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【ナポレオン】逆境を糧に皇帝にまで成り上がった英雄について

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日本の歴史上には農民の子として生まれた豊臣秀吉が40年の年月を費やして天下人になりましたが、ナポレオンは僅か20年でフランス皇帝にまで上り詰めました。フランス革命によって混乱していた時代ではありましたが、決してナポレオンのスタートラインが良かったわけではありません。それでも、ナポレオンはトントン拍子で出世していったスゴい英雄の一人です。

 

「人生と言う試合で最も重要なのは、休憩時間の得点である」今回はそんな言葉を残したナポレオンを簡単に解説したいと思います。

 

 

コルシカ島でのナポレオン

 

子供の頃のナポレオンはフランスの皇帝になるなんて、これっぽっちも思っていませんでした。コルシカ島で生まれたナポレオンはそもそも生粋のフランス人ではありません。コルシカ島はナポレオンが生まれる一年前まで、イタリアの領地でしたがフランスに売られたので、ナポレオンは一応フランスの領地で生まれたイタリア系?フランス人と言うことになるので生粋のフランス人とは違いました。

 

ナポレオンの父であるカルロはコルシカ独立戦争で副官を勤めていた人物でしたが、フランスに敗戦すると立場を逆転させてフランス貴族として生きる決意をします。このおかげで、ナポレオンはフランス本土の軍事学校で学ぶ機会を与えられるのですが、子供の頃のナポレオンは父のコルシカへの裏切りを良く思ってはいないような発言をしていたといわれるくらいですので、ナポレオンのコルシカへの郷土愛は本物でした。

 

また、9才の頃には親元を離れてフランス本土の学校に通うことになったナポレオンは、フランスの貴族の子ども達に田舎者と馬鹿にされ、コルシカ訛りを先生に正すように自身の名前の発音すら否定されていました。元々勉強熱心で人とあまり関わりを持たない内気な少年だったナポレオンはますます勉強熱心になり図書館に引きこもったそうです。

 

優秀であったナポレオンは卒業に四年はかかる陸軍士官学校を一年で卒業をします。これはコルシカ人としては初で、ナポレオンは努力でエリートコースを進んでいきました。

 

ただこの頃に父親が亡くなり、ナポレオンは日記に「あてのない栄光を望んで苦しむよりも、命を断ったほうが良いのではないか」と書き記していたそうです。

 

16歳で少尉になっていたナポレオンでしたが、一時コルシカに帰郷して家族の面倒をみることになるんですが、経済的にも精神的にも苦しんでいたと時期だと思われます。

 

 

フランス革命

 

そんななかでフランス革命が勃発して、混乱のフランスからナポレオンは逃げるようにコルシカ島に帰りました。理由の一つがコルシカの英雄である、パオリがフランス革命のあおりを受けて戻って来ていたからでした。パオリとはコルシカの独立を指導した人物で、幼少期のナポレオンが最も憧れた人物でした。

 

しかし、イギリスで亡命生活を送っていたパオリとフランスで青年期を過ごしたナポレオンとでは考えたかたに違いがあり、関係は悪化。しまいには死者が出るような暴動まで起こってしまい、ナポレオンはコルシカにはいれられなくなって、フランスに帰還するのでした。

 

フランス革命によって多くの軍司令官が亡命したために、戻ったばかりのナポレオンは大尉に昇進しました。

 

ナポレオンの凄いところはコネをつくるために「ボーケールの晩餐」と言う時の権力者であるロペスピエールを支持する本を書き上げていたことです。この本がきっかけでナポレオン自身の大出世のきっかけになるトゥーロン攻囲戦に砲兵隊長に抜擢されるのでした。

 

このトゥーロンはフランス、イギリス、スペインなどが複雑に絡んだ拠点であり、攻略に成功したナポレオンの名前はフランスだけではなく、ヨーロッパ全土に名前が広まった。

 

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国内の暴動の鎮圧なので活躍したナポレオンはイタリア砲兵司令官にまで出世していき、トントン拍子で国内軍司令官といった役職にまで成り上がりました。このときナポレオンはまだ26歳でした。

 

 

英雄ナポレオン

 

オーストリアを相手に連戦連勝をしたことでフランスはイタリア北部に広大な領地を手に入れた。続いてイギリスを相手に苦戦をしていたのでナポレオンは、イギリスの植民地であるインドとの貿易を絶つために、エジプトに攻め入り、ただ勝利するだけではなくロゼッタストーンと呼ばれる歴史的な石盤を持ち帰りながら勝利しました。

 

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帰国したナポレオンはフランスではすっかり大英雄扱いでしたので、政界にも参入して第一統領にもなりました。

 

統領になったナポレオンはオーストリアに奪われたイタリアを取り返す「アルプス越え」と言う奇策を結構します。イタリアに入ったナポレオン軍は侵攻を繰り返して、オーストリア軍をイタリアから追い返すことに成功しました。

 

事実上イギリス以外の敵対勢力を潰したナポレオンは更なる飛躍を求めたのか。1804年、ナポレオンが35歳の時に、クーデターを起こしてついに自らが皇帝となったのでした。

 

 

フランス革命によって王政が終わりを告げたはずなのに、ナポレオンは時代を逆行して皇帝になりました。これはフランスの国民が求めていたのは民主主義ではなく、英雄。絶対的で有能なトップを求めていたからではないでしょうか。

 

退位

 

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「由緒ある王家出身の王と違い。私は力でしか王の座を維持できない」

 

ナポレオンの影響力はヨーロッパ全土を巻き込み、皇帝になった1804年~1815にかけてまで断続的に行われた戦争を「ナポレオン戦争」と呼び、600万人が命を落とすことになりました。

 

そんななかイギリスとロシアが条約を破ったので、ナポレオン60万人の大軍を率いてロシアに侵攻することになります。

 

この戦争がナポレオンの終わりの始まりでした。

 

ロシア軍の巧みな戦術を前に、ナポレオン軍は大敗を喫してしまい、ロシアから帰還できたのは僅か5000人。

 

この惨敗をきっかけに、ナポレオンは退位をするしかなくなり、イタリア本土から11キロ離れたエルバ島に島流しにあいました。

 

しかし、諦めないのがナポレオンでした。世界情勢が悪化したことをチャンスに思ったナポレオンは、再び軍を率いてフランスに戻り再び皇帝に返り咲くと、イギリスとプロセイン連合軍とワーテルローで戦うのでした。

 

結論から言うとナポレオンは大敗します。若い頃は先陣を立ち指揮官として巧みに指示をしていたナポレオンが、戦闘中に居眠りをしてしまうなど、指揮官としての能力は残っていませんでした。長年の重圧がストレスとなり、病魔となってナポレオンの体を蝕んでいたからです。

 

大敗したナポレオンは、セントヘレナ島に追放されてしまいました。そこでの生活は監禁生活そのもので、監視の目が光、なにもやることがない環境でした。

 

多くの逸話を残したナポレオンでしたが、1821年にセントヘレナ島で病死するのでした。

 

 

ナポレオンの真実、逸話

 

身長が低いは誤り

 

ナポレオンの身長は168センチで当時の平均的な身長と比べると決して低いなんてことはありませんでした。ではどうして低いとされていたかと言うと、ナポレオンの周りの人間に背が高い人が多かったので低く見えたと思われます。

 

 

秀才であった

 

幼い頃から勉強好きであったナポレオンは特に数学が好きで皇帝になってからも、数学者を呼んで勉強を続けていた。

 

趣向

 

ADHDを唱える人がいるほど、落ち着きがなかったとされる。一日に三時間しか寝なかったとか。毎朝、シャンパン風呂に入っていたとか。

 

まとめ

 

偉大な英雄の一人であるナポレオンの人生はまさに波瀾万丈。僕自身驚いたのは、ナポレオンが幼少の頃は内気で本の世界にのめり込んでいたことでしょうか。ただ、いじめられていたと言う逸話もありますが、授業で雪合戦をしたときは指揮官として的確の指示をしていたという逸話もあるので、少なからず誰もがナポレオンを秀才であると認めていたと思います。

 

やはり、才能がある人物は幼い頃から伝説を残しているものですが、同時に他人には想像もできない努力をしてきた秀才でもあるとも感じました。

 

 

 

 

ナポレオン 1 台頭篇

ナポレオン 1 台頭篇

 

 

 

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