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織田信長がよくわかる10の事柄

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織田信長とは。簡単に解説

 

常識に囚われない奇抜な考えと、大胆な行動力を持って時代を掻き回した人物であり、戦国時代を代表するスター的な存在でもある。小さな国に過ぎない尾張の大名だったが、桶狭間の戦いで今川義元を討つことで天下に名が知れ渡るようになった。その後天下布武(天下統一を宣言)を掲げて、室町幕府を滅ぼし、最強武田軍団も長篠の戦いで破り、天下を目前にした。ところが、1582年に中国地方へ領土を拡大を考えていた頃に、明智光秀の離反にあって本能寺で討ち取られた。

 

幼少期

1534年に尾張の戦国大名、織田信秀の子供して生まれた。長男ではなかったが、正妻の子供だったので正式な長男として育てられることになる。父からの期待が大きかったようで、幼少期の段階で那古野城を譲り受けている。また、人質であった徳川家康とは幼馴染のような関係で、知り合いだったのではとされる。(根拠となる資料はない)青年期に差し掛かると「尾張の大うつけ」と呼ばれた。派手なひもで髪を結び、腰にひょうたんをぶら下げて、好き勝手に振る舞っていたとか。学問を真面目に受けることはなく、食事の席では人の食べ物を横取りするようなこともあったとされる。ただ、身分にこだわらず町の若者と遊んでいたとされ、武士の子供しては異端であり、若い頃から常識に囚われない人物だったことがよくわかる。

 

桶狭間の戦い

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父の突然の死、弟の裏切り、課題を次々とクリアして尾張を統一した信長でしたが、1560年に隣国である三河と遠江の支配権を確立させた駿河の今川義元に攻められた。今川は2万5000に対して織田が用意できたのは僅か5000。国境付近の砦を攻められた信長でしたが、援軍の要請を無視して寝たそうです。大軍の進軍に慌ただしい城内での、この信長の行動に誰もが呆れた。しかし、信長にも考えあった。援軍を送れば砦は守ることができるが、その勝利は一時的なものに過ぎない。信長は今川本陣を直接叩くつもりだったのだ。2000人の精鋭を引き連れた信長は、今川に油断を誘い、悪天候、絶妙のタイミングでの奇襲によって、今川義元を討ち取ることに成功したのだ。

 

上洛

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1565に時の将軍が暗殺される事件があった。将軍の弟であった足利義昭は幽閉生活から開放されて将軍候補となり、足利の再興を目指すことになった。そのために自身を奉じて上洛する大名を求めた。朝倉を頼ったが、断られてしまい朝倉の家臣であった明智光秀に、信長を紹介されることになる。美濃を平定したばかりだった信長は、義昭の依頼を受けて上洛を開始した。信長を行く手を阻む者もいたが、岐阜から出発して僅か20日で上洛を果たして、足利義昭を征夷大将軍にした。

 

浅井長政の裏切り

1570年に足利義昭を奉じて上洛した信長は、力を誇示するために各国の大名に上洛を促した。ところが朝倉が再三の上洛を無視したので、徳川家康と同盟して朝倉の拠点を次々と陥落させる。ところがまさかの出来事が起こる。同盟関係にあった浅井が裏切り、織田・徳川連合の背後に挙兵したのだ。浅井長政は信長の妹であるお市を娶っており、両者は親交が深かった。だが、浅井家は朝倉家とは縁が深く、板挟みの状態だったのだ。長政は父の意見もあり、苦渋の決断で信長を裏切る道を選ぶことになる。木下秀吉(豊臣秀吉)と明智光秀が殿を務めたことで、窮地を脱した信長は、軍を立て直して姉川の戦いで再度、朝倉・浅井軍と戦い勝利した。その後、一乗谷の戦いで朝倉に壊滅的なダメージ与え、小谷城の戦いでは浅井長政を討ち取った。

 

