中国初の天下統一を果たした始皇帝は、野心家で国を我が物にするような暴君であった。しかし、その始皇帝が亡くなると中国全土がパニックに陥り各地で反乱が起きた。そんな混沌とした時代を導いた救世主こそが、劉邦である。彼は始皇帝とは違うタイプであり、自然と周りに人が集まるような人気者だった。ズバリ良い奴なのだ。と思いきや、劉邦の本質は、働かずに飲み歩くは、任侠的なことをするし、子供を捨てようとしたこともある。それでも劉邦は、みんなに慕われて、百姓から王にまで出世することになります。
クズ男のはずの劉邦がいかにして天下統一を成し遂げることができたのか?今回は劉邦の生涯について簡単に解説していこうと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
生涯
若い頃の劉邦
前202年に劉邦は百姓の息子として生まれました。百姓の息子でしたが無理をしてまで働く必要がないくらいは裕福だったようで、成人しても定職につかずに飲み歩いていたようです。鼻が高く、立派なヒゲを蓄えた龍顔で、恰幅な体つきだったとされる劉邦は、親分肌の侠客をやっていたらしい。縁あって自警団の長を任されることになっても、あんまり働いていなかった。
とある日に有力者だった呂公が村に訪れたときに、皆がこぞって贈り物を持参してきた。数が多すぎたので「千銭以下の者はこの場に座ってもらおう」となったなかで、劉邦は「一万銭持ってきた」と当然のように嘘を付いた。嘘を付いていたことはわかっていたが、呂公は「面白い」とわざわざ玄関まで出迎えた。さらに劉邦を気に入って娘の呂雉を嫁がせたのだ。裕福な家庭から貧乏な家庭に嫁がされても呂雉は文句も言わなかったとか。一男一女にも恵まれて、劉邦も改心するかと思いきや。それでも劉邦は働かずに飲み歩いて、呂雉が働いた。
始皇帝が全国を回っていたときに、地元にやってくることになった。劉邦は自身を「英雄だ」と豪語していたので隠れたらしい。始皇帝の行軍を見て「大丈夫たる者、あんな風にならなくてば」と憧れたと言う。後のライバルとなる項羽は始皇帝の行軍を見て「あいつに成り代わってやる」と言ったとか。これは、人格の違いがよくわかるエピソードとして有名です。
ここまで聞くと中々のクズ男だと思いますが、劉邦は人に慕われる不思議な人物だった。例えば、劉邦が飲み屋に行けば満席となって店が繁盛するので、お金を払わなくでも良かったとか。この不思議な劉邦の性質は、後々にとても役立つことになります。
反乱と運命の変化
40歳になった劉邦は秦に労働者を連れて行く仕事をすることになります。ところが秦での仕事は大変な重労働で逃げ出す人が多かった。かなりのブラックだったのだ。劉邦自身も指定された人材をしっかり届けないと罪人として扱われて、死ぬまで強制的に労働させられる運命にある。それで劉邦はどうしたかと言うと、酒に逃げた。で、人が集まらないなら、いっそのこと皆で逃げ出そう、と言い出して盗賊の頭領をすることになったのだ。
そんななかで運命が変わる事件が起こった。始皇帝の死である。始皇帝が亡くなったことで各地で反乱が起きてしまい中国全土が変革の時代に突入した。劉邦の故郷で県令(土地の管理者)をやっていた人物は秦から派遣されていたので人望がない。自身も反乱に合うかもしれないとビビった。そこで人望のある劉邦を雇うことに決めた。ところが劉邦が到着する前に気分が変わり城に立て籠もったのだ。これに劉邦は「反乱が起こったら、あっという間にやられる。それなら反乱軍に入ったほうがいい」と手紙を送った。この手紙によって刺激を受けた人達は県令を殺害して、劉邦を新たな県令とした。
こうして反乱軍を率いることになった劉邦は近隣の領土を攻め込んで、張良と言う名前の天才的な軍師を仲間に加えた。
この張良は反乱を起こそうとするが100人しか兵を集めることができなかった。自身にリーダーの素質がないと自覚した張良は、仕える男を探していたのだ。張良は天才的であるがゆえに誰も彼の言うことを理解する者がいなかった。
ところが劉邦は張良を信頼して全てを任せたのだ。これに気分を良くした張良は泣いて喜んだと言う。
反乱が終息を迎えてくると、項羽などの台頭していたグループ達が合流して秦を徹底的に攻めた。このときの劉邦と項羽のアプローチはまるで違った。
項羽は大軍で真っ向から秦軍を攻め滅ぼした。時には捕虜を残虐な方法で殺害するし、滅ぼした領土で強奪など平気に行っていた。
劉邦は項羽と比べたら貧弱な軍だったので、なるべく戦闘は避けて行軍した。これだけと劉邦が弱いだけに聞こえますが、項羽との最大の違いは降伏した敵将にはそのまま領土を守らせるなどの寛大な対応していたのだ。それでいち早く秦に到着するとそのまま滅ぼしてみせた。
勝者となった劉邦は項羽と違い無駄な略奪を禁止して、一時的にだが秦の複雑な法を簡単にしたりと、人望を高めた。誰もが劉邦に王の器を感じた。
しかし、送れて到着した項羽は城に入れて貰えないことに激怒して大軍で攻めてくる。最初のうちは仲間の助言を聞いて城を死守するつもりだったが、項羽が本気なので諦めた。それで、直接会って全力で謝罪したと言う。このとき項羽は劉邦を殺すつもりだったが、「大した奴ではない」と殺すことをやめた。
劉邦の手柄を横取りする形で天下統一を果たした項羽は、略奪行為を繰り返して、秦の王族やその部下達を皆殺しにした。これは、劉邦とは全く違う方向性であった。
その劉邦は、田舎に追放されて漢中王をすることになる。しかし、チャンスやってくる。項羽は各地の諸侯達に褒美を与えることを渋ったので、各地で反乱が起こったのだ。項羽が反乱の鎮圧に力を注ぐなかで劉邦も反乱を起こすのでした。
劉邦VS項羽
こうして劉邦は項羽に戦争を仕掛けることになりますが、連敗が続きます。これでもかと思えるくらいの惨敗が続いた。
劉邦は10万人の大軍を率いていましたが、たった3万の項羽軍に惨敗することになる。この戦いで嫁の呂雉は捕虜となり、劉邦は嫁を置いて逃げ出した。途中で馬車を軽くするために子供を投げ捨てるような阿呆なことをしますが、そのたびに部下が馬車を止めて子供を届けるので劉邦はキレた。最期には部下に説得されて諦めたようだが、中々のクズ野郎です。
こんな感じでコテンパンにされ続けた劉邦でしたが、二年と言う長い年月をかけて、ついに決定的な勝利を飾り、項羽を自殺に追い込みます。なぜ、そんなことができたか?あんだけボコボコにされていたのに。
それは劉邦の持つ人柄の良さでした。項羽は名家の出身であり、プライドが高くかなりの野心家でした。なので、有能な部下の意見も殆ど聞かなかった。
逆に劉邦は百姓の出身であったからこそ、部下の意見をしっかり聞き寛大に接することができた。この人柄の良さで、自然と人々が集まり、必然的に優秀な人材が劉邦の元で働くことを望んだ。だからこそ、項羽を追い詰めることができたのだ。特に活躍した優秀な部下は、張良、蕭何、韓信で、韓信に至っては元々項羽の優秀な部下だったりする。
持久戦の末にたった一人になった項羽は、劉邦に決定的な敗北してしまい自殺を選ぶことになる。劉邦は項羽を厚く弔ってやったと言う。
こうして劉邦は紀元前202年に400年も続く漢王朝の初代皇帝として君臨することになりました。
さいごに
劉邦の後に自身が項羽に勝てた理由は、優秀な人材に恵まれたからだと語ったと言う。それなのに、韓信が離反すると疑ったらしい。韓信は劉邦を信じてしたが、劉邦が本気であると感じら本気で離反することを考えた。それが明るみになった韓信は処刑されることになる。
劉邦どういうことやねん。あの言葉は?
また、劉邦の死後の呂雉は結構酷い。これまで劉邦に対する鬱憤を晴らすように、劉邦の愛人とその子供をここでは書けないくらい酷い方法で殺害して、実子の王の座と自身の立場を死守したそうだ。あまりにも酷い方法だったので実子がショック死したと言う噂もあった。
とまあこんな感じで劉邦の説明を終わりたいと思います。劉邦が百姓から王になれたのは人並み外れた人望の厚さがあったからなんでしょう。また、劉邦は責任は俺が取るから、好きなようにやれと部下を上手く使うタイプだったからこそ、後任が育ちやすかったんだと思います。いまの時代でも割と好かれる上司かもしれません。