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アレクサンドロス大王がよくわかる10の真実と伝説

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アレクサンドロス大王とは? 簡単解説

古代のマケドニア王で、20代のうちに巨大帝国を築いた伝説的な人物。短い生涯でヨーロッパからインドに至るまで広大な領土を征服したことで、後の英雄であるカエサルやナポレオンも憧れたとされる。二十歳で即位したアレクサンドロスは、東方遠征を開始して当時の最大国家「ペルシア」を相手に不利な状況であったのにも関わらず、勝ち星を重ねていくことで、巨大帝国を築くとに成功して東西の文化融合を実現した。ところが志半ばで、急死することになり、帝国は瓦解してしまう。

 

アレキサンダーは英語読みで、イスカンダルはインドでの読み方。

東方遠征

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紀元前334年から紀元前323年までに、ペルシアの領土への進軍を開始した。元々は父であるピリッポス二世が、国の貧富の差が広がることを恐れて、領土を拡大して農民に与えることが目的でした。即位したアレクサンドロスは帝国の拡大に力を注ぎ込んだので、一度も母国であるマケドニアに帰ることはなかった。主な敵はペルシャで、マケドニア軍が4万人前後に対して、ペルシア軍が12万、最大で20万人と国力の差は歴然であった。それでも敵の主要都市を次々と落として、ペルシアを壊滅に追いやったのだ。

 

どうして広大な領土を得ることを目的にしたのか不明である。一説には「名誉欲」とされる。自身の名誉もありますが、血に飢えた兵士達を従えるためにも戦いが必要だったのかも知れません。

 

ヘレニズム文化

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ペルシアを征服したアレクサンドロスは、領土の管理に力を入れるようになる。その一環でペルシアの優秀な人材を積極的に採用した。また、ペルシアの文化を取り入れることで、ペルシア人からの信頼を勝ち取ることを考えた。一説にはペルシアとの長い戦いのなかで、ペルシアの高度な文化に感激したからだとされる。こうして、ギリシア文化とオリエント文化が融合して「ヘレニズム文化」が誕生した。

 

文化の融合としてアレクサンドロスは「スーサの合同結婚式」を行った。これはマケドニアの兵士とペルシアの女性による結婚式で、アレクサンドロスもダレイオス三世の娘と結婚することになる。ところが、マケドニア側の大半が強引に結婚させられることになり、不安の声があがった。

 

容姿

 

身長は低かったようですが、金髪でオッドアイ(左右の目の色が違う)だったそうです。戦場では名馬ブケパロスに跨がり、陣頭指揮を取っていた。さらに自身も敵将を討ち取るなどの活躍をする人物だったので、カリスマ性は抜群。誰が見ても逸脱した人物に感じたのではないでしょうか?

 

両親と先祖

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父であるピリッポスはギリシアの弱小国であったマケドニアを強国にまで成長させた手腕で。ヘラクレスの血を継ぐ名家の出身である。母のオリュンピアスはギリシア北部のロッソイ王の娘でアキレウスの子孫と言われている。つまりアキレウスは「ゼウス」の子孫なのだ。アレクサンドロスが即位するときも母によって、「ゼウス」の息子であると噂が広めたみたいです。アレクサンドロス自身も、先祖を意識していたようで、アキレウスに遺体を戦車に繋いで走り回る伝説があるならやってみたり、ヘラクレスが落とせなかったとされう砦を陥落させた。

 

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家庭教師

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哲学者であるアリストテレスの元で学ぶ機会があった。アリストテレスは「万学の祖」と言われた哲学者で生涯で550冊も本を出版した秀才です。アレクサンドロス自身も師匠として尊敬していたようで、「高貴に生きることはアレクサンドロス大王から学んだ」と言葉を残している。わざわざ名が知れた哲学者を家庭教師と招き入れるくらいですから、親からの期待もかなり高ったと思われる。

 

ゴルディアスの結び目

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二十歳頃にはアレクサンドロス大王はとある伝説を残したとされる。ペルシア領を占拠したアレクサンドロスは、ゼウスの神殿を訪れた。そこで祀られている戦車には「ゴルディアスの結び目」と呼ばれる複雑な縄が結ばれていた。伝説では「この縄を解いた者はアジアの支配者になる」と言われていて、それを聞いたアレクサンドロスは、剣で縄を切断してしまったのだ。「運命とは伝説でもたらせるものではなく、自身の剣で切り開くものである」とアレクサンドロスは高らかに宣言した。

 

なぜ強かったのか?

 

二十歳頃にアレクサンドロスは初陣する。それから王になり大遠征が終わる十年間で負けはなかった。それを可能としたのは、単純に当時のマケドニア軍が間違いなく世界最強の軍隊だったからだ。素朴な食生活を好むマケドニア人は健康的で質のいい兵士であり、しっかりとした訓練もされていたので統率力が高った。ファランクスと呼ばれる伝統的な長槍を活かした兵の編成を改良して、臨機応変に対応することを可能とした。さらには、当時としては先駆けでもあった投石機などの導入や、兵糧攻め、ヒットアンドアウェイの戦術であったり、卓越した戦法を駆使していたようだ。アレクサンドロスは自身も兵士であり、敵将を討つ活躍を見せた。前線へ積極的に行くので自身が大怪我をすることもあったが、勇敢な王の姿に部下の士気を上昇、臨機応変な指示も可能とした。これら特異な要素を持っていたからこそ、マケドニアは最強であり、アレクサンドロス大王は生涯無敗であった。

 

性的指向

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大王にへファイスティオンと言う名前の親友がいました。彼とは幼馴染であり側近でもあった。この二人は肉体関係があった可能性が高いそうです。当時は得に男同士が関係も持つことは珍しくはありませんでした。遠征の忙しさもあったからでしょうけどアレクサンドロスは29歳で初婚を経験したのも、へファイスティオンを愛していたからかも知れません。へファイスティオンは病で亡くなるとアレクサンドロスは治療をできなかった医師を殺害して、へファイスティオンを神として崇めるように指示をした。

 

死因

 

アレクサンドロスは10日間も高熱にうなされて、紀元前323年に亡くなりました。実は死因については断定することはできないとされています。高熱にうなされたことから、西ナイル熱に感染して亡くなったとされる説もあれば、暗殺説もあるようです。暗殺された理由ですが、酒癖が悪く放火や部下を斬りつけるなんてこともやっていたことや、上記でも説明しましたが、オリエント文化の擦り付けが原因とされています。

 

後継者

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アレクサンドロスは「最も強い者が帝国を継承せよ」と言葉を残して亡くなったので、彼の死後に帝国は混乱して、後継者争いが勃発した。後継者は争いは二人の将軍が覇権を争うことになる、一人はカッサンドロスで、彼はアレクサンドロスの異母兄弟を即位させる考えだった。もう一人のポリュペルコンはアレクサンドロスの死後に生まれた息子アレクサンドロス4世を即位される考えでした。後継者争いは、母であるオリュンピアスまでを巻き込むことになっていく。この大規模な争いの勝者はカッサンドロスであった。カッサンドロスはアレクサンドロスの母、子供を含めて血筋を全て殺害して、自身が即位するのでした。

 

さいごに

 

アレクサンドロス大王をなるべく簡単にご紹介したくて、このような形を取らせてもらいました。

 

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