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【リチャード1世】獅子心王。戦争と冒険に明け暮れた英雄を簡単解説

 

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王様でありながら戦争に明け暮れたリチャード1世をご存じでしょうか? 10年間もイングランドの王様をやっていたリチャード一世ですが、イングランドに滞在にしていたのは、僅か6ヶ月で、英語を話すことはできなかった。これだけでも十分インパクトがあるので、落第の王様と思ってしまいます。まあ、実際、王様としては落第なんですが、騎士としては優秀でした。とにかく戦が強い。王としての才覚よりも、将軍としての統率力の高さ、死を恐れない騎士道精神を評価された王様です。なかでも圧巻なのがエルサレムを奪還したサラディンとの戦い。リチャードの介入でキリスト勢は、サラディンが率いるイスラム勢にやっと勝利したくらいです。

 

今回は「獅子心王」と呼ばれた騎士王リチャード1世をなるべく分かりやすく解説していきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

即位前

 

1157年9月8日に生まれたリチャード一世には、ウィリアム、若ヘンリー、リチャード(本人)、ジェフリー、ジョンと兄弟が五人いました。正当後継者である長男ウィリアムが亡くなると、兄弟四人によって分割相続が予定されました。リチャードを含め三人の兄弟には土地が与えられましたが、末っ子であるジョンには土地があたえられなかったので、ジョンは欠地王と呼ばれます。とりあえずこの時点では、何ら問題はなかった。

 

しかし、父であるヘンリ二世は次第に権力を握るようになる。教育係を暗殺されたことや、ジョンへの偏愛、若ヘンリーはヘンリ2世に反発して、フランス王ルイ7世の元へ行く。それで、リチャードを含めて他の兄弟は反旗を翻した。このように父ヘンリ二世のジョンへの偏愛、フランス王の介入、母であるエレオノールの助力もあり、父と兄弟の覇権争いは絶えなかった。この父と子の容赦ない戦争は序盤以降ヘンリー2世が優勢で、1174年に和解するが、母であるエレオノールは反逆罪で幽閉生活となった。

 

母についてこちらで紹介しています↓↓↓↓www.chickennoneta.com

 

 

1180年にはフランス王ルイ7世が死去して、若ヘンリーは領土の一部を継承して、リチャードとジェフリーに従うように言った。ジェフリーは最終的には従うが、リチャードは反発した。このために若ヘンリーとジェフリーはリチャードを攻撃することになる。ところが、1183年に若いヘンリーが病死したことで、リチャードがヘンリー2世の継承者となった。ジェフリーはフランス王フィリップ2世の元へ身を寄せたが、試合での怪我が原因で亡くなることになる。これでリチャードの邪魔をする者はいなくなった。

 

はずだったのが、ヘンリ2世は末の兄弟であるジョンに領土を分配するように命じた。これにリチャードは憤り、拒絶した。

 

1188年にヘンリ2世とフィリップ2世の和平交渉の場にリチャードは乗り込んだ。それでフィリップに従い、父を倒すと誓ったのだ。さすが後の「獅子心王」リチャード1世である。街を灰にするような激しい戦いの末に、ヘンリ2世は病気の悪化もあり56歳で亡くなったのでした。1189年にはリチャードがイングランドの王に即位するのでした。
 

 


第三回十字軍遠征

 

即位してすぐに第三回十字軍遠征の要請があった。聖地エルサレムがイスラムの英雄サラディンによって奪還されたのだ。

 

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要請に答える意思を示したリチャードは王庫の金、軍役代納金だけでは足らないので、城、所領、などを売却して資金を集めました。また父が得たスコットランドの臣従をスコットランドの王であるウィリアム1世に1万マルク支払うことで解除を約束した。そこまでするメリットはあるのか、友人が心配するが、リチャードの熱意は本物で「適当な買い手があれば、ロンドンも売る」と言っていたとされます。

 

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1190年にフランス王・フィリップ二世(尊厳王)、ローマ皇帝・フリードリヒ1世(赤髭王)たちと、リチャードは十字軍を率いて、サラディン率いるアラブ軍と戦うことになります。しかし、フリードリヒ1世は進軍途中で、不慮の事故で他界したのでドイツ軍は撤退してしまう。

 

