女性英雄の代表者と言えばジャンヌ・ダルクが一番有名だと思います。フランスで英雄に数えられるジャンヌは、ラ・ピュセルを自称して戦場に立って兵士を鼓舞したとされる。精神的支柱とも言えるジャンヌの活躍で、フランスは領土取り戻して、ジャンヌは「オルレアンの乙女」と称された。
ジャンヌは元々そこまで知名度の高い英雄ではなかったが、彼女の死後から400年くらい経った頃に現れた次世代のフランス英雄ナポレオンによって認知度が上がることになる。
世界的に知名度を上げたジャンヌ・ダルクは、各国の勇敢な意志を持つ女性達に影響を与えた。
その一人であるエミリア・プラテルは、貴族の子でありながらジャンヌに憧れ、英雄と呼ばれることになります。今回はそんなエミリア・プラテルの生涯を簡単にご紹介していこうと思います。
幼少期
1806年に貴族の子供として生まれたエミリアでしたが、9歳のときに両親が離婚したことで親戚の引き取られ養育されることになった。
充分な教育を受けたエミリアはリトアニア・ポーランドへの強い愛国心を持ち、ロシアからの独立を願うようになったと言う。そのために武器の扱い方を勉強して、射撃や馬術は熟練の腕前を手に入れた。戦術、戦略も熱心に勉強していたので、19世紀の貴族の娘らしからぬ少女であった。
ポーランドの文学や詩、民衆文化に興味を持つ傍ら、エミリアは歴史についても熱心に勉強をしていた。
なかでも、トルコからの開放を目指したギリシャの英雄ブブリーナと、フランスの英雄ジャンヌ・ダルクに強い憧れを抱いたと言う。ブブリーナの肖像画を部屋に飾り、ジャンヌ・ダルクに対しては自身の理想の生き方であると崇拝したそうだ。ロシアからの開放に対して強い気持ちがあったエミリアにとって、フランスを開放した同性の英雄ジャンヌ・ダルクに憧憬を抱くのは当然のことであったと思う。また愛国心の強いエミリアは1829年にポーランド中を回った。
11月蜂起への参戦
1830年にワルシャワの士官学校でロシア人教官の体罰によって、生徒達による反乱が起きた。長年のロシアからの圧でポーランドは国家としての力を持っていなかったが、ピョトル・ヴィソツキが若い士官を率いた反乱は、次第に大きくなりポーランドとリトアニア全体を巻き込む大きな反乱となった。フランスからも義勇兵や武器が密輸され混乱していく。
エミリアにとってこれはチャンスだったのではないだろうか。ポーランドで反乱が起こったが、リトアニアでは直接な動きはなかった、そこでエミリアは従兄弟と協力して、自らが志願兵を募って280人の歩兵と、数百人からなる農民による反乱軍を組織して蜂起への参戦を決めた。エミリアは自身の意思の強さを証明するように髪を短く切りそろえた。
ロシア軍に敗北することもあったが、従兄弟と合流して各地で反乱に参加しながらリトアニアを回った。エミリアの部隊はロシアの中隊を倒すなどの活躍もしたと言う。やがて全ての反乱軍が集結する。ここでエミリアは選択を迫られます。
フラポフスキ将軍は「ポーランド軍に女性の居場所はない。家に買えれ」とエミリアを説得したそうです。優しさでそう言ったのか、彼女を試したのかは定かでありませんが、エミリアは「私はポーランドが完全に独立するまで、戦士として戦い続けます」と軍に留まること意思を示した。20代半ばの少女と思えない発言。これに将軍は歓喜したようで来る戦いで、エミリアを連隊長に昇格させました。そして、エミリアはリトアニアの重要都市での戦いで英雄的な活躍をすることで大尉に昇進することになる。これは当時の女性としては最高の等級であり、女性であるエミリア・プラテルが歴史上の英雄達と並んだとも言える快挙であった。
英雄の死
全体で勝利をおさめることができたのはエミリア部隊くらいで、戦況は圧倒的に不利であった。最後には数で有利であったロシアの勝利が確定的になってしまう。フラポフスキ将軍は国境を越えて西方のプロイセインへの亡命を決めた。反乱軍のほとんどは亡命を決断していくなか、エミリアは「逃げるなら、死んだほうがマシ」と亡命を拒否して戦うことを決めて戦場に向かう。
しかし、エミリア・プラテルは二度と戦場に立つことはなかった。
罹患して戦場にたどり着くことなく亡くなったのだ。1831年の年末のことである。
最後に
エミリアの死はポーランド・リトアニアに直ぐに公表されることになり、彼女は蜂起を象徴になったと言う。第二次世界大戦では彼女の名前をあやかった部隊も誕生することになる。そんな感じでエミリア・プラテルは英雄と呼ばれることになるのですが、日本ではそこまで知名度は高くないと思う。
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