今回は弱小国プロイセンをヨーロッパ随一の強国にまで急成長させて「大王」とまで言われたフリードリヒ二世をご紹介していこうと思います。
そもそもプロイセンってどこやねんって思う人もいるかもしれませんが、現代で言うところのだいだいドイツ辺りです。
軍事的な才能だけではなく、芸術への関心も強く多才な人物でもあった。まあ、才能がある王様なんてよくいますが、フリードリヒ二世の一番スゲーところは「君主は国家の第一下僕である」と啓蒙主義であったことでしょうか。つまり人格にも優れていたんです。自分で書いといてなんですが、本当に人格的に優れていたかは疑問ですが。
と言うわけでざっくりフリードリヒ二世をご紹介していこうと思います。
最後までよろしくお願い申し上げます。
皇太子の頃
フリードリヒ二世の本来の気質は母親に似て芸術を好む人物だった。なかでも音楽を好みフルートの腕前はプロ並で、演奏会を開く力量もあったとされる。これらは母の教育方針であったが、父は違った。
父であるヴェルヘルム一世は兵隊王、または軍人王とあだ名されるほど軍事改革で国を大きくした王で、多分やけど強さこそが全てみたいな王様だったのではないかと。そんな人物だったので自身が無教養でも成功したから、息子にも必要はないと決めつけていたのではないでしょうか?
実際、父の息子に対する言動はかなり過激でした。フリードリヒがフルートの演奏会を開くと、父は息子に対して、暴力、食事を与えない、監禁するとか。現代では間違いなく罰させられる過激な教育をしていた。フリードリヒはひたすら虐待に耐える生活を送っていました。
そんな生活を我慢できる人間になんていません。イギリス王女との縁談を聞きフリードリヒは逃亡を計画するのでした。信用できる人間を引き連れて早朝から動き出しますが、逃亡計画は筒抜けで直ぐに連行されてしまいます。このこと聞いた父はフリードリヒを処刑する意向を示した。どうしてここまで酷い処罰を受けることになったかと言うと、この頃の父王は暗殺されるかも知れないと怯えていたからです。まあ、タイミングが悪かったと。処刑されることはありませんでしたが、見せしめとして逃亡を手引きした親友が処刑されることになった。
親友が処刑される光景を窓から見ることを強制されたフリードリヒは「私を許してくれ」と叫ぶ。親友は「私は殿下の為に喜んで死にます」と言った。フリードリヒは親友の死、現実を受け入れることができすに失神してしまった。
フリードリヒは父に手紙を書いて許してもらうと、領地の管理を任されることになった。その後は父の言うことを聞き、気の進まない結婚をする代償に自由を手に入れたり、王としての教養を磨いたりしていた。
即位後
1740年にフリードリヒ二世はプロイセン王国の王に即位した。即位すると啓蒙主義に趣きを置いた改革を活発に行った。拷問の廃止、宗教の寛容、オペラ劇場の建設、フランス語とドイツ語の二種類の新聞の発行、父の時代にほぼ廃止されたアカデミーも復興されることになる。国民が住みやすくする改革の一方で、父から受け継いだ軍隊は周囲の反対を押し切って更に強化した。ただし一部の機能していなかった軍隊は解散した。
宿敵マリア・テレジア
隣国のオーストリアでは継承問題が勃発していた。オーストリアの先代の王カール6世に男の子供がいなかったので、マリア・テレジアが王位を継承するように根回しをしていました。カール6世はマリアが即位できるように相続書を作成して、イギリス、フランス、もちろんプロイセンでも承認していました。
しかし、マリア・テレジアがいざ即位すると反対の声が上がりました。これに乗じたのがフリードリヒです。自分が攻めれば他国も協力すると自負していたフリードリヒは宣戦布告もなくオーストリアに侵攻したのだ。
マリアはフリードリヒを「恩知らずのモンスター」と罵った。その後、オーストリア継承戦争が勃発したのですが、家族相続という形で相続問題を解決します。
だけど、マリアが納得するつもりがない問題があります。それはフリードリヒに奪われた領地です。マリアは長年のライバルであるフランスに、あのマリー・アントワネットを嫁がせてフランスと手を組み、さらにはロシアを味方にすることにしました。
先に先制をしたのはなんとフリードリヒ二世でした。プロイセンは20万人の兵力に対して、オーストリアは60万人。しかしフリードリヒは味方するはずだったイギリスに余力はありません。事実上フリードリヒたった一人で、オーストリア、フランス、ロシアを相手にすることになったのです。この戦争は七年戦争と言われて、七年間もプロイセンは耐えましたが、かなり追い詰められてしまいました。
ベルリンまで占拠されて絶対絶命。フリードリヒは自殺も考えたようです。そんななかで転機が訪れました。ロシアの女帝エリザベータが死去して、次の皇帝に即位したピョートル三世が面白いことに、フリードリヒ二世の大ファンだったのです。だからピョートル三世は軍を撤退させたのだ。フリードリヒはビックリしましたが、ピョートル三世に「救世主」と礼を言った。
ただ、ピョートル三世の判断は馬鹿丸出しで、ロシア国内での不安が膨らみ、妻であるエカチェリーナにクーデターを起こされて殺害されました。
七戦争の勝星の数で言えばオーストリアのほうが多かったが、プロイセン側に有利な条約を結ばせて戦争は終結した。このことで、フリードリヒ二世はプロイセンをヨーロッパ随一の強国としたのだ。
最後に
生涯の宿敵にもなったマリア・テレジアですが実は婚約の話もあるような仲でしたが、宗教の問題で最終的に破綻してしまいます。と言ってもフリードリヒ二世は女嫌いだったようで、妻との夫婦生活は一切なく、宮殿に妻が入ることも許さなかった。もし結婚をしていても、かなり仲は悪かったのではと思いました。父に虐待されていたからこそ捻くれたのかな? まあ、そもそも七戦争でフランスとロシアが敵に回ったのは、フリードリヒ二世が公の場で女性を侮蔑するような発言をしていたので、ロシアの女帝エリザベータや、フランスのポンパドュール夫人がフリードリヒを嫌っていたからです。
もっと言うと多分マリア・テレジアが王位を継承することをフリードリヒは良く思っていなかったからこそ、七戦争で自殺を覚悟するくらい苦しい戦争をすることになったやないかな。
最後までありがとうございました。