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【マヌエラ・サエンス】解放者の解放者と謳われた無冠の女王

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南米最高の英雄シモン・ボリバルは、その生涯を南米独立に捧げたことで、「解放者」と呼ばれている。現代でも根強い人気を誇るボリバルではあるが、彼を陰ながら支えたマヌエラ・サエンスは、おそらくあんまり知れていない。

 

 

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「解放者の解放者」と呼ばれボリバルの良き理解者だったマヌエラは、無冠の女王としてエクアドルではかなり有名みたいです。

 

今回は「解放者の解放者」呼ばれたラテンアメリカの女傑マヌエラ・サエンス をご紹介していこうと思います。

 

 

 

生涯

 

生まれ

1797年にマヌエラ・サエンスは、エクアドルのキトで生まれた。父はスペイン人の冒険家で母は富豪の娘であったが、父は既に結婚して子供が四人もいたので、マヌエラは私生児として育った。それでも父は、たびたびマヌエラの元を訪れて、溺愛したとされる。だが、他の兄弟にマヌエラを認めてもらえるように相談したが、上手くはいかなかったようだ。

 

解放運動が活発化すると、地元のキトを離れる事になる。多感な時期に入っていたマヌエラにとって、環境が変わることは大きな分岐点であった。黒人の奴隷や学友との出会いで、馬術、古典、英会話はもちろん、タバコや飲酒、恋愛を覚えた。

 

独立運動に興味を持ち始めたのもこの時期であった。いい所のお嬢様だったはずのマヌエラは、激情を抑えられなくなる。両親に心配されたマヌエラは修道院に送り込まれるが、軍人と駆け落ちした。まあ、すぐに母の元に帰ってきたようだが、マヌエラの本質が既に開花してると思えるエピソードである。

 

青年期

二十歳頃になるとアメリカの商人と結婚した。旦那とは20歳近く離れていたこともあり、マヌエラは大切にされた。資産家でもあった夫と豪邸に住むことになったマヌエラだったが、スペインからの解放、革命活動への熱意が冷めた訳ではない。豪邸に人を呼んでは政治に関しての会合を続けていたそうだ。ただ、駆け落ちした軍人との関係も続けていたようで、マヌエラは田舎に戻ることになってしまった。

 

母が亡くなると、彼女の元に多額の財産が入った。マヌエラは負傷者の手当てや、物資の提供など、本格的に運動に参加することになり、ついに英雄シモン・ボリバルに会うことになった。エクアドルの解放を成したボリバルの入城行進で、マヌエラはうっかり花束をボリバルにぶつけたらしい。その夜の祝賀会でマヌエラとボリバルは出会った。花束をぶつけらた話から会話が弾み、二人は生涯続く愛の関係を築くことになる。

 

同行

マヌエラはボリバルの軍事遠征に参加するようになった。赤と黒を基調にした服装に身を包み込んで、得意の馬術でボリバルと同じ道を進んだ。マヌエラは書類関係の管理し時には助言することで、ボリバルを支えた。この時、既に結核を患っていたボリバルにとって、マヌエラの存在は大きかったと思われる。寝たきりになると、マヌエラが読み聞かせることもあったようだ。

 

しかし、マヌエラは優秀であり勤勉過ぎたので、ボリバルは時間を持て余せた。それで浮気をしたので、マヌエラは激怒してボリバルの耳に噛み付いたらしい。ボリバルは10通にも及ぶ謝罪の手紙を送ることになった。歯形が付いた耳は、トロフィーであると部下に自慢したそうだ。ボリバルからかなり信頼され愛されたマヌエラは、周囲からも「ボリバルの女」と認知されるようになった。

 

英雄の死

シモン・ボリバルは革命家として成功したが、彼の存在を危険視して敵意を持つもの多くなってきた。このことでボリバルは暗殺の危機に晒される事になる。

一度目は仮面舞踏会の時であった。事前に暗殺計画を知ったマヌエラは、泥酔した姿で舞踏会に現れたので、ボリバルは嫌でも帰るしかなかったらしい。

 

二度目は二人が住む屋敷が襲撃されたときであった。飼っていた犬が吠えたことで敵の侵入に気づいたマヌエラはボリバルを起こして、武器を持たせ窓から外に逃した。マヌエラは一人で侵入者と対峙して、殴られながらもボリバルは帰宅していないと訴えたそうだ。侵入者が去った後に、二人は落ち合った。ボリバルは勇敢なパートナーを「解放者の解放者」と讃えた。

 

1830年になるとボリバルは公務を引退することになった。それを聞いた政敵の男は、ボリバルを侮辱するために、愛人であるマヌエラの肖像画を公の場で焼く計画を企てた。マヌエラはその公の場に乱入して、肖像画を壊して政敵に恐怖心を植え付けた。

 

そして、ボリバルが引退してもなお敵意を私に向けようともボリバルへの尊厳と友情は揺るがないと、新聞で発表した。その年にシモン・ボリバルは亡くなることになる。

 

マヌエラはボリバルと同じ場所に行くことを望んで、毒蛇に自身を噛ませるが失敗して、50歳以上生き続けた。マヌエラは死後に、解放の尊重として伝説となり、ボリビアでは無冠の女王として有名となった。