武田との戦い。大量の火縄銃

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足利義昭との関係が悪化した信長は挙兵されることになる。これに応じた武田信玄は上洛を開始した。ところが武田信玄が急死して上洛は頓挫する。その間に信長は、反勢力であった朝倉、浅井を破り、将軍足利義昭を京都から追い出して天下布武を体現した。そんななかで武田を継いだのは、四男であった武田勝頼である。戦国最強と謳われた武田騎馬隊を率いて進軍した武田勝頼は、長篠城を包囲した。これに反応したのは徳川で、織田と連合して、武田と戦うことになる。徳川は5千で、織田は3万対武田1万5千。自ら軍を率いた信長は、数が有利でも焦って進軍はしなかった。最強武田騎馬隊に対抗するために、三千の火縄銃を用意した信長は、火縄銃を活かす戦場を準備する必要があったのだ。しかし当時の火縄銃は連射が不可能なので、射手、整備、装填で三人一組で銃を撃つ「鉄砲三段撃ち」と言う形を取らなければ火力を最大限に活かすことはできない。そこで、自軍で裏切りが出たなどの嘘を流して、あたかも自軍が弱っていると武田を騙すことで、火縄銃を活かせる野戦に戦いの場を移動させた。戦いは織田・徳川連合の圧勝であった。

 

本能寺の変

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1582年に本州中央部の殆どを侵略した信長は、中国地方の毛利輝元を攻めるように秀吉に指示していた。天下統一は目前、秀吉に要請に答えて信長は自ら戦地に向かい、明智光秀も援軍として向かわせた。途中、京都の本能寺で休憩を取っていると、朝方に敵襲を受けることになる。その敵は信頼していた重臣である明智光秀だったのだ。油断していた信長は百人の兵しか率いておらず、敵は1万5千。圧倒的な兵力差を覆すことはできるわけはなく、信長は自害した。享年49。

 

性格

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「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」これは織田信長の性格を表した句なんですが、ここから察すると信長は残酷な性格だったように思います。実際、比叡山焼き討ち事件では、女、子供を含んで何千にも殺害したとされている。登用に関しては能力が高ければ、誰でも採用みたな感じで、身分の低かった豊臣秀吉や、朝倉家に仕えていた明智光秀の能力を認めて自身の幹部している。このように信長は目標を達成するためなら、かなり合理的になれる人物であったとされる。ただ、秀吉とその正妻ねねが喧嘩したときは仲裁に入ったりと、部下への配慮も忘れない人物であったことも忘れてはならない。

 

明智光秀と織田信長

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なぜ明智光秀は離反したのだろうか?本能寺の変の一年前に書き残された記録には「一族家臣は子孫に至るまで信長様に恩を忘れてはならない」と書き残している。明智光秀は元々朝倉の家臣だったが、斉藤の元を辿って織田に仕えることになり、そこから出世させてもらった恩を決して忘れてはいなかった。ところがたった一年後には、本能寺の変を起こしている。色々な説があるのですが、最も有力とされる四国説をご紹介しようと思います。信長は四国の長宗我部元親と長い間同盟を結んで、共通の敵である三好と戦っていた。ところが信長は長宗我部元親との同盟を破棄して、三好と組んで長宗我部元親に侵攻すると言い出したのだ。これに激怒したのは明智光秀だ。長宗我部元親との交渉は光秀が担当していたからだ。このことで信長と光秀は険悪となり、本能寺の変に繋がったとされる。

 

家紋

 

織田信長は7つの家紋を使っていたようです。

 

織田木凪(おだもっこう)

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一番オーソドックスな家紋。子孫繁栄を意味するようです。

 

揚羽蝶(あげはちょう)

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元々は平家の家紋。平家が天下を統一すると言われていたから使ったらしい。

 

永楽通宝(えいらくつうほう)

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中国の通過を元に使った家紋。

 

五三桐(ごさんのきり)

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皇室の家紋。足利義昭が皇室からもらったものを信長が頂いた。豊臣秀吉も使っていた。

 

丸に二引両(まるににひきりょう)

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これも足利義昭から頂いた家紋らしい。

 

十六葉菊(じゅうろくようぎく)

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これも皇室の家紋。信長さんは皇室から、かなりの信頼を得ていたようです。

 

無文字(むもじ)

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「無」を崩した文字。禅の教えを参考したそうです。

 

状況に応じて使い分けていたようです。

 

さいごに

 

信長に関する情報をまとめさせてもらいました。皆様のなんらかの役に立てたら幸いです。最期までありがとうございます。