ラクシュミー・バーイーはインドの国民的英雄である。北インドのジャーンシー王国の王妃だったラクシュミーは、大国イギリスの侵略に対して反旗して勇敢に戦った女王です。彼女はインド独立運動の代表的な存在であり、最も著名な人物として、現代でも人気のあるインドの英雄だそうです。世界的にも「インドのジャンヌ・ダルク」としてその名前は広まっている。
今回はラクシュミー・バーイーをご紹介していこうと思います。どうぞよろしくお願いします。
幼少期
ラクシュミーバーイーはかつてイギリスやイスラムからの侵略に抵抗したマニータ王国の末裔とされている。生まれた頃に与えられた名前は「マニカルニカ」であった。彼女は4歳の頃に母親を亡くし、父親の元で育てられることになるのですが、父は放任、或いは男として意図的に育てたようで彼女は少年に混じって育てられることになる。当時の女性としては異例であるが、字の読み書きが可能であり、さらには騎乗から剣や銃の扱いまで可能とする、優秀な兵士のような女性に成長したのだ。
この頃のラクシュミーには男友達との有名なエピソードがある。ある日、その男友達はラクシュミーを象乗りに連れて行くことを拒絶したのだ。それに怒ったラクシュミーは「見てなさい!いつかあんたの十倍の象を手に入れてやる」と言い放ったようです。王妃になったラクシュミーは誓いを覚えていたようで、男友達に象を十頭贈ったと言う逸話があるみたい。
と、ここまで書きましたがラクシュミーの幼少期のことはよくわからないことも多いみたいです。
王妃となって
ラクシュミーが公式に歴史の表舞台に登場するのは1842年にジャーンシー王国の国王ガンガハール王に嫁いだことです。結婚をきっかけに「マニカルニカ」からラクシュミー・バーイーと名前を変えた。ガンガハール王はかなりの高齢でありましたが、世継ぎがいませんでした。なので、若いラクシュミーには世継ぎである王の子供が産まれることを期待されます。二人の間には子供が生まれましたが、生後3ヶ月で亡くなってしまいます。さらにはガンガハール王も亡くなったことで王の血筋は途絶えることになった。これが結構大変なことで、ガンガハールはインドの習慣で養子を取り、ラクシュミーを摂政に指名して亡くなったのですが、これにイギリスはあまりいい顔をしませんでした。
ジャーンシー王国はイギリスからの干渉を強く受けていて、イギリスはインドを侵略する気満々だったのだ。なので条約のなかには「王が後継者を用意できなければ、王国はイギリスの物になる」みたいな条約があったので、イギリスはガンガハールの行いを違法であると決め付けてイギリスに併合されることを主張した。
実はラクシュミーは以前から養子を認めてもらえるように、以前からイギリスに手紙を送り続けていたが、イギリス側はこれを黙殺していたのだ。ラクシュミーは「王国を放棄」するつもりはないと宣言してイギリスの企てを阻止するつもりでしたが、願いは叶わず。ラクシュミーは城を開け渡すことになりました。ラクシュミーは年金を貰いしばらく静かに暮らすことになった。
インド大反乱
1857年にインド大反乱と言われるイギリスの侵略に対する大規模な抵抗する動きが起こります。イギリス側のやり方に反発を持ったインド人が徹底的にイギリス人を虐殺していくのでした。これに心を痛めたラクシュミーは自身が住んでいたジャーンシー城にイギリス人を匿うことを決めるが、勢いがついたインド兵達はイギリス人捕虜までも虐殺してしまったのです。
イギリスは混乱していくインドの統治を一時的にラクシュミーに託す決断をします。ラクシュミーはインドとイギリスの仲介役になろうとしますが、彼女も虐殺の加担を疑われ、戦う決断をするのでした。
1858年にラクシュミーは私財投じて軍隊を結成して、イギリスに対して反乱を起こしたのだ。自ら陣頭に立って、近隣の重要拠点を次々を撃退していったラクシュミーはジャーンシー城を取り返す。ラクシュミーは手綱を口にくわえて、二刀流で戦ったとされる。また戦術にも長けていたラクシュミーは、軍事的な洞察力や戦術判断は随一で、イギリス軍を大いに苦しめて多大な被害を加えたのだ。
しかし、限られたインドの戦力と大国イギリスでは圧倒的に戦力が違う。イギリス軍の限りがないような増援。他の反乱指導者とも意見が合わず、女性であることもあってラクシュミーは孤立していくことになる。
そんな中でラクシュミーは無血でグワーリヤル城を奪還すると言う伝説を残していく。だがこの勝利でイギリス軍はグワーリヤル城に大軍を差し向けることになり、前線で指揮をしていたラクシュミーは撃たれてしまい戦死することになる。ラクシュミーとライバル関係であった敵将のローズは、彼女の遺体を丁寧に葬ったと言う。1858年のことである。
最後に
ラクシュミーは死後に伝説的な存在になる。際立った美貌、カリスマ性、戦術眼、イギリスに送った手紙からもわかるヨーロッパへの知見の広さ、多少誇張された部分もあるとは思いますが才媛であったと思う。
第二次世界大戦では彼女の名前に由来した部隊が結成されるなど、彼女はインドの独立を尊重する存在として以後も語り継がれることになりました。というわけで、インドのジャンヌ・ダルクこと、ラクシュミー・バーイーのご紹介でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。