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【アリエノール】ヨーロッパの祖母!豪華な子孫を持った王妃

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アリエノール・ダキテーヌは生涯で10人の子供産んだことで、イングランド王、エルサレム王、フランス王、神聖ローマ皇帝、ナバラ王など、豪華な子孫を持つことになる。ヨーロッパ各地で子孫が活躍したことで、アリエノールはマリア・テレジアやヴィクトリア女王と並んで「ヨーロッパの祖母」と呼ばれています。

 

アリエノールの子供にはイングランド王の「リチャード一世」もいます。リチャード一世は戦争と冒険に明け暮れた王で、十年間王様をやっていたが、イングランドにいたのは僅か三ヶ月。リチャードがロマンを追い求めるような性格になったのは母アリエノールの影響が結構大きいようなんです。そう、アリエノールも「獅子心王」の母らしく、「好き」に生きた感じのある面白い女性だったりする。今回は「ヨーロッパ祖母」アリエノールをご紹介していこうと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

生涯

王妃以前

 

1122年にアリエノールはアキテーヌ公ギヨーム10世の娘として生まれる。アキテーヌ公とはフランスのアキテーヌ地方を治めていた君主で、当時はフランスの三分の一を支配していました。

 

名家の生まれであったアリエノールは音楽、文学、言語、とレベルの高い教育を受けたようで、少女時代から政治に関心を持ったそうです。父についていって領地を周ったこともある。ただ、母や兄が早くに亡くなったことで、8歳で領地の相続人になった。

 

そのことで、各国からの関心を集めて、自由奔放で傲慢な性格になった。14歳になった頃には社交界を取り仕切るようになり、「世界の薔薇」ともてはやされていたみたいです。

 

娘が遊んでいた頃に父のギヨームは相続問題に直面していた。フランスのルールでアリエノールは単独でアキテーヌを相続できない。それで、いろいろ動いていたのだ。庶子に継がせるとか、再婚するとか考えたようだが、最期には父ギヨームの遺言でフランスの王ルイ6世が支配することになった。

 

フランスの王妃となり離婚

 

アリエノールは15歳でフランスの王妃になります。ルイ6世の息子であるルイ7世と結婚したアリエノールでしたが、すぐにルイ6世で亡くなってしまったので、結婚と同時期に王妃になった。

 

しかし、まあこの二人は性格がまるで違った。名家らしい派手好きなアリエノールと違い、ルイ7世は生真面目で温厚な性格だったのだ。と言うのもルイ7世は継承順位が低かったので聖職者になる想定で育てられていた。なのでアリエノールのは「王と結婚したつもりが、僧侶だった」と離婚後に愚痴を漏らしたとされる。

 

二人の関係に決定的な亀裂が疾走る事件が第二回十字軍遠征で起こった。1147年にアリエノールはアキテーヌ軍を連れて第二回十字軍遠征に参加することになった。夫のルイは信仰に熱い人物なのでやる気満々だったのだが、アリエノールは旅行気分。と言うか旅行が目的だったので、王妃の荷物を運ぶ部隊を用意し、それで、その部隊を護る護衛部隊も必要とした。アリエノールの暴挙だけではないが、進軍が遅れたフランスの軍は惨敗することになってしまう。

 

このことで二人の関係に溝ができる。アリエノールは名誉挽回を考えて、叔父のレーモンと協力してアレッポを奪還することを主張する。ところが、ルイ7世は断固拒否してアリエノールを拘束して、エルサレムに向かった。ルイ7世は敗北してしまい、レーモンも戦死。二人は敗北者としてフランスに帰国するのでした。

 

十字軍遠征での惨敗がきっかけで帰国の四年後に二人は離婚することになります。当初ルイは娘への影響を考えて離婚を渋っていたが、1152年に「近親婚」を原因に離婚することになった。(婚姻の無効)

 

再婚してイングランド王妃

 

離婚が成立して二ヶ月後にアリエノールは再婚しました。早すぎと思いますが、バツイチでもアリエノールはヨーロッパに名だたる名家の女性なのです。

 

なので各地から求婚が相次いだ。それでノルマンディー公のアンリと結婚することになる。ツッコムどころがあるとしたらルイ7世とは「近親婚」を理由に離婚したが、アンリはよりいっそう血縁関係が近った。もう一個ツッコムとしたらアンリはアリエノールのよりも11歳も歳下だったりする。

 

この結婚にルイ7世は激怒した。アリエノールはアンリへ軍資金提供を決め、フランス領土の半分が、イングランドの物になったからだ。まあ、フランス領土の一部は元々アリエノールの物なので当然と言われれば当然である。

 

1154年にアンリはイングランド王を継承してヘンリー二世に改名して、アリエノールも戴冠することになった。

 

ヘンリー二世と対立する

 

ヘンリー二世とは8人の子供に恵まれて、成人した王子達に領土を分配することになります。アリエノールは子供達のなかでも、アキテーヌを相続することになったリチャードを溺愛したと言われている。そのリチャードも母の影響を受けてロマン主義な人物に成長することになります。

 

これでめでたしめでたしとはなりません。ヘンリー二世は娘達を他国に嫁がせて周辺諸国との関係を友好にすることを考えていましたが、アリエノールはアキテーヌ領土の維持にしか興味がなかった。決定的な対立原因は、アデル王女である。アデル王女はあのルイ7世と後妻の子供でリチャードの婚約者だった。そのためにイングランドの宮殿で養育されていたのだが、ヘンリー二世は手を出してしまったのだ。これが原因でアリエノールはアキテーヌで別居することになった。

 

長男の若ヘンリーは反乱を起こした。ヘンリー二世は子供に領土を与えたが本人は、まだ30代で現役バリバリだったのもあり、子供達に実権を与えなかった。

 

1173年に若ヘンリーはルイ7世の協力もあり反乱を起こしたのだ。さらにアリエノールはリチャードを含めた子供達と共に、対立する意思を固めるが、ヘンリー二世に動きを監視されていたので捕らえられた。それで15年も投獄されることになる。反乱も序盤以降はヘンリー二世の優勢で、1174年に和解することになった。

 

獅子心王リチャード

 

1183年に若ヘンリーが病死した。これでリチャードがヘンリー二世の後継者になる。しかしヘンリー二世はアキテーヌを末っ子であるジョンに譲渡するように言ってきたのだ。母の愛を最も受け継ぎ、イングランドよりもアキテーヌを大事にしているリチャードにとってこれは屈辱でしかなかった。

 

それで当時のフランス王フィリップ二世と協力して父ヘンリー二世に反乱を起こす。リチャードは勝利してイングランド王を継承することでアリエノールは長きに渡る監禁生活から開放されることになった。

 

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この時点でもアリエノールは結構なご年齢なんですが、元気だった。リチャードは在位中はほとんど海外で過ごしたので、イングランドを実質的に統治していたのはアリエノールだったりするし、縁談の話をまとめたり、リチャードが捕まったときも積極的に働いた。

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長い監禁生活後にも衰えずに働けるのも、すごいですが、1204年で80歳を超える長寿で亡くなるってのもスゴイ。

 

最期に

 

リチャード一世が亡きあとにイングランドを継承したのは末っ子のジョンだったのですが、このジョンは戦争で負けまくって、領土をフランスに領土を奪われたことで「マグナ・カルタ」を起こされた不名誉な王だったりする。

 

フランスの王フィリップ二世は、ルイ6世と後妻の子供だったことを考えると、元夫婦の長い喧嘩の勝者は夫と言えるところは皮肉である。