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【項羽】中国史上屈指の覇王がなぜ敗北したのか?

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中国史上最大の覇王「項羽」は名家の出身で、始皇帝の死後に起きたクーデターに参加すると、天才的な才覚をたちまち開花することになる。20代のうちに天下を手中に収めてしまう項羽のカリスマ性に多くの人材が従うこと望み、中国史上最強の軍団を結成した。まさに敵なしの状態でだった。ところが、立場も軍勢も遥か下であった劉邦との長い戦いの果てに、軍力が逆転してしまい。まさかの逆転負けに喫してしまう。

いったい項羽はどうして敗北することになってしまったのか。今回は項羽の生涯を解説していこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

 

 

生涯

 

幼少

 

「あいつにとって代わってやる」と項羽は叫んだ。それが始皇帝の行幸を目にしてのことだったので、叔父の項梁は焦って項羽を口止めした。こんな発言を役人に聞かれたら一族が皆殺しに合うからだ。だが、項梁は歓喜した。


項羽は文字や剣術を習わせても、すぐに飽きてしまい長続きしない。項梁は項羽に期待していからこそ、怒ったこともあったという。しかし、始皇帝の行幸を目にしたときの項羽の態度は大したものである。どんなに優秀な人材でも埋もれていくことはよくあることだ。項羽の度胸と自信に、項梁は大きな期待をするようになった。成長した項羽は期待に答えるように、190センチを超える大男に成長するのだった。

 

反乱

 

始皇帝が亡くなると中華全土が混乱に陥り、各地で反乱が起きた。項梁は項羽を引き連れて反乱に参加することになる。まず、地方での権力を欲したので、役所に出向いて項羽に権力者を殺させた。このときの項羽は最強の矛として、数百人の敵をたった一人で倒したと言う。反乱軍として活動するための地盤が出来上がると、項羽は項梁の支持に従い各地の城を攻め落した。この頃、項羽は劉邦と協力関係にあり、二人で城を攻めることもあったようだ。

 

そんな中で項梁が戦死することになり、項羽が組織のトップとなる。反乱軍は項梁の代わりとなる知恵袋を用意するが、この人物が慎重であることを嫌った項羽は、文字通り切り捨ててしまったのだ。項羽は劉邦と協力して項梁の敵をとることを望むが、反対の声が上がった。項羽は確かに強い。しかし、捕虜を一人に残らず生き埋めにするなど、容赦のない人物だったので、評判が悪かったのだ。反乱軍のなかで項羽は孤立することになるが、たった一人になろうとも秦に攻撃を仕掛け続けた。

 

そんななかで秦の内部でクーデターが起こり状況が一変。誰が最初に首都を攻め落とすか競争になっていく。項羽は大軍を率いて秦軍と、真っ向から戦った。なかでも20万の秦軍を相手に大勝利をおさめたことで有名だ。項羽の軍は一人で十人の敵と戦ったと評されることになる。項羽の強さに各国の諸侯が指揮下になることを望み、項羽軍はますます強力になっていく。

 

これだけの活躍をした項羽だったが、首都を最初に堕としたの劉邦だった。劉邦は少数の軍で、なるべく敵と戦うことを避けて進軍していたので、大軍で真っ向から戦う項羽よりも先に到着していたのだ。劉邦は項羽の入城を拒否したことで、項羽は激怒して進軍を開始する。ところが劉邦は慌てて項羽と和解することを求めて、二人は酒宴の席で顔を合わせることになった。項羽は劉邦を「殺す」つもりだったが、劉邦があまりにも腰が低いので、「こいつならいつでも殺れる」と思い劉邦を許した。この判断が後々に項羽の運命を大きく変えることになる。

 

城内に入った項羽は、投降していた秦軍の有力者を次々に殺害して、放火と掠奪で首都を荒らした。しかも、捕虜20万人を生き埋めにすると言う、とんでもないことまでやってしまった。このとき項羽は20代、戦闘の才能は確かにあったが、40代の劉邦と比べるとあまりにも若すぎた。劉邦は自身に足りないものを認めて、部下の意見をよく聞く人物であったが、項羽はどうであろう? 生き埋め、掠奪、放火、とあまりにも人への扱いが酷い。その残虐性では、「民からの人気を得ることができない」と項羽は考えることができなった。

 

劉邦と対戦

 

劉邦はチャンスを伺っていた。若い頃から人に好かれる不思議な人間性を持った劉邦の元には、自然と優秀な人材が募っていた。その器の大きさから項羽ではなく劉邦が王になるべき考える人が多くいた。

 

そして、紀元前206年には、56万と言う仲間を率いて項羽に戦争を仕掛けることになる。ここから3年間に渡り、項羽と劉邦は戦うことになります。寄せ集めではあるが大軍を用意した項羽は、片っ端から劉邦軍を撃退していった。項羽は天才的な戦上手であり、自身も猛将である。たった3万人で、最大56万人の劉邦に大勝利をしてしまう。この戦いで劉邦は命からがら敗走することになり、嫁である呂后も捕虜になった。こんな決定的な勝利だけではなく、3年間に渡る長いの戦いのなかで項羽が劉邦に負けることはなかった。

 

ところが、長い戦いのなかで、先に息切れを起こしたのは項羽側でした。理由としては、項羽の残虐性を嫌い劉邦に寝返る者が相次いだことだろう。

 

項羽の元部下であり、「国土無双」と謳われた韓信の活躍もあって、追い詰められた項羽は劉邦と「天下を二分にして互いに干渉しない」という和睦を受け入れます。が、項羽はにそんな気はなかった。体制を整えたら再び進軍するつもりだったのだ。しかし、それは劉邦側も同じことだったようで、背後を見せた項羽軍に攻撃を開始した。このとき劉邦軍は30万人にまで回復していて、対して項羽軍は10万人。不利な状況に陥った項羽は700人の兵と垓下の城に立て籠もった。四方を囲まれて「四面楚歌」を悟った項羽は「死」を覚悟して、宴を開き嫁である「虞美人」に詩を送くった。項羽は大軍相手に真っ向から戦い100人の兵を倒して逃げ延びたそうだ。

 

負傷した項羽は追っ手がかつての部下であることを知ると「お前に手柄を差し出そう」と自らの首を立ったまま刎ねたと言う。

 

こうして中国史上最強の男はこの世を去るのでした。

 

さいごに

 

項羽と劉邦の能力を比べると、どう考えても項羽が優秀です。実際、項羽は劉邦に負けることなんて殆どありませんでした。ところが長期戦となってくると、勝ち続けていた項羽は追い詰められることになります。その理由は劉邦に寝返る人材が多くいたからだとされる。原因は現代で言うところの「給料が少ない」「正当な評価がされない」ことだとされています。項羽は残忍な一面がある人物ではあったが、部下にそれなりに優しい寛大な人物だった。ところが褒美を与える場面になると、急に女々しくなる。つまり現代で言うところの、給与やボーナスをケチる人物だったのだ。それに対して劉邦はケチることなく、正当な評価をしたそうです。項羽と劉邦、二人の最大の違いは他人の利益を考えることができたか。この一点だったのだ。