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『北条時行』「逃げ上手の若君」の主人公の元ネタを簡単に解説

今回はジャンプ連載作品である『逃げ上手の若君』の主人公「北条時行」を簡単に解説していこうと思います。

 

 北条時行は逃げ上手です。一族の最後の一人として、宿敵である足利家に幾度も挑戦しては鎌倉を奪還して、その度に逃げ続けたのでした。その挑戦つまり挙兵は4回、鎌倉の奪還に成功したのは何と3回にもなります。しかし四回では逃げ切ることができずに、足利に捕まり処刑されてしまいます。

 

 

 

 

生まれ

 

父である北条高時は鎌倉幕府の徳宗。つまりトップの人物でした。しかし、北条時行は自身の出生時期は不明のようです。兄である北条邦時が1325年なので、それ以降であることは確実でしょう。

 

1331年に元弘の乱が起こります。この戦争が後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を目指した戦争で当初は鎌倉幕府の北条家が有利でしたが、足利尊氏の裏切りによって形勢が逆転して、父である北条高時は自害、兄である邦時は鎌倉から脱出を試みるが裏切りにあって拘束されて処刑されました。幼い時行は運良く逃れられたのでした。

 

時行、挙兵をする

 

鎌倉幕府は倒幕してしまいますが、北条家こそが国のトップであると言う考えを持つ者は多くいました、後醍醐天皇は倒幕した後も、各地で起こった反乱の鎮圧に精を出した。暗殺計画などもあったらしく後醍醐天皇は再統一に時間を費やしていた。

 

そんなかで時行は北条家に味方する武将たちを各地から集めて、挙兵しました。その軍の力が想像を絶する者で瞬く間に関東にまで侵入します。時行の勢いを止めるべく、足利尊氏の弟である直義が大軍を率いて、時行と戦うことになりました。時行は有力な的武将を次々と倒して、直義との直接対決も制して、鎌倉を占拠することに成功したのでした。この間は僅か11日の間のことだったそうです。

 

中先代

 

弟を殺された足利尊氏がこのまま黙っているわけがありません。後醍醐天皇から許可を得た尊氏は時行の討伐の為に侵攻を開始します。時行は迎え撃つべく、軍を派遣しますが、台風などによる事故で兵を失うなど、不運に見舞われることになり連敗を重ねました。ついには鎌倉まで進攻されてしまい、大敗北に喫します。時行は運よく鎌倉からの脱出に成功したのでした。鎌倉を占拠したのは僅かな期間でしたが、先代の北条、後代の足利の中間の支配者として中先代と呼ばれました。

 

再度の進撃

 

鎌倉を占拠した足利尊氏は武士が有利な世の中にする政策を打ち出していくことになり、後醍醐天皇と対立するようになり、ついには反旗を企てた。京から脱出した後醍醐天皇は、奈良県で朝廷を開いた。足利尊氏も室町幕府を開いたことで、南北朝時代に突入しました。時行とは言うと朝廷側についたとされます。理由としては北条家があっての足利であるのに、恩を仇で返すのかみたないなことが有力な理由とされいるようです。

 

1337年に時行は5000人の兵を連れて、朝廷軍と鎌倉への侵攻を開始しました。鎌倉を奪還した連合軍は勢いをそのままに各地域の有力な武将を倒して行きますが、遠征の疲れで京都に侵攻することはできずに、進路を変更したことで軍は敗北した。時行はこの戦いでも何とか逃げ通すことができたようです。

 

三度目の奪還と死

 

1352年に室町幕府は足利尊氏とその弟との間で意見の対立があり、内戦にまで発展することになりました。この混乱の中で室町幕府に対しての侵攻が再開されました。時行も鎌倉に別働隊として、戦争に参加していたようで、足利尊氏の子を破って、自身のとって三回目の鎌倉を制圧に成功したのでした。しかし、足利尊氏の軍による脅威が去ったわけではありません。援軍に要請に応えて鎌倉を離れると、足利尊氏によって鎌倉は奪還されて、京までもが尊氏の手中に治まってしまう。逃げ場を失った時行は失踪しますが、1353年に足利に捉えれて、鎌倉で処刑されました。年齢は20代中盤だったとされます。

 

 

十代のうちから足利尊氏に恐れられて、互角の戦いを続けてきたと考えると、北条時行はかなり有能な人物だったと思われます。足利尊氏も時行を恐れていたと言われています。大成はしなかったし、歴史上でもマイナーな人物になりますが、若くして亡くなり、強きを挫くような任侠的な人生は日本人が好む英雄像にぴったりです。これは漫画の主人公になりますね。