鄭一嫂(ていいっそう。チェン・ツーイ)を紹介していこうと思います。鄭一嫂は娼婦であったが、紆余曲折の末に大船団の頭領になります。その規模は最盛期には1700隻、8万人を率いたと言われています。にわかに信じ難い大所帯ですが、彼女は鉄の掟によって彼らの団結力を高めて、組織を運営していったと言われています。
誕生
鄭一嫂は1775年ごろに、生まれたとされて、石陽と名付けられたようです。それくらいしか生まれについてはわかってないようです。26歳頃には広東で、水上売春宿で働いていたことは確定的である。
結婚
彼女の人生は大きく変わるのは結婚したことにある。相手は大海賊である鄭一であった。結婚の経緯は不明であるが、説としては「誘拐された」「普通にプロポーズした」とか色々あるようです。
また、彼女は結婚の条件として「対等な立場」であることを提示したと言われています。ここで言う対等とは海賊としての立場のようで、彼女は夫の海賊団でも、それなりの立場として運営に携わっていった。
夫の鄭一は元々ベトナムから報酬を得て中国船を襲撃する海賊であった。しかし、ベトナムと中国が平和協定を結ぶと、一転して追われる身となる。この背景にはアヘン戦争直前の中国での事情もあって、海賊が密輸に関わっていたことも大きく関係するようだ。
そこで鄭一は個々の海賊団が一つとなり、団結する時ではないかと、思い行動を起こした。海賊を説得して周り、七つ海賊から成る大規模な大船団の結成に、こじ付けたのだった。1700隻を超える大船団を猛威を振るうことになるが、船団にとって予期せぬアクシデントが起こった。
大海賊の長となる
それは、鄭一の死である。死因は不明とされています。戦死とも、事故死とも言われいる。大船団を率いるのは妻である鄭一嫂だ。夫の養子を族長にすると、自身は彼と再婚することで、船団での立場を確固たるものにした。
彼女は元々バラバラであり、管理が困難である船団を上手くまとめることに成功したと言われている。その方法こそが、厳しい掟であった。
・命令に背いたら、首をはなる。
・宝を横取りしたら、首をはねる。
・盗みを働いたら、首をはなる。
など厳しい掟を設けることで、大船団をまとめ上げた。また女性である鄭一嫂が、頭領になったこともあってか、許可なく女性を乱暴したら首をはねる。・美しい女性を捕虜にしたら報酬として得るか購入できた。ただし女性を手に入れた場合は、結婚して、本当の妻のように扱わなければならない。守らなければ首をはなる。と言った女性に対する配慮もしっかりしていた。
また金銭のやり取りでのルールも徹底してた。略奪した物品は商品として扱い、必ず見積もらせて、金額の20%を報酬として支払っていた。完全なる歩合制であったようだ。商品は各地の倉庫で管理をしていて、地元民から物資を購入することで互いに良い関係を築いた。
海上通行料を取ることで、縄張りにしていた南シナ海での支配権を得ていく。イギリス人からは「南シナ海の恐怖」と呼ばれるようになって行った。
解散
船団の海賊行為に、中国の皇帝は、ついに海軍を動かした。しかし、海軍は敗北して63隻も船を奪われた挙句に、捕虜となった軍人の殆どが命欲しさに、海賊に寝返ったのだ。
中国側は自分達では上手く対処できないことは、ハッキリしてたので、1809年にイギリスやポルトガルに協力を要請した。中国側としては、仮に海賊がいなくなると、その穴をイギリスやポルトガルに奪われる可能性があったが、身の振りを考えている場合ではなかった。
鄭一嫂を含めて船団はヨーロッパからの攻撃に怯むことなく、逃亡に成功したのだ。とは言え、最新の武器を調達していた中国側の攻撃によって、船団は統制を失い分裂状態になっていた。
そこで中国は恩赦と言う形を取ることで、船団の鄭一嫂を説得して、船団の解散を訴えた。これにを鄭一嫂受け入れて、17人の女性と子供を連れて、政府に出頭したのだ。こうして船団は解散することになり、海賊の一部に恩赦を与え、優秀な人材は海軍将校に任命した。
鄭一嫂の優れている点は、解散の条件を政府に提示したことだろう。「船団の全員を恩赦」にすること、そして「略奪した財宝を没収しない」ことこれによって、鄭一嫂は巨額の富を得た状態で自由の身となったのだ。
さらには皇帝から貴族の地位を得るなど、かなりの高待遇と言える。富を得た鄭一嫂は、35歳で海賊を完全に引退して、賭博場と売春宿を開業した。65歳で亡くなるまで、経営者として敏腕をふるい続けた。