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戦国最強の軍師は? 日の本一の天才軍師を10人を紹介!!

軍師と言えば戦争を有利に進めるために、戦略や作戦を考えるイメージがあると思います。しかし、仕事はそれだけではなく外交や内政、人によって城の建設など多岐に渡って、活躍する知識人を指していました。ただ、戦国時代に「軍師」って言う言葉はありませんでした。じゃあなんて言われていたかと言うと、特に名称はなかったようで、ただの家臣に過ぎなかったようです。なので、家臣の位置付けされるだけでも、かなり優秀だったことがわかります。

そんな事はどうでも良くて、今回は戦国最高の軍師をご紹介したいです。現代まで語られる軍師達が、どうして軍師と評されることになるのか?

軍師の視点から戦国時代を掘り下げて行けたらと思います。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

黒田官兵衛

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恐らく戦国最強の軍師は、黒田官兵衛だろう。織田信長もとい豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。その卓越した智謀は天下人にはなくてはならないもので、秀吉が天下を統一できたのも、官兵衛の進言があったからだ。

明智光秀が謀反を起こした時、秀吉に「中国大返し」を立案したのは、官兵衛だったりする。毛利との戦争中であった秀吉は、官兵衛の智謀によって休戦協定を結ぶことに成功。さらには信長の「死」を隠蔽したことで、中国大返しの実現と、明智光秀を容易く討ち取った。

しかし、余りにも有能であったからこそ、天下統一後の秀吉に警戒されることになる。与えられた領土が少なかったのだ。

秀吉は「わしの死後に天下を統一するのは徳川か黒田だろう」「官兵衛がその気になれば、今からでも天下を奪われる」「あいつに100万石も与えたら、途端に天下を統一してしまう」と官兵衛を評価した。優秀すぎるのも、考えようだ。

 

太原雪斎

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今川義元に仕えた軍師で、今川家の最盛期は太原雪斎がいてこそのものだった。幼い頃に仏門に入門した雪斎は、京都での修行後に今川5兄弟の義育することになる。

その中に今川義元がいた。長男が亡くなったことで、今川家では家督争いを引き起こす。雪斎の知恵を借りた今川義元は、家督争いに勝利して家督を継いだ。

義元から信頼された雪斎は、内政、外交、軍事で大きく貢献して「黒衣の宰相」と呼ばれることになる。尾張の織田家が西三河に侵入したことをきっかけに、雪斎は大軍を率いて尾張に進行した。織田を圧倒した雪斎は、織田家の長男を生け捕りにして、松平竹千代(徳川家康)を人質交換する。

外交面でも、「甲相駿三国同盟」によって、武田、北条、今川の同盟にも成功している。これによって安心して尾張に侵攻することが可能になった。その活躍ぶりから「桶狭間の戦い」で雪斎が生きていたら、義元は討ち取られることはなかったと言われることになる。

 

太田道灌

 

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戦国時代よりも少し前に活躍した天才軍師で、その有能さ故に主君に暗殺されてしまった。太田家は代々扇谷上杉家の家宰(主君に代わって家を取り仕切る役職)を務める一族で、道灌も幼い頃から学問に励んだようです。

家宰となると、上杉家の傍流に過ぎなかった扇谷上杉家を繁栄させた。多方面で活躍するその才能から、城作りの名人と評価されて江戸城の建設にも関わったようだ。

応仁の乱が勃発すると、各地でクーデターが起こる。この激動の時代でも道灌は素早く対応して、扇谷上杉家は更なる繁栄を実現させた。ところが主君である扇谷上杉定正は、太田道灌を対して嫉妬やら危機感、自身を軽んじていると判断して、暗殺してしまったのだ。

道灌は自身が死ねば、扇谷上杉家は滅びると、言って斬られたとされている。事実、北条早雲によって扇谷上杉家は滅びた。

 

真田昌幸

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真田幸村の父親で、徳川の大軍を二度も退けた智将。長男として生まれたわけではなかったので、真田家を継ぐ権利はなかったとされる。

武田の優れた将として評価されていたが、武田が織田・徳川連合に敗北すると状況が一変する。

織田家に信繁(幸村)を人質に差出して、従属することになるが、その織田信長が討死してしまう。信長の死によって混乱した織田配下の武将は、治めていた旧武田領土を放棄して尾張周辺に帰ってしまったからだ。

昌幸は、上杉、北条、徳川と表向きでは従うが、領土奪還を目指して暗躍することになる。

1585年には徳川家康と領土問題が勃発してしまい「第一次上田城合戦」が開戦する。おおよそ四倍の徳川軍に対して野戦は不利であると考えた昌幸は、籠城戦によって徳川の進軍をわざと許すと、伏兵から水攻めで返り討ちにした。

第二次上田城合戦では息子の幸村と共に、関ヶ原の戦いへの増援である大軍を退いて、到着を大きく送らせるが、西軍の敗北によって領土は奪われて、罪人となった。十年後には流刑先である九度山で亡くなることになる。

 

安国寺慈恵瓊(あんこくじ・えけい)

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 毛利家の軍師で外交の達人である。その智謀の高さは、織田信長の死すら予言していたとされる。

信長の死によって、「中国大返し」を企てた黒田官兵衛と直接交渉したことでも有名で、毛利家が滅亡したら毛利の子、家臣の面倒を見て欲しいと願い出た。

これは秀吉が天下を取ることを予想していたからだと思われる。秀吉の天下統一後に、毛利家が正式に臣従する場でも恵瓊が担当した。

この頃から秀吉に気に入れられていたようで、大名として朝鮮出兵に参加したようだ。

だが、関ヶ原の戦いが命運を分けた。恵瓊は得意の外交交渉で、毛利輝元を西軍に迎え入れることに成功したのだ。しかし、西軍は敗北。

出陣していた恵瓊は捕らえられて処刑された。

 

