ブーディカは仲間達を鼓舞して大帝国に立ち向かった。東ブリタニアを治めていたイケニ族のケルト人女王だったブーディカは、不条理な条約によって玉座をローマに奪われることになる。納得がいかないブーディカは戦う意思を固め大規模な反乱を起こしたのだった。
今回はブリタニアの女王、後にイギリスを代表する女傑をご紹介していこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。
ブーディカとブリタニア
ブリタニアは古代イギリスのことを指し多くのケルト人部族がバラバラに住んでいたとされます。ブーディカは夫のプラスタグスと共同で東ブリタニアを治めていました。ケルト人は豊かな赤い髪が特徴で、その特徴が現れていたブーディカは腰下まで赤い髪を伸ばし、背が高く、ハスキーな声をしていたようです。豪華な装飾物を身に着けることを好んでいたようで、ケルトの女王らしい容姿だった。また、高貴な出身だったようで知性があふれる女性だったと歴史家は語っています。二人の娘に恵まれてブーディカは幸福な人生だった。
ところがローマの介入によって事情は変わってきます。
ブリタニアの侵略を目的としてローマが攻めてきたのでした。当時のローマは大帝国で、田舎の部族クラスのイケニ族では戦うことなんで無謀でしかありません。イケニ族のプラスタグスは戦いを避けて、ローマにブリタニアの土地の所有権と王としての立場を認めて貰えるようにお願いしました。結果として認めてもらえるのですが、ローマが戦になると援軍を提供する義務、他国の同盟禁止、金貨は使えない銀銅のみ、王の称号は本人のみ、とか色々とローマに都合のいい条約を結ぶことになってしまったのです。
しばらくは平和な日常が続いたようですが、プラスタグスが事故で亡くなるとローマは本性をむき出しにしていった。プラスタグスは国の相続を娘に指名したりと根回しをしていたがあんまり意味はなく、ローマはイケニ族の半分の領土と財産を奪った。帝国の介入によって重税を課せられ、貴族は奴隷のように酷い扱いを受けることになる。ローマでは相続が可能なのは「男」だけと言う法律があって、それを強引にイケニ族に押し付けたのだ。
ブーディカと娘達が抗議をすると、ローマ側は武力行使にでた。ブーディカは捕らえられて鞭打ちの刑に処されて、娘達は奴隷に陵辱されたのだ。
実はこの時代では、このようなローマによる不条理な侵略はよくあったみたいだ。相続に問題があると、ローマ帝国の直接な管轄になることもあった。若い男だった場合は成長と共に少しづつ領土を返却した場合もある。イケニ族の場合は、ブリタニアを担当していたローマの長官が暗躍していたとされる。なんでも贅沢し過ぎて帝国に借金をしていたとか。とにかくイケニ族にとってローマは非道な連中であった。
ちなみにこの時代のローマ皇帝はネロでした。
ブーディカと反乱
これらのローマの仕打ちにブーディカの敵意は殺意へと変貌を遂げることになりました。ブーディカは同士を集めて、イケニ族だけではなくブリタニアの部族達を束ねてローマ帝国への反乱を起こしたのでした。
とりあえず植民地化していたカムロドゥヌムをブーディカ達は奪うことに成功する。ローマ軍は反乱が起こるなんてことは、全くの想定外で逃げるので精一杯だったようです。勢いが付いたブーディカ達はロンディニウム(現在のロンドン)を攻めたのでした。ローマの商業都市は栄えていたロンディニウムは、ブーディカ達の手によって焼き払われ廃墟となったようで、ローマの民間人は7〜8万人の被害者が出たようです。ブーディカ達は捕虜や奴隷みたいな考えもなかったようで、完全に怒りに身を任せてローマ人を徹底的に八つ裂きにしたのでした。また、ローマ人の墓も荒らし回っていたようで、相当、怒りに燃えていたようです。
ここまでされてローマが黙っているわけはありません。ローマはついに反撃に出ます。ローマは軍を整えて、大型の盾を装備して槍を投げて戦います。何よりも統制が取れていて、訓練されたローマ軍は強い。対してケルト人は軽装で、突撃しか能のない烏合の衆です。ブーディカは二輪車に乗って仲間達を鼓舞したが、戦争は大敗することになってしまいました。この戦いはワトリング街道の戦いと呼ばれ、ブーディカ連合は23万人の大軍勢でしたが、ローマ軍はたったの1万人くらいだったらしい。訓練されたローマが強すぎたんでしょうけど、ケルト人は女、子供区別なく8万人が亡くなったとされます。ブーディカは生け捕りにされて牢獄行きになりますが、毒を飲んで自害する道を選びました。
最後に
復讐に燃えたブーディカの反乱は多くの死者を出すことになり、しかも大敗していますが決して無意味ではありません。ローマはブリタニアの統治を改善したようですし、ブーディカ自身も赤毛の女王として伝説となったのでした。