多くなった。13歳にはプリンス・オブ・ウェールズとなる。つまり正式に王太子となった。

 

百年戦争への参加

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1346年にクレシーの戦いに参加したエドワード黒太子は、16歳にして軍隊を率いて白兵戦を経験する事になる。フランス北部で起こったこのクレシーの戦いは、侵攻するイングランドが1万2000人の戦力に対して、フランス側は3万から4万人。フランス側の戦略(焦土作戦、川を渡る橋の破壊)でイングランドはフランス北部に追い込まれた。フランス軍石弓部隊に対抗するべく、w字の陣形で防御に徹したイングランド。前線にエドワード黒太子とノーサンプトン伯爵が立ち、後方でエドワード三世が指揮を振るった。フランス軍は15回も攻撃を仕掛けるが、突破することができずに、イングランドは奇跡の勝利を納めた。この戦いの犠牲者はフランスが1万から2万人で、イングランドは1千人だったとか。まさに大勝利であった。

直後に開戦したカレー包囲戦も経験し勝ち星を重ねたエドワード黒太子は着実にキャリアを積む事になる。1348年にはエドワード三世が創設したガーター騎士団にも選ばれ、1350年、21歳のときには父エドワード三世と共に、ウィンチェルシーの海戦にも参加して、百年戦争に置ける重要な海戦でも勝利した。

 

その後、ペストの流行で百年戦争は休戦する。

 

黒太子最大の功績

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1350年にフィリップ6世が亡くなったことで、息子のジャン二世がフランス王に即位した。エドワード三世は王位を譲れと恫喝するが、当然のようにジャンは拒否する。

これによってイングランドは再びフランスへの侵攻を開始した。1356年にエドワード三世の指示でフランスに侵攻した黒太子は友軍と合流してフランス軍と対決する予定であったが、進軍が遅れたことでポワティエの地で一戦交えることになった。地理的に有利な場所を陣取った黒太子は、16歳の頃に経験したクレシーの戦いと同じ戦法を使うことを考えた。黒太子軍は7000から9000、フランス軍は12000から18000、数的には圧倒的に不利であったが、戦法が上手く機能したことで圧勝した。

国王であるジャン二世を捕虜にしたことで、フランスは軍事面だけではなく多額の身代金を払うことになる。イングランドは経済的にもフランスを追い詰めることに成功したのだ。

 

百年戦争の一部終結後

アキテーヌ(フランスの南らへん)のプリンスとなった黒太子はフランスの南部を支配することになった。宮殿では宴やトーナメントを催したりと、アキテーヌの人達から好意的に受け取られた。しかし、父譲りの派手な性格から浪費が重なり重税を課すようになったので、次第に人気が落ち統治を困難にした。この頃に黒太子は、ジョーン・オブ・ケントと結婚している。当時には珍しく恋愛結婚だったようで、ジョーンは2度も結婚をしていることもあり、反対する声もあったが結婚を押し切った。

 

黒太子の敗北

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1367年にカスティーリャ王国(後のスペイン)の継承戦争に参加することになる。表向きはスペインの内戦ではあるが、イングランドの黒太子とフランスの英雄ベルトラン・デュ・ゲクランが対立している構図からみても百年戦争の一部とみれている。

黒太子は残国王ペドロ一世側につき、フランスのゲクランとエンリケ二世を対決してナヘラの戦いで大勝した。だが、この勝利は喜べるものではなかった。ペドロ一世とは遠征費を巡って対立し、黒太子自身も赤痢(ペストの可能性もあり)になってしまう。

その後、直ぐに体勢を立て直したゲクランの再侵攻によってペドロは敗北、カスティーリャはフランス側に有利な領土になってしまう。遠征費が払われることはなかったのですが、豪勢な生活と戦争を続けたことで支配していたアキテーヌの財政が悪化することになった。これによって貴族を中心に抗議の声が上がり、フランス国王シャルル五世に提訴される事になる。黒太子は「自分の好きな時に大軍を率いて出頭する」と答えたためにシャルル五世はアキテーヌの没収を考え、百年戦争が再び幕をあげた。

 

黒太子の死

1369年に百年戦争が再開されたが、黒太子は病によって出陣することは不可能であった。その間にフランスの英雄ゲクランの活躍で、次々と領土が奪われる事になる。

1370年には無理して出陣して勝利したが、住民から反発されることになり、逆にフランス軍に勢いをつけることになってしまう。どんなに戦場を駆け巡った英雄でも、病の侵攻を抑えることは叶わない。その後、出陣することなく1371年にはイングランドに戻る。黒太子がいなくなったことで、領土であったアキテーヌはゲクランに奪われた。

 

イングランドに戻った黒太子は国の実権を握り国政の改革を実施するが、同年である1376年に病で亡くなった。

 

さいごに

エドワード黒太子はイングランドでは人気のある英雄の一人で、太子でありながら騎士道精神を体現した人物として評価されています。戦場では常に黒い鎧を纏っていたことから「ブラック・プリンス」と呼ばれていたようですが、実際に黒太子が使っていた鎧は黄金みたいです。まあ、一部塗装がハゲていて黒っぽいですが、それでも殆ど金色です。もしかしたら、あまりにも強いから不吉な意味で「黒」とフランスから恐れられたのでがないでしょうか。

 

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