竹中半兵衛

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黒田官兵衛と並んで「両兵衛」と評された戦国を代表する軍師の一人。

竹中半兵衛の最も有名なエピソードは、稲葉山城をたった16人で乗っ取ってしまったことだろう。

斎藤家の軍師だった半兵衛だったが、当時の主君は遊んでばかりでダメな人物だった。そんな主君を諫める目的で、たった16人で稲葉山城を乗っ取ってしまったのだ。

この情報をいち早く仕入れた織田信長は「城を譲ってくれるなら、美濃を半分渡す」とスカウトするが、半兵衛からしたら主君へのバツでしたことだったので断った。

一年後には城を斎藤家の返却して、自身は隠居したそうだ。

それでも半兵衛の才能を諦めることができない織田信長は、羽柴秀吉に説得を頼む。

一説には7回も会いに行って、やっと軍師として招き入れることができたそうだ。

しかし、竹中半兵衛は病気によって短命だった。

 

小早川隆景

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父である毛利元就の頭脳を受け継いだ智将で、豊臣政権になると徳川家康や前田利家と並んで「五大老」に数えられた。

本家である毛利家のために小早川家の養子となり、毛利家の当主である輝元を支えた。

羽柴秀吉を大将にして織田陣営と領土を奪い合うが、隆景は劣勢であることを認めて、安国寺恵瓊を通じて秘密裏に和睦の話を進めていた。

そんな中で織田信長が討死にして、秀吉は「中国大返し」を計画する。

毛利家では休戦なんかしてないで攻めるべきと意見があったが、信長の死は不確かであり、真っ向からやりあっても秀吉に勝てる保証もない。なら秀吉に恩を売るべきであると考えた。

結果的に秀吉の天下取りに協力することになる。また、毛利家の弱体化を考えた秀吉は、出来の悪い秀秋(後の小早川秀秋)を養子にするように言ったが、秀吉の都合で捨てられる秀秋を可哀想に思った隆景が引き取ったとされる。

安国寺恵瓊のことは警戒していたようで、亡くなる前に恵瓊に気を付けろと遺言を残していたらしい。危惧していたことは現実となり、関ヶ原の戦いで敗北した恵瓊は処刑され、小早川家も滅亡した。

 

片倉小十郎

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伊達政宗の軍師で、政宗にとってはなくてはならない存在であったとされる。

政宗は15歳で初陣を経験するのだが、10歳上の小十郎は頼れる存在だったことだろう。

政宗が出陣するときは、必ず小十郎が寄り添って戦った。とある戦いでは、戦前に敵軍と交渉して離反させたりと、智将としても活躍した。また、政宗に豊臣政権に従うように説得したのは小十郎である。

政宗は破竹の勢いで会津を攻略していくが、関白となった秀吉に領土を返還して出兵するように命令される。政宗は面白くないのでつっぱねたそうだ。

だが、冷静であった小十郎は不明確であった豊臣軍を調べ上げて、豊臣傘下に入るべきであると政宗に進言した。

このことで伊達家は延命することになる。同時期に従わなかった北条家が、壊滅されていることを考えると英断だったと思われる。

 

直江兼続

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愛の兜で有名な直江兼続は、上杉景勝の執政として活躍した人物で、主君と同様に近い実権を握った。

幼少の頃から優秀で上杉謙信に期待されていた。後に上杉家の主君となる景勝とは幼なじみであり、兄弟同然に育った。

景勝が「親方さま」と呼ばれるに対して兼続は「旦那」と呼ばれたそうだ。 新田の開発によって内政の安定化させたことで有名である。豊臣政権時代は秀吉の下で存分に力を振るったようで、朝鮮出兵にも参加した。

秀吉からスカウトされるが、「景勝以外を主君にするつもりない」と断ったそうだ。

秀吉死後には徳川家康に対し嫌悪を示して、直江状(家康への挑戦状)を送りつけたとされる。こうして関ヶ原の戦いの前哨戦が開戦したとか。結果的に関ヶ原の戦いは敗北したので、上杉家は上洛して家康に謝罪することなる。

上杉家は存続を許されることになるが、領土はかなり小さくなった。

 

石田三成

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 関ヶ原の戦いで西軍の事実上の大将として、大敗北に喫した武将なのでダメなイメージが強いと思う。

東軍の戦力差は誰から見てもハッキリしていたが、プライドの高さから真っ向から戦うことを望んだ。

家康と違い人望がなかった(家康はスカウトしまくっていた)島左近に夜襲や家康暗殺を打診されても断る、戦が始まると裏切り者に対して最大戦力である立花宗茂を向かわせた(裏切り者の戦力は小さい)など、プライドの高さから感情的になり過ぎたことが敗北に繋がった。

処刑される時ですら、家康がみず簿らしい格好良くないと気を使って服を送られたそうだが、「家康が上様だなんて認めない」と着ることを拒んだ。

最後までプライドの塊だった。もし、三成が余計なプライドを捨て、手段を選ぶことなく勝つことに執着していたら、関ヶ原の戦いの結果は変わっていたかも知れない。

それで本題ですが、三成は太閤検地に携わったり、兵糧の準備(戦の規模が大きくなると大変だった)など秀吉の天下統一に裏から支えたことで評価されたようだ。内政官としてはかなり優秀だった。

 

 

 

 

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