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『シモ・ヘイへ』500人以上を射殺した史上最強のスナイパー

1939年。第二次世界大戦期のロシアとフィンランドによる冬戦争では、「白い死神」と恐れられている射撃兵がいました。フィンランド兵であった「シモ・ヘイへ」は劣悪な環境下かつ、射撃精度の低い銃を使用していたのにも関わらず、100日間で500人を超える敵兵を射殺しました。その正確無比の射撃能力からロシア軍に恐れられて、シモ・ヘイへは「白い死神」と称されました。

 

 

 

生い立ち

 

シモ・ヘイへは1905年にロシアの国境近くのフィンランドの南部で生まれました。農民の子供として生まれたシモヘイへは、8人の子供の7番目で兄たちと農業の手伝いをしながら育ちました。どちらかと言うと内気なタイプだったようで、集合写真では中心に立つよりは後ろでひっそりと写るタイプだった。しかし、17歳の頃にフィンランドの市民警備隊に所属していたようで、この頃には射撃のトロフィーが部屋に幾つも飾って合ったようで、逸脱した射撃能力は既に輝いていたのでした。

 

 

1925年。シモヘイヘは19歳で兵役生活がスタート。士官学校を得て戦争に駆り出されるのでした。

 

白い死神の誕生

1939年から40年にシモヘイヘは、ロシアとフィンランドが争う冬戦争に参加します。この戦争は冬の間に行なわれもので、マイナス40°からマイナス20°と言う過酷な中での戦争で、シモヘイへは射撃技術を存分に発揮することになります。シモは太陽に反射して敵兵に位置がバレるスコープを嫌い使っていなかった。(スコープを扱う訓練を受けていなかった)また同様の理由で望遠鏡も嫌っていたようだ。前述したようにマイナス40°にもなる極寒の地なので、厚着をして砂糖とパンをポケットに隠し持って、カロリー消費を抑えていた。また口に雪を詰め込んで、自身の息によって敵軍に見つかることを避けました。このように細心の注意を払いながら、シモ・ヘイへは500人を越える敵兵を射撃して、フィンランドの英雄となったのでした。

 

戦後

1940年にシモ・ヘイへは敵軍の爆撃に巻き込まれて、顔が半分なくなる重傷を負いました。死んでるように思われたようで死体の山に積まれた。死んでいてもおかしく無い状況でしたが、足が痙攣していたことで助け出されて治療をしてもらえることになります。しかし、シモは重症だったので戦線を離脱することになります。ロシアとフィンランドの間でもシモが戦死したと噂が流れ、新聞でもシモの死が報道されたようです。意識を取り戻したシモは新聞社に自身が生きていると、手紙を書いた。

 

シモは怪我の完治に時間がかかったので戦争に参加することはなかったようです。しかし、戦争での活躍は評価されたので、名誉ライフルが贈呈されてフィンランドの最高名誉である騎士にも指名されました。

 

第二次世界大戦後には、農場を与えられて、犬のブリーダーや得意の射撃で狩猟を楽しみ生活に明け暮れた。時々催す狩猟パーティーにはフィンランドの大統領が参加するなど、英雄として人々に愛されました。その反面、シモの戦争での活躍を評価しない連中もいたようで、脅迫を受けることもあったようです。生涯を独身で貫いたシモは、自身の戦争での活躍を自慢げに話すようなこともなく、謙虚な人だった。2002年に96歳で亡くなったシモは、亡くなる直前には戦争での体験を打ち明けて、多くの人を殺めたことを後悔しているかと質問されると、「自身やみんなが同じことをしたから、今のフィンランドがある」と答えたようです。