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『オワイン・グリンドゥール』アーサー王に並ぶウェールズの伝説的な英雄について

 

オワイン・グリンドゥールは1400年から1415年に起こった蜂起であるグリンドゥールの反乱の指導者であり、ウェールズを代表してイングンランド王国と戦った。この戦争はウェールズにとって最後の独立戦争であったが、ウェールズは敗北する。反乱軍は壊滅状態となり、グリンドゥール本人にも多額の懸賞金がかけられたが、彼を裏切る者は誰もいなかった。その勇姿は今日までも語り継がれることになり、アーサー王と並ぶ神話的な英雄となったようです。2002年に放映されたイギリス人が選ぶ100人の偉大な偉人的な番組では、グリンドゥールは23位に選ばれるなど、今世紀になっても人気の英雄と呼べるでしょう。

 

 

生涯

 

10代から30代前半

 

オワイン・グリンドゥールは1354年にウェールズの北東部で生まれました。先祖を辿っていくと、ウェールズ王家の直系の子孫であり、母親も実在した小国の王家の血筋だった。なので、オワイン・グリンドゥールはイングランドに滅ぼされた一族のハイブリット言えた。父と母が早世したことで、オワインは16歳の時に母の一族に引き取られた。または王国の法廷裁判官となる新鋭の貴族の名家に引き取られたと言われている。実際にオワイン・グリンドゥールはインスオブコート(法廷裁判の専門団体)に派遣されて7年間勉強した。1383年には結婚して、ウェールズに帰国した。

 

リチャード二世の凋落

 

イングランド王リチャード二世は王国の権力基盤をロンドンからウェールズ地方に移す大胆な計画を打ち立てた。政敵を排除して新しく王国を作り変えることで、自身の地位を確固たるものにするのが目的だったと言われている。新しい領地で新設されたポストはウェールズ人が埋めることになり、ウェールズ人の地位も必然的に上がることになった。ウェールズ人としてもプリンス・オブ・ウェールズであったエドワード黒太子の息子であるリチャード二世にも好意的だったようです。オワイン・グリンドゥールも1834年から兵役につくことになり、ランカスター公爵の元でリチャード二世の仕えた。

 

反乱

リチャード二世の計画に反対したのは、ヘンリー4世である。ヘンリーは従兄弟であるリチャード二世の政敵となり、互いに邪魔をし合う関係となったが、ヘンリーの邪魔をしたのが実の父でるランカスター公爵であった。ヘンリーはフランスに追放されることになり、ランカスター公爵の相続も叶わないものとなった。だが、リチャード二世がアイルランドに遠征を行なっている間に、イングランドに上陸して協力を仰いで、帰還途中のリチャード二世の軍をウェールズで破った。ヘンリーはヘンリー四世となり即位して、リチャード二世は獄死することになる。

 

ウェールズ人の反乱

 

1400年にオワイン・グリンドゥールは反乱を起こした。プリンス・オブ・ウェールズの即位を宣言して、息子や信頼できる仲間でグループを形成した。支持者は北東ウェールズを中心に急激に広まることになり、反乱軍は次々と侵略を成功させた。同時期に別の反乱軍が動いたことで、ウェールズの反乱は大成功と言えたようだ。

 

ヘンリー四世はアイルランドから帰還するとウェールズに侵攻を開始した。オワインは奇襲を成功させるなど、大軍を相手に優位に戦いを進めたが、次第に戦力差は如実となりヒットエンドラン戦法や、篭城による消耗戦を余儀なくされた。

 

反乱はイングランド全体に余波が起こることになり、ウェールズ人は法律的にも迫害される立場となる。(雇用されない、ウェールズ人の女性との結婚の禁止、ウェールズ人に起訴されてもイングランド人は罪とならない)

 

1403年には反乱は一部のウェールズ人だけではなく、本当の意味でウェールズ人の反乱に発展する。オワインは西部や南部でも攻撃を開始することになり、戦争はさらに激化することになった。イングランド政府の発表によると、ロンドンにいたウェールズの学生や労働者や職人のほとんどがウェールズに戻って、戦争に参加したと言われている。また、リチャード二世の支持者やフランスの協力を得るなど、反乱軍はますます巨大な者になっていった。

 

反乱の終わり

 

戦争が長引くと反乱軍は徐々に衰退することになる。物資の差が歴然だったので、反乱軍は戦争が長引けば長引くほどに、力を失っていった。ヘンリー四世も攻めないで反乱軍を威嚇するだけみたいな膠着状態を続けて、反乱軍の体力を意図的にすり減らした。反乱軍は敗北が続くようになり、フランス軍も徹底を決めた。オワイン・グリンドゥール自身も、息子が戦死して、妻や幼い子供達も捕虜となり獄死することになる。致命的だったのはイングランド軍がアイルランドからアングルシー島に上陸したことであった。オワインは小規模となっても反乱を続けた。

 

ヘンリー4世が亡くなるとその息子であるヘンリー五世が即位した。彼はウェールズ人に対して恩赦を認めた。同時にリチャード二世を手厚く埋葬することで、ウェールズ人との歪みを正常にするように努めた。

 

一方でオワインは二度に渡って恩赦を受けないことを決めたことで、多額の懸賞金をかけられたことで命を狙われることになった。しかし、誰にも密告されることがなかったので、オワインは捕まることなく、歴史の裏でひっそりと亡くなった。

 

最後に

 

ウェールズは反乱の余波によってしばらくは貧困に苦しむことになりますが、薔薇戦争の終わり頃にヘンリー7世によってウェールズ人の法的な不利は解消されたようです。