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『河上彦斎』るろうに剣心のモデルになった剣客

 

るろうに剣心の主人公にはモデルがいます。彼の名前は河上彦斎。江戸から明治にかけての激動の時代を生き抜いた剣客で、抜刀の達人だった。小柄で、女性のような容姿だったと伝えられている。

 

 

生涯

 

生まれ

 

河上彦斎は1834年に熊本(肥後)で生まれた。下級の藩士小森の子として生まれたが、養子に出されたことで、河上彦斎の名前を授けられた。16歳で花屋敷で働くようになり、勉学と剣術にも勤しむようになる。真面目な性格だった河上彦斎は、二十歳の頃にペリーが来航したことで、尊王攘夷への関心を高めた。上京を考えるようになるが、河上彦斎は武士の身分ではあるが裕福ではなかったので、仲間達と協力してお金を工面した。

 

上京

 

上京した河上彦斎は、1863年に警護の仕事につくようになった。真面目な気質の河上彦斎は朝廷からの信頼も厚かった。漫画「るろうに剣心」の主人公と同様に小柄(150センチ)で、色白の童顔、一見女性にも見えたと言う。それでも剣の腕は一流だった。我流ではあったが居合を得意とした。当時の熊本では片山伯耆流の居合が人気だったので、河上彦斎の動きも酷似したものがあったことから、伯耆流で学んだと思われているようだ。いかに警護の仕事を真面目にまっとうしても、クーデターが起こると京にはいられなくなる。環境が変わったことで、河上彦斎は地元の熊本を余儀なくされた。河上彦斎は脱藩して、つまり流浪になることで、長州藩に渡った。

 

再び京へ

 

河上彦斎が長州に帰還することを決めたが、一部の浪士は京に残っていた。その中には師匠ともいえる宮部鼎蔵を含めた仲間が多くいた。そんな彼らが新選組に襲撃される。いわゆる池田屋事件だ。多くの仲間が命を落としてしまったことで、河上彦斎は急遽、京へ向かった。

 

再び剣を振るうようになった河上彦斎は、佐久間象山を白昼堂々と殺害した。西洋かぶれが気に入らなかったからとか理由は不明である。ただ佐久間象山が幕府と政府が合体して共同で政権を握り、他国の文化を取り入れるべきだと主張する有名人であることを知ると深く後悔をした。これ以降、河上彦斎は人斬りをやめたと言われている。

 

明治となる

 

人斬りをやめた河上彦斎は幕府との戦争に身を投じるようになる。その後も、高杉晋作に賛同して、幕府との激しい戦いを繰り広げていくが、地元熊本(肥後)が幕府についたことを聞く。高杉晋作や桂小五郎に引き止められたが、単独で地元に戻る決意をした。

 

熊本に帰った河上彦斎だったが脱藩したことを罪に問われて、投獄されることになる。この期間に大政奉還、戦争の果てに幕府は倒幕した。時代は明治となり、尊王攘夷だったが者たちが役人となることで、投獄されていた河上彦斎も外交官になることができたようだ。しかし、河上彦斎は開国には反対の意見だった。新政府は積極的な開国を目指していく方針だったので、かつての仲間たちと話す機会を設けたりしたが、説得は上手くはいかなかった。

 

処刑される

 

その後は藩命によって新設の軍学校を設立して、多くの新兵の教育、育成には力を入れていくとことになります。もともと真面目は気質だったので、与えられた仕事は着実に遂行していたと思われる。血生臭い時代から離れて、新しい人生のスタートを切り、後進の育成に力を注いでいく河上彦斎でしたが人生が大きく狂うようになる。長州藩の大楽源太郎が彦斎のもとを訪問したのだ。大楽は明治転覆を狙う追われる身分で、彦斎には学生を兵力に貸して欲しいと頼み込んだのです。さすがに彦斎は拒否するのですが、哀れに思ったのか大楽たちを匿うことにした。しかし、このことが藩に知られてしまったことで、河上彦斎は逮捕されることになり、軍学校も閉鎖が決定しました。逮捕された彦斎は、様々な事件に関与しているのではと疑われることになる。もちろん河上彦斎は関与はしていないが、開国することに対しての反対意見は決して曲げなかった。新政府転覆への関与は低いが、危険分子として河上彦斎は斬首された。