十字軍は兵力を割くことになってしまったが、アッコンでサラディンと戦う。アッコンでの戦いは一年に及び、消耗戦となっていたサラディン軍は降伏交渉に入り、金貨の支払いとイスラム教徒の返還を要求する。ところが「獅子心王」リチャードは短気だったので、実行が遅れたことに怒りイスラム教徒の捕虜を虐殺してしまったのだ。これが原因で「お前と戦えない」とフィリップ二世はアッコン陥落後帰国してしまった。また、アッコンを攻め落としたときに、一番乗りにしていたオーストリア公のレオポルト5世が旗を掲げたが、リチャードは旗を引っこ抜いて自身の旗を立てた。これに怒ったレオポルト5世も帰国してしまったのだ。

 

事実上、十字軍のトップはリチャード1世のみになり苦しい戦いが続いてくことになります。

 

リチャードは王としては落第でしたが、騎士として将軍としての実力は確かなもので、エルサレムを奪還したサラディンと互角以上の戦いを繰り広げた。だが、長期に渡ってイングランドを放置していたので、そもそも王としての座が保持できない事態になり、サラディン側と休戦協定を結ぶことになり、リチャードは帰国することになった。

王の身代金

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リチャードの王位は剥奪される危機となっていた。先に帰国したフィリップやレオポルト5世は、サラディンの人格を褒めて、リチャードを敵のように悪く言ったのだ。これは司令官クラスだけではなく、一般兵達がこぞってサラディンとリチャードを比べたのだ。とりわけアッコンでの捕虜の虐殺はリチャードの評価を下げて、サラディンの騎士道精神を高めた。そんななかで、フィリップ2世とローマ皇帝は結託して、リチャードの弟であるジョンに王位を継がせるように動いた。

 

リチャードの急いで帰国するが、アドリア海で遭難してしまうアクシデントに見舞われる。仕方なく変装して陸地を進むことになるが、オーストリアの通過中に十字軍で戦ったレオポルト5世にリチャードは捕虜にされてしまいました。レオポルトは十字軍での恨みを忘れていなかったのだ。

 

王を解放するための身代金はかなりの高額だったようです。あまりにも高額だったので、お金を一度で払いきることは不可能。後払いとしてもらうかわりに、人質200人を差し出した。また身代金の支払いのために、国民年収の四分の一を納めて、騎士に冥加金、教会には金銀の放出が求められた。1194年にリチャードは解放されることになり、フィリップは「悪魔が解き放たれた」とジョンに手紙を送ったそうです。フィリップは相当、リチャードが嫌いだったみたいです。

リチャードはジョンを屈服させて王位を回復させて、国の政治に関わるかと思いきや、イングランドを大司教に任せて自身は、すぐに戦争に向かう。その後、フランスのフィリップ二世と争い各地を転戦して、奪われた領土を次々と奪い返していった。

 

しかし、英雄の死は唐突であった。1199年3月25日、鎧を脱いでいたとき、リチャードは肩にクロスボウの矢を受けてしまい、その傷がもとで4月6日に41歳で亡くなくなってしまったのです。フィリップの思惑通り、ジョンが王位を継ぐのでした。

 

その後

 

自身を撃ったピエール・バジル が「陛下に父と兄二人に殺されました。私をどうぞ殺してください。敵を撃ったことは後悔していない」と答えたので、「正当な行為だから許す」とリチャードは言った。なのでリチャードは自身が死んでもピエールを処刑することは許さないと、報奨金まで払ったそうです。ですが、リチャードが亡くなると部下達はピエールを皮剥ぎの刑に処した。

 

リチャード死後に即位した弟のジョンはあまりにも能力不足であったことで評価が低い王様です。とは言え、リチャードが戦争に明け暮れて、多額の身代金を払ってからの即位もあったので、かなり苦労したのではと思う。しかし、フランスのフィリップ2世に攻められたイングランドは全ての領土を奪われてしまったことは養護はできない。ジョンはとにかく戦争で全く勝てなかったので、「腰抜け」とかガンガン言われたそうです。しまいには「マグナ・カルタ」によって王様の権限を制約されてしまいました。

 

 こちらでも少しだけジョンを紹介しています。

 

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まとめ

 

リチャード一世には数々の逸話があります。英語(イングランドの言葉)が話せない、自らの剣をエクスカリバーと読んでいた、同性愛者を疑われていた(庶子がいる)など個性の強い王様やと思いました。遺言によって遺体はヘンリー2世が眠るフォントヴロー修道院に、心臓はルーアン大聖堂に、脳と臓器はシャルー修道院に送られたそうです。なんだか死ぬ最後の最後まで王としての特権をフル活用して、人生を謳歌した人物だと思いました。

 

最後までありがとうございました。

 

 

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