パルミラ王国(エジプトらへん)のゼノビアは、ローマからの独立を目指して自らが戦場に赴き戦ったことでウォリアークイーンとまで言われる戦う女王です。彼女はその功績から、「オリエント世界で屈指の女傑」と評価されることになります。
ローマすら驚嘆させるような戦術を展開する頭脳、ライオンやヒョウを狩っていたなどの記録から逞しい武人を想像させますが、歯は真珠のように白く、大きな黒い瞳は不思議な魅力があった。彼女は「絶世の美女」と謳われたクレオパトラに劣らない美貌を持っていたと、歴史家は記述している。
つまり、歴史上でも屈指の美人なんですね。今回は絶世の美女でありながら強い女王ゼノビアをご紹介していこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。
女王以前
ゼノビアは230年〜240年頃にパルミラのアラブ系商人の子供として生まれたとされるが、よくわかってはいないようです。母親はギリシア人だった説もあり、ゼノビアは古代エジプト語が堪能であったことからエジプト出身なのではと言う説もあります。いずれにしても、エジプト語以外にも、ラテン語、ギリシア語、シリア語、アラビア語を理解して、哲学や文学、歴史など教養もあったので、裕福な家柄でしっかりとした教育を受けたことは間違いないと思います。
ゼノビアの名前がはじめて資料に出るのは258年の2度目の結婚のときである。パルミラの有力者であったオデナトゥスとの再婚することになったのだ。オデナトゥスはペルシアに立ち向かい活躍した名将で、ゼノビアは夫に同行してペルシアとの戦場に向かっていた。また、夫とライオンやヒョウ、熊の狩りをしていたと言う。活発な女性だったようで、騎馬も上手かったとか。
女王降臨
267年にオデナトゥスと、前妻の子供達が殺害された。ゼノビアは最初の夫との間に生まれた子供を後継者に指名しつつ、自身と共同統治と言う形を取った。自らをエジプト女王クレオパトラの血統であると自称して、女王として君臨したのだ。実はオデナトゥスの事件に野心家であるゼノビアは関与しているのではないかと言う説もあるそうですが、事実はわかりません。
ローマは北方の異民族の侵入などで統治がままならない状態であった。そこでゼノビアは「異民族の侵攻からローマを守護する」と言う名目でシリア、エジプトを自ら占拠し、東地中海を囲う大勢力が誕生した。あっという間に巨大国家を創り出したゼノビアはエジプトの女王を自称して、ローマからの独立を宣言した。
ローマとの戦い
270年にローマ皇帝がアウレリアヌスになったことで北方の移民とのゴタゴタが解決して、パルミラ王国への進軍を宣言した。アウレリアヌスはゼノビアに服従するように脅すが、ゼノビアは戦う意思を示したことで、272年にはローマとパルミラは戦争が始まった。
混乱から回復したローマ軍は強く、パルミラはあまりにも脆く弱かった。ゼノビアは自ら軍を率いて陣頭に立つことで味方を鼓舞するが、2回戦い、2回とも大敗することになる。
ゼノビアはパルミラに戻り籠城することで、ローマ軍が力尽きることを待った。砂漠の城、自信のあった防御体制であったが、ローマは兵站に優れていたのでゼノビアが思うような展開にはならず。しかもエジプトを占拠したローマ軍もパルミラに向かってきた。勝ち目はないと判断したゼノビアはペルシアへ逃亡することを決断した。
その途中にローマ軍にゼノビアは捕まり捕虜となり、パルミラ王国も瓦解することになった。
その後
ゼノビアは生と死を選ばされる。側近達が処刑されるなかで、ゼノビアは生きる選択をした。この選択によって、ゼノビアはローマに連れ去られて、アウレリアヌスの凱旋式で黄金の鎖で縛られてローマ市内を引きずり回されることになります。
凱旋後にゼノビアはイタリアに渡り高級な別荘を与えられて社交界で活躍するなど贅沢な暮らしをした。ローマ議員と再婚、その娘もローマの金持ちと結婚したとか。波乱の人生であったゼノビアですが、長生きをしたようで、静かに余生を過ごしたようです。
最後に
と言う感じで美しくつよい女王ゼノビアの紹介でした。古代の戦士なので、どこまで事実かわかりませんが、歴史に残るかっこいい女性の紹介でした。
最後までありがとうございました。