ミシェル・ネイはあのナポレオンにして「勇者の中の勇者」と言わしめた猛将で、負傷しながらも、自ら先頭に立ちフランスのために戦った英雄です。ナポレオンには多くの有能な部下がいましたが、そのなかでも死を恐れないネイの戦いぶりは、予測不能な存在として敵からも危険視されました。
しかし、ナポレオンへの忠誠心が強いかと言うとそうでもなく、あくまでもフランスのために戦ったことで、処刑されてしまいます。逃げることも可能だったのに、処刑される事を選んだネイは「フランスを裏切ったことはない」的なことを最後に言い残しました。
今回は英雄でありながら処刑されることになったミシェル・ネイの生涯を解説していこうと思います。
生涯
生まれ
ミシェル・ネイは1769年に樽職人の次男として生を受ける。
父は七年戦争を兵士として参加した経緯のある人物であったが、平民の身分では軍人として成功することは限りなく困難なことであった。父の意向もあって高等教育を受けたネイは、法律事務所で働くが、すぐに辞めてしまい19歳で軍隊に入隊した。
体格が良く、勇気に溢れたネイは戦場で活躍していくことになる。運が良かったことに、フランス革命によって貴族出身の軍人が次々と除隊したことにより、父が危惧した出世の道が切り開くことになった。24歳になった頃には、500人の騎兵隊を任されることになる。
ネイの先頭に立って勇敢に戦う戦闘スタイルは出世していくにつれて、真価を発揮した。常に変わる戦況で的確な指示をすることができたからだ。しかし、二十代のうちに5度も負傷することになど、常に危険と隣り合わせであった。
ナポレオン傘下
30歳で将軍になっていたネイは、ナポレオンにもその名前を知られるようになり、ナポレオンの部下となった。32歳になると、ナポレオンの嫁であるジョセフィーヌの紹介で結婚も経験した。
1804年にナポレオンが皇帝に即位すると、18人の元帥に選ばれ、晴れてフランス元帥の一人となった。
この頃にスイス出身の傭兵でアントワーヌ=アンリ・ジョミニと出会う。ジョミニは卓越した戦術理論を持った軍略家で、そのレベルの高さを評価したネイは、彼を支援することにしたそうだ。
第六師団を率いたネイはこれまでのように、先陣を取って戦うことになる。しかし、ネイは独断で進軍するタイプの武将だったので、これまでの自分の意思でコマを進めてきたナポレオンからしたら不服に感じたようだ。
ただ、敵からしたらネイ元帥は何をするからわからない危険因子となった。フリートラントの会戦では先頭で一歩も退かずに前進を続けたことから「あの男は獅子だ」とナポレオンに言わせた。
スペイン攻略戦はナポレオンの兄ジョセフのの即位が目的だった。この戦いで同じタイプであるランス元帥を共闘して、スペインを攻略していく。ただ、最も評価されたのはマッセナ元帥であった。マッセナが軍事司令官となり意見が合わなく、対立したネイは、命令違反をとして解任されてしまう。ネイが自身の潔白を訴えたことで、マッセナが解任することになった。
ロシアで英雄となる
フランスに呼び戻されたネイの次の戦場はロシアであった。
ナポレオンを知る人ならこの戦いは歴史的な敗北であったことはご存知だと思う。焦土作戦と冬将軍、ロシア軍の十八番とも言える撤退作戦にフランス軍は戦力を削られて撤退を余儀なくされた。エースであるダブー元帥は精神衰弱で機能しない。このピンチで活躍したのが、ミシェル・ネイである。
殿を任されたネイは自らも小銃を持ち懸命に戦ったと言う。ネイが率いた第3軍は元々四万人だったが、フランスに帰還した頃には僅か100人だった。
この奇跡的な生存にナポレオンから「フランスには勇敢な戦士がたくさんいるが、ネイこそが勇者の中の勇者だ」と称賛した。
ルイ18世に仕える
ナポレオンはロシアでの敗北から、黒星を積み重ねるようになりついには退位を迫られる結果となった。
王政復古によってルイ18世が即位して、ネイは王に忠誠を誓った。
ところがこれまで亡命していた貴族が強気な態度を取ったことで、軍人の立場を悪くなっていく。そんな中でナポレオンがエルバ島から上陸してきて、フランスに向かってきていると、情報が流れる。
ネイは「鉄の檻に獲られる」と、ナポレオンを捕まえると自ら志願した。しかし、率いた兵は言うことを聞かずに、ナポレオンに寝返ってしまった。これにはネイも、空気を読んでナポレオンの配下となった。
ナポレオンが復帰したことで、ルイ18世の兵力も瓦解する。圧倒的なカリスマ性で兵を集めたナポレオンは再び戦場に返り咲いた。そして、運命のワーテルローの戦いが開戦した。
この戦いでのナポレオンは既に全盛期を過ぎていた。戦闘中に居眠りをするなど、かつての戦いぶりはできなかったのだ。事実上、軍事司令官となったネイも突撃しかできないような脳筋状態で、判断を誤り多くの兵力を失う事になる。
ナポレオンに救援要請を何度もしたが、ネイの優柔不断な態度が原因で、ナポレオンからの信頼はないに等しかった。要望が通った頃には手遅れな状態であった。
処刑
ワーテルローの戦いで敗北したネイの地位はとても危険なものであったが、亡命をすることなく法廷に出頭した。再び権力を取り戻したルイ18世は裏切り者であるネイを反逆罪として、銃殺刑が言い渡した。この処刑はルイ18世の個人的な恨みであると言われている。
「これが最後の命令だ。私が号令を発したらまっすぐ心臓を狙って撃て、私はこの不当な判決に抗議する。私はフランスのために百度戦ったが、一度として祖国に逆らったことはない」と言葉を残したネイは、1815年12月6日に亡くなった。
ミシェル・ネイは裁判の結果に不服を申し立て、投票によって処刑が決まることになったが、ほとんどの人がネイの活躍を知らなかったようだ。後にネイの活躍を知った投票者は、活躍を知っていたら賛成しなかったと答えたそうだ。