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『ヤン3世・ソビエスキ』ウィーン解放に導いたポーランドの英雄

1529年にオスマン帝国の英雄であり大帝スレイマンは、オーストリアのウィーンを包囲した。何とか守りきった守備隊ではあったが、1世紀を過ぎた頃に再びオスマン帝国による侵攻を受けることになる。条約を破り進軍を開始したのは神聖ローマ帝国だ。攻撃を受けたハンガリーは、オスマン帝国に助力を求めた。大宰相ムスタファは10万の軍勢を率いて、オーストリアの首都ウィーンを包囲した。危機的な状況を打破するために、フランス、ドイツ、そしてポーランドが援軍の要請を受ける。ポーランドの王ヤン3世は、要請に答えて進軍を開始して、彼の活躍で戦争をは事実上の勝利を達成することになる。彼がいなければキリストのカトリックは崩壊して、歴史が大きく変わっていたのかも知れない。それだけ偉業を達成したのだ。今回は、そんなポーランドの英雄ヤン3世・ソビエスキの生涯に簡単に触れていこうと思う。

 

 

 

生涯

1624〜1696

青年期

 

ヤン3世は王位とは遠い生まれであった。それでも、父は県知事や城代を務めた人物で、母の祖父には軍事司令官を務めていたので、将来を有望視される人材であることに変わりはなかった。大学を卒業したヤン3世は、見聞を広めるために、ヨーロッパ各地を兄と渡り歩く旅にでた。この旅で、各国の王侯と知り合いとなり、他国の言語を習得したことはヤン3世にとって大きな財産となる。24歳となったヤン3世はポーランド軍に身を置いて、蜂起の鎮圧に参加した。ヨーロッパ旅行で知見を広めていたヤン3世は、広い視野で戦場を動くことができたので、徹底的に戦略を練ることができた。兄が捕虜となり亡くなる中で、ヤン3世は将来を期待される青年将校として期待された。当時のポーランド王ヤン2世によって、オスマン帝国に公使として派遣されたヤン3世は、トルコ人の軍事的な習慣や、戦術を学んだ。

 

国王となる

 

ポーランドの敵はオスマン帝国だけではない。プロテスタントであるスウェーデンはポーランドをカトリックにするために侵攻してくるし、ロシアからも侵略にあっていた。特にスウェーデンからの侵略にポーランドは、苦しんだ。そんな中でオスマン帝国から国を守ることを任せられていたヤン3世は、任務を着実に遂行していた。鬱病気味であったヤン2世が王位を退くと、選挙の末に戦争で活躍していたヤン3世が王位を継承することになった。国王となったヤン3世は軍の強化を最大の目的とした。その頃ウクライナ近郊では、オスマン帝国の軍勢が怪しげな動きをしていた。新しく宰相となったムスタファが自身の地位を確立すること目的として、手始めにポーランドへの侵略を目論んだのだ。ヤン3世は軍を率いて出撃をした。ヤン3世はオスマン帝国の軍が大軍であるが、協調性がない付け焼き刃の集団であることを見抜いた。手柄が欲しくて我先にと突っこんでくるのだ。ポーランド軍の数が少ないからこその油断もあるのだろう。ヤン3世は誘導作戦や奇襲によって帝国の陣形を大きく崩すと予備隊で一斉に敵本陣を攻撃た。油断していた帝国は徹底を余儀なくされたと言う。この戦争での勝利によって、ポーランドでのヤン3世の地位と人気は確固たるものになった。

 

オスマン帝国のムスタファは敗北が許されない状況となり、数年間に渡って準備をして、オーストリアのウィーンへの進軍を開始した。

 

英雄となる

 

ムスタファが率いる率いる大軍は、20万から30万と言われている。神聖ローマ帝国レオポルト1世は安全な場所に退避して、各国のカトリック諸国に援軍を要請した。フランスからやってきたのが後に神聖ローマ帝国にとってなくてはならない軍人となるプリンツ・オイゲンの姿もあった。

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要請に応えたヤン3世は本陣を直接叩く作戦の決行を決意する。機動力を生かしたオイゲンの軍によって陽動された敵軍の空をついてヤン3世は突撃。陣形が大きく崩れた敵軍は徹底を開始、逃げ遅れた敵を次から次へと倒していき、戦闘は僅か2時間で終結したのだった。突撃たのはたった3000の兵だったと言う。二度の大敗に喫したムスタファが責任を追及されて斬首されることになり、ヤン3世はキリスト教世界を救った英雄として名声を得た。

 

その後

 

ヨーロッパで屈指の英雄となったヤン3世でしたが、ここでやらかしをする。それは反トルコ神聖同盟だ。この同盟によってオスマン帝国のとの勝利で得た報酬などを近隣諸国と分け与えることになった。ポーランドは17年間もオスマン帝国と戦い続けるが、物資的な疲弊で国力は困窮することになる。さらにロシアとの同盟策も失敗に終わり、東ヨーロッパでのロシアの地位を不動のものするばかりで、ポーランドがますます不利となるだけであった。オスマン帝国という共通の敵がいたとしても、周辺諸国との関係性は悪いままなのだ。

 

国内の問題もヤン3世は解決することはできなかった。一応ポーランドとリトアニア共和国の王であったヤン3世であったが、ハプスブルク家の介入もあってリトアニアでの権力は無に等しくなっていのだ。

 

国の再建に苦労したヤン3世は息子に王位をつかせようと動くが、これも上手くは行かずに1696年に心臓発作の末に亡くなった。王位はアウグスト2世によって引き継がれた。アウグスト2世は「強健王」「ザクセンのヘラクレス」と呼ばれた人物で、400人近くの子供がいたとされる絶倫王だったりする。その子供の一人がモーリス・ド・サックスでフランス大元帥の一人です。

 

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軍事的に優れた才能を持っていたヤン3世ですが、政治家としての才能はいまいちだったのかなという印